富士山

 2005年8月12日(金)、13日(土)に富士登山を行った。7時30分新宿発の高速バスを利用し2時間25分で富士吉田口の五合目まで直行しました。五合目は既に2305mあり、富士山頂の3776mまで1471mの標高差があります。高度に体を慣らすようにゆっくり歩くのが富士登山こつのようです。団体登山者と外国人登山者が多いのが他の山ではみられない富士登山の特色のようです。数十人の団体登山者の先頭にはガイドおり、ゆっくりした歩調で進んで行きました。同じような団体が次から次えと眼前を通り過ぎていきました。外国人の登山者が多いので、山の案内も英語、中国語、朝鮮語で行われていました。登山の標識にも"Never give up"と英語の表示がありました。
 とにかく日本を代表する富士山を登ろうと、天気があまり良くなかったにもかかわらず、登山者の行列が続いていました。

 富士山は、古典に不二山、不尽山、不死山と書かれていることがあります。
 不二山は、ほかに並び立つものがない唯一の高峰という意味です。不尽山は、山の頂の雪が年中尽きることがないということです。
 不死山は、不老不死の伝説からきています。徐福は秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の妙薬を追い求めた。徐福が目指した蓬莱山とは富士山のことであっただろう。徐福は富士山で不老不死の妙薬を追い求めたに違いない。
 また、富士山は、士(つわもの)に富む山という意味があります。『竹取物語』の最後に「つわものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山をふじの山とは名付ける。」とあります。
 そのほかフジの表記を福慈、不盡、不自、布士、布時、布自があてられているものがあります。

八合目を登ってくる登山者 宿泊した八合目蓬莱館での白曇
雲の切れ目から山中湖が見えた。 下山道から見た七合目付近
雨の富士山頂

万葉集には、富士山を賛美した山部赤人の叙景歌があります。山部赤人は奈良時代の聖武天皇朝の宮廷歌人です。                                                                
   山部宿祢赤人やまべのすくねあかひと不尽山ふじさんを望み歌一首 短歌をあはせたり

天地あめつちの 分れし時ゆ かむさびて 高くたふとき 駿河なる 富士の高嶺を
天の原 振りけ見れば 渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず
白雲しらくもも い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は

                                                                 (万葉集巻第三 三一七)
   反歌
田子の浦ゆ うちでて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける

                                                                 (万葉集巻第三 三一八)

(現代語訳)
天地が分かれた時から神々しく高く貴い、駿河にある富士の高嶺を大空を仰ぎ見ると、空を渡る太陽の姿も隠れ、照る月の光も見えず、
白雲も進むことをためらい、季節にかかわりなく雪は降っている。語り継ぎ言い継いで行こう、富士の高嶺は。

田子の浦越しに打ち出て見ると、真っ白に富士の高嶺に雪が降っていることだ。
                                        

「白雲なびく駿河台・・・」の明治大学の校歌の歌詞は、この歌からヒントを得てできたのではないでしょうか。
駿河台の地名の由来は、当初は神田台と呼ばれたが、家康の死後、駿河から徳川直参の家臣を呼び寄せ、この地に住まわせたことによります。

万葉集には、噴火活動をしていた富士山が歌われています。
   不尽山ふじさんみし歌一首 短歌をあはせたり

なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみなかゆ で立てる 富士の高嶺は
天雲あまくもも いきはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もてち 降る雪を 火もて消ちつつ
言ひもず 名付なづけも知らず くすしくも います神かも 石花の海と 名付けてあるも その山の つつめる海そ
富士川と 人の渡るも 水のたぎちそ 日本ひのもとの 大和やまとの国の しづめとも います神かも 宝とも なれる山かも
駿河なる 富士の高嶺は 見れどかぬかも
                                                            (万葉集巻第三 三一九)
   反歌
富士のに 降り置きし雪は 六月みなづき 十五日もちぬれば その降りけり
                                                                 (万葉集巻第三 三二〇)

富士のを 高みかしこみ 天雲あまくもも いきはばかり たなびくものを
                                                                 (万葉集巻第三 三二一)
   右の一首は、高橋連虫麻呂の歌の中に出づ。類を以てここに載す。

(現代語訳)
(枕詞 なまよみの)甲斐の国と(枕詞 うち寄する)駿河の国と、両方の国の真ん中からそびえ立つ富士の高嶺は、天雲も進みかね、
飛ぶ鳥も飛び上がらない。 燃える火を雪で消し、 降る雪を火で消しつつ、言うことも名付けることもできない、霊妙であられる神である。
石花(せ)の海と名付けてあるのも、その山の包み囲んでいる湖水だ。富士川と呼んで人の渡るのも、その山から流れ出る激流だ。
(枕詞 日の本の)大和の国の、鎮護ともまします神だ。国の宝ともなっている山だ。駿河にある富士の高嶺は、見ても見飽きることがない。

富士の嶺に降り積もった雪は、六月十五日に消えると、その夜のうちにまた降り始めるのだ。

富士の嶺が高く恐れ多いので、空の雲も行くのをためらってたなびいている。

(注)
石花(せ)の海 : 現在の精進湖と西湖に相当する。貞観六年(八六四)の富士山の大爆発によって精進湖と西湖の二湖に分断し、青木ヶ原ができた。  

更級日記で父菅原孝標が上総の国司任期満了で京への旅での富士の山 寛仁四年(1020)
富士の山はこの国(駿河)なり。わが生ひ出でし国(上総)にては西おもてに見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の、紺青を塗りたるやうななるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣(きぬ)に、白き衵(あこめ)着たらむやうに見えて、山のいただきの少し平らぎたるより、けぶりは立ちのぼる。夕暮は火の燃えたつも見ゆ。   

松尾芭蕉が江戸から郷里伊賀に向かう折、雨の箱根の関での一句
関越る日は雨降て 山みな雲にかくれけり

 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ おもしろき


                   (松尾芭蕉 『野ざらし紀行』)