茂呂遺跡・栗原遺跡

 4月9日(土)にテニスで利用している都立城北中央公園で行われた茂呂遺跡・栗原遺跡県学会に参加しました。

城北中央公園は南側は石神井川、北側は田柄川に挟まれた台地上にあり、川の水を利用して生活しやすい場所にあり、旧石器・縄文・弥生・古墳・奈良・平安の遺構・遺物が出土しています。


茂呂遺跡は、昭和26年に当時中学生だった瀧澤浩氏が、石神井川流域の独立丘陵オセド山を南北にに貫く栗原新道の切り通しの関東ローム層の断面から黒曜石の石器が露出しているのを発見しました。

群馬県の岩宿遺跡が昭和24年に発見されていますから、2年後のことになります。

茂呂遺跡

 茂呂遺跡から出土した黒曜石

関東ローム層は南関東では上方から立川ローム、武蔵野ローム、下末吉ローム、多摩ロームの順で堆積している。

 立川ロームはV(3)層から](10)層に分離されており、
茂呂遺跡のW(4)層には約2万9千年前〜2万6千年前の鹿児島県姶良(あいら)カルデラが発生源の姶良丹沢パミス(AT)が包含されています。(以前は約2万5000年前〜2万年と考えられていた。)

茂呂遺跡は姶良丹沢パミス(AT)の上層にあります。

当初は丹沢山地分布していることから丹沢軽石(丹沢パミス)と名付けられ、その後1970年代に姶良カルデラが起源であることがわかり、姶良丹沢パミス(軽石)と呼ばれるようになった。

「茂呂型ナイフ」の名称がつけられ、全国的に知られて編年指標として用いられています。

縦長剥片を素材とし二側縁加工の施されたナイフ型石器。

 黒曜石の産地は神津島の無人島恩馳島(おんばせじま)だと推測されていました。

 




 栗原遺跡は、昭和30年に立教大学が総合運動場を建設する工事中に遺跡が発見されて発掘調査されて、このあたりの旧小字「栗原」が遺跡名になりました。

旧石器、縄文、弥生、古墳時代末〜奈良・平安時代の住居跡が見つかっています。

栗原遺跡
復元された奈良時代の竪穴住居跡(H9号)

昭和31年に東京大学教授藤島亥治郎(がいじろう)教授により設計されました。

柱穴は4か所あり、住居跡は地表から50センチメートルの深さに掘られていました。

炉と竈(かまど)の両方を備えていました。

H8号の住居跡は埋め戻されていました。

4本の主柱はクリ、梁はケヤキが使用されています。