江戸時代の中野

五代将軍徳川綱吉(1680〜1709)

中野御囲

貞亨2年(1685)に「生類憐みの令」を出した綱吉は戌年生まれのため、とくに犬の愛護が強調され人々は綱吉を「犬公方」と呼んだ。「生類憐みの令」は、綱吉が死去するまで24年間つづいた。戌年の元禄7年(1694)からは強化、頻発され、ついには飼犬をすてたり殺したものが死刑に処せられた。また、犬を飼うわずらわしさに犬をすてるものが多くなり、江戸市中に野犬が増加した。このため幕府は犬小屋をつくって野犬を収容した。喜多見村の犬小屋には元禄5年(1692)に述べ13,878匹が収容された。元禄8年(1695)に大久保・中野に犬小屋が設置された。大久保は2万5千坪、中野は16万坪の敷地であった。中野では広さ25坪の御犬小屋290棟、7.5坪の日除け場295棟などが設けられ約8万2千匹の野犬が飼育された。建築費用は20万両におよび、1年間の飼育料は約10万両も要した。1両10万円で換算すると、飼育料だけで年間100億円になる。犬小屋の運営費用として、江戸町人に小間こま1間に金3分ずつを割当て、関東農村へも犬扶養として高100石に1石ずつをださせるなどした。

八代将軍徳川吉宗(1716〜1745)

桃園春興
享保20年(1735)に吉宗は中野村の犬小屋跡地に桃の木50株を植えさせたのをはじめに、数次にわたり紅白の桃の木を植えさせた。11軒の茶屋を建てることが許され、庶民に開放された。こうして中野村桃園は、同時期につくられた王子飛鳥山、墨田堤、品川御殿山、小金井など桜の名所とともに親しまれ、その後の花見文化の形成に大きくかわった。
この絵では、桃のはながまっさかりである。今、花見の一団が毛氈もうせんを敷き、お花見の宴を始めようとしている。左の下僕が肩にしている荷の中はお茶の道具であろう。

宝仙寺
享保13年(1728)交趾国こうちこく(ベトナム)から雌雄二頭の象が献上された。この二頭は長崎に上陸したあと、まもなく雌象は病死してしまった。残る一頭のみがはるばる陸路を東行し、まずは京都では天覧を賜った。従四位の位を授けられたという。江戸では将軍が上覧した。その後は中野で飼育され、20数年を生き延びたらしい。死んだ象の骨は宝仙寺に納めたという。二王門の大路は、青梅街道である青梅近辺で産出する石灰を運び、江戸城や大名屋敷、町家の需要におうじていた。