秀頼は秀吉の子か

秀吉は常人と比べれば、はるかに多くの女性と愛し合うことができた。けれども、こうした環境にもかかわらず、秀吉は一人の子も授からなかった。女に囲まれて52歳まで過ごし、それでも子のできなかった男に、53歳になって、一人の女性、茶々(淀君)との間だけに、子宝に恵まれた。そんなことがほんとうにあるのだろうか。捨・棄(鶴松)が死去すると、たちどころに身代わりのように拾(秀頼)が誕生している。秀吉はすでに57歳だ。このふたりの組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。秘密があるとみるべきだろう。

自分には実子が生まれることはない。それを一番よく知っていたのは当の秀吉である。50歳をすぎても、いつの日にか、必ず子どもが生まれると信じていた、そんなことがあるはずがない。秀吉は自らの肉体的欠陥を承知し、実子が授からないことを前提に行動した。秀吉は好色だったけれど、それだけの男ではない。無から頂点にまで昇りつめた秀吉の知恵は、常識では計り知れない。


文禄元年(1592)4月25日 秀吉は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に着陣した。

文禄元年(1592)7月22日 関白秀次からの書状で母大政所(仲)の危篤が知らされ、秀吉はその見舞いのために名護屋城を発しているが、大政所はその日、大阪城で息を引きとっている。

文禄元年(1592)8月2日 京都大徳寺で大政所の葬儀を行う。

文禄元年(1592)10月1日 秀吉は大坂を再出発して名護屋城に向かった。

文禄元年(1592)10月30日 博多に到着。

文禄元年(1592)11月5日 名護屋で茶会をした。

文禄2年(1593)8月3日 秀頼の誕生

妊娠すれば受胎日から標準266日(10ヶ月)で出産する。ほとんどの人は予定日プラスマイナス15日の間で出産する。
受胎想定日は、文禄元年(1592)11月4日頃。

茶々が秀吉の子を妊娠したのなら、茶々は秀吉と一緒に大坂から備前名護屋まで同行していなければならない。

ところが茶々は、大坂城二の丸にいたと考えられる。
秀吉に同行した女性は京極龍子(松の丸殿)である。


大野治長説(通説)

大野治長は、茶々の乳母にあたる大蔵卿局の息子であり、茶々とは乳兄弟ということになる。

『明良洪範 (めいりょうこうはん)』

『明良洪範 (めいりょうこうはん)』は幕臣真田増誉の逸話集で、正徳(1711〜1716)頃までの幕臣らの事績記録で、近世初頭の伝聞記事を集成したものである。
国会図書館「近代デジタルライブラリー」79/301 コマ番号79

豊臣秀頼公は秀吉公の実子にあらずと竊(ひそ)かにいへる者ありしとぞ、其頃占卜(せんぼく)に妙を得たる法師有て、かく云い初(そ)めし也(なり)。
淀殿大野修理(治長)と密通し、捨君と秀頼君を生せ給ふと也、秀吉公死後は淀君弥(いよいよ)荒婬(こういん)になられし事、大野も邪智(じゃち)淫乱(いんらん)且(かつ)容貌美なれば也、
名古屋山三郎 ( なごやさんさぶろう )が美男成(なる)に淀殿思いを懸け、不義の事有ける也、大阪の亡びはしは偏(ひとえ)に淀殿不正より起りし也


*名護屋(名古屋)山三郎
桃山時代のかぶき者。蒲生氏郷の小姓として仕え、のち浪人したが美男として浮名をながし、出雲のお国の愛人となってお国歌舞伎の演出家・役者を兼ねたと伝える。絶世の美男子。
山三郎の父は名護屋因幡守高久(なごやいなばのかみたかひさ)は織田信長の 従兄弟で、母は養雲院(よううんいん)で織田信長の姪にあたる。山三郎と淀君はまたいとこになる。

要旨
秀頼公は秀吉公の子ではない、と占い師がいいはじめた。大野修理(治長)が捨君(鶴松)と秀頼君の父親である。


上田秋成(1734〜1809)の随筆 『胆大小心録』その131より

淀君は、敵方の浅井長政の娘を召したもので、恩寵が特に深かった。
淀君も容姿が優れているだけではなく、色を好む性質があり、後には大野修理を招いて侍らせ、倫理を乱したものだったので、「豊臣の天下はこのせいで失われたようなものだ」と、憎む人が多かった。
片桐且元は、淀君に深く思い焦がれて、人のいないところで、手を捕らえたが、それを払い除けた為、怒り憎んだが、遂に恨めしく思って、敵に回った理由は、これだとも伝えられている。

色に乱れて国を失い家を滅ぼした人は、日本でも中国でも数限りない。天下にかかわる人はもちろん、卑しい身分の我々も、よくよく心に戒めるべきは、この一つに尽きるだろう。


淀君と大野永治との恋愛は秀吉死後のこととする見解がある。


卜筮(ぼくぜい)法師の子説

天野信景(1661〜1733)の『塩尻』巻26(日本随筆大成第三期1454頁)

豊臣秀頼は秀吉の実子にあらず、大野修理の子かと疑いけるとなり。されど其実は当時卜占(「ぼくぜい)の為に籠(こも)せられし法師あり。淀殿これと密通して棄君(鶴松)と秀頼を生ぜしとなん。大野は秀吉死後に淀殿に婬(いん)しける。淀殿は容貌美にして、邪智婬乱なりし、名古屋山三郎が美男なりしにも思ひをかけて不義のことありける。凡そ大坂滅亡の起こりひとつに淀殿にあり。


民俗事例 子が授かる方法
参籠(おこもり)がある。子宝が授かるように神仏に願掛けをして、通夜参籠(おこもり)をする。満願(日数を定めて神仏に祈願する最終日)近く、毎日毎夜の読経三昧で宗教的陶酔が頂点に達すると、妻が法悦を体験し、やがて子が授かった。子は神、仏の申し子として、大切にされた。神仏と一体になることが必要であり、それさえあれば、罪悪感などなかった。

宮本常一 『忘れられた日本人』  「太子の一夜ぽぽ」
河内大子堂四月二十二日会式の夜での、男女の自由な交渉である。この日に授かった子は、太子の申し子として大切に育てられた。


九州大学比較社会文化研究院名誉教授の服部英雄氏の見解
鶴松、秀頼の二人のうち、少なくとも鶴松は、秀吉が承知したうえで、秀吉以外の男性の子だねによってできた子だとみる。不義密通ではない。むしろ秀吉自身が指示・命令した結果の子である。
通夜参籠(おこもり)と同じ装置が設定された。聚楽城または大坂城の場内持仏堂が参籠堂となった。宗教者が関与したと想定する。宗教的陶酔をつくり出すプロは僧侶ないし陰陽師だった。
子宝が授かる祈祷が行われた。徹底管理はされた。だが完全な秘密管理下でも不自然さはゆがめない。秀吉に子が生まれるとき、誕生前から多くの人が疑った。鶴松の誕生前と拾(秀頼)の誕生後には、不可解な事件が起きて、犠牲者が多数出ている。風聞・うわさに対する秀吉の管理・対抗措置には尋常ならざるものがあった。

捨(秀頼)誕生は茶々の独断に近かったか、ないし秀吉の内諾を完全には得ていなかった。

関ケ原の合戦にて、秀吉血筋のもの、浅野長政、福島正則、加藤清正、木下勝俊らがみな東軍について、徳川家康政権の樹立に荷担した。幼少時から北政所(寧)に育成され、いったんは秀吉の後継者とされながら小早川家に養子に出された秀秋も同じである。高台院(寧)は大坂城や秀頼に距離を置いた。秀吉が自分の子であるといえば、秀頼は秀吉の子なのだ。多くの大名がそれに従ったけれど、秀吉に近ければ近いほど、受け入れがたい感情が残った。
秀吉が異様なまでに秀頼の後見を大老に依頼し続けたことも、実子ではないことを大老たちが暗に承知していたからだとみることもできる。そしてあっけなかった豊臣家のの瓦解・滅亡も説明できる。

服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社 2012)
磯田道史 『日本史の内幕』(中公新書 2017)

実子説
桑田忠親 『太閤豊臣秀吉』(講談社文庫 1986)

太閤は、淀君のほかに十数人の愛妾(あいしょう)をかかえていた。しかし、どういうものか、太閤の子供を産んだのは、淀君一人だけである。これは、偶然の現象だろうか。
わが子に恵まれぬ太閤のなやみは、かなり、深刻だったにちがいない。糟糠の妻(そうこうのつま:貧しいときから一緒に苦労してきた妻)には、いつまでたっても子がさずからない。それでは、女を変えたならば―――。そう思うのも無理ではなかろう。そこで、太閤の女狂いや女狩がはじまった。彼が妻以外の女を欲したのは、色恋ばかりでなく、もっと真剣なものがあったとする見かたもある。
それにしても、淀君に二人もの男児を産ませた太閤が、どうして、ほかの愛妾に子をもうけさせることができなかったか。このなぞが、逆に、淀君密通の風説を生むにいたったのである。
太閤には、元来、子だねがなかった。だから、淀君の産んだ秀頼は石田三成か、大野治長か、または、歌舞伎役者の名古屋山三郎の子であった―――というような巷説(こうせつ)まで生まれた。また、子だねはなくもないが、あそこが大きいため、または、あやしげなやまいにかかっていたせいで、子ができなかった―――というような、もっともらしい伝説さえ生じた。
しかし、こんなことが、もし、太閤の耳にはいったとしたら、どうだろう。
「鶴松や秀頼が、万一、おれの子供でなくて、不義密通の子だったとしたならば、おちゃちゃ(淀君)の細首は、とうの昔にすっ飛んでいるはずだ。愛妾だとて、ゆるしはせぬ。石田も大野も、むろんだ。もっとも名古屋山三郎なんてやつは、聞いたこともない。おちゃちゃに鶴松と秀頼を産ませた、このおれが、ほかの妾に子をはらませなかったとは―――ふうん、頭の悪いやつらがそろったもんだ。そんなやつらが歴史家づらしているとは、あきれて、ものがいえぬ。おれの時代に生きていたら、もちろん、打ち首だ」
太閤が怒るのも、無理はない。事実、彼には、鶴松と秀頼のほかに、秀勝というのと、もう一人、女子がいたからだ。
元亀元年(1570)というと、太閤が、まだ木下藤吉郎といって、主君信長にしたがい、浅井・朝倉の連合軍を近江の姉川にやぶった年だ。そのころ、彼は、ある女に男児を産ませたらしい。
それから数年たって、浅井・朝倉をほろぼすと、信長から、歴戦の功を賞せられ、近江北三郡十二万石をあたえられ、長浜の城主となった。女は、正式に妾となって、南殿とよばれ、男児は石松丸と名づけられた。
石松丸は、まもなく、羽柴秀勝とあらためたが、僅か七歳ぐらいで、病死している。

福田千鶴 『淀殿』 (ミネルヴァ日本評伝選 2007)
秀頼は秀吉は子(実子)にまちがいない。秀吉は残忍なまでに嫉妬深く、淀殿は「貞淑」で、「密通」などできるはずがない。

小和田哲男 『北政所と淀殿』 (歴史文化ライブラリー) 
太田牛一の『太閤さま軍記のうち』での北政所を淀殿と解釈して、淀殿は秀吉と一緒に名護屋城に行ったとしている。

関東での吉例により、北政所、佐々木京極さま(京極龍子:松の丸殿)に孝蔵主(こうぞうす:寧に使え奥向きの執事)、おちゃ(阿茶局:家康の大奥の女官)を添えられ、服部土佐、御牧勘兵衛、大野木甚之丞、稲田清蔵、荒川銀右衛門、太田又助が供奉し、輿の数は五十以上、馬上の女たちは百騎以上の美々しき装いであったという。