岳人冠松次郎と学芸官中田俊造
戦前期における文部省山岳映画

 北区にゆかりのある登山家冠松次郎(かんむりまつじろう)の生誕130年を記念して北区飛鳥山博物館で行われている春期企画展を見てきました。本企画展では冠松次郎と文部省山岳映画との関わりがテーマになっていました。山岳映画の中心人物であった文部省の中田俊造の事跡や撮影技師白井茂の証言をもとにして展示が構成されていました。

映画「黒部峡谷探検」 文部省撮影隊集合写真
昭和2年夏黒部川本流川原にて
冠松次郎(1883-1970)
大正14年(1925)8月に黒部川下廊下を初めて遡行した登山家で知られている。

中田俊造(1881-1971)
文部省の専門官(学芸官・社会教育官)として大正末期から昭和初期にかけて、社会教育の分野で映画の重要性に着目し、映画を教育手段として普及させた先覚者です。

白井茂(1899-1964)
撮影技師

宇治長次郎(1872-1945)
山岳案内人頭


 登山家冠松次郎(1883-1970)は、大正末から昭和初期にかけて滝野川町中里(北区)で「よろずや冠質店」(大正11年開店)を営業していた。

大正14年8月 黒部峡谷下廊下を完全に遡行することに成功する。

昭和2年から5年間続けて文部省から請われて文部省山岳映画の製作に加わっている。冠松次郎の活躍ぶりを知った文部省から黒部峡谷の記録映画を撮影するための案内役の依頼があり引き受けることになった。

・昭和2年 「黒部峡谷探検」
黒部でよかつたのは東谷を中心としてゞあつた。東谷落口附近は森林が立派であつて、純白に浸食された花崗岩の壁と岩とが錯綜してゐる。その間を黒部の流れが様々な姿態で踊り狂つて行く。岸邊(きしべ)に乗り出してゐる岩丘の甌穴(おうけつ)には東谷の出湯が、その靈泉(れいせん)が滾々(こんこん)として湧き出てゐた。恰度(ちょうど)西洋風呂の形で一人づヽ入れるやうになつてゐる。湯に涵(ひた)りながら流れを掬(く)むことも出来る。月に砕くる激流の美しさも見られた。十字峡も凄かつた。今日道が拓(ひら)かれている反對側の右岸に突き出してゐる岩の丘から初めて剣沢落口の滝と釡を見たときにはカメラマンは動こうとはしなかつた。御山谷を中心としたあの優美濶大(かつだい)な景色を見て黒部にもこんなやさしい景色がと一行は悦に入った。この時の内蔵の助平は丁度開花期の見事な自然の花園で、トーキーがあつたらあの小鳥の楽園の啼鳥(ていちょう)のよさが傳へられたのにと今考えても惜しいと思つてゐる。

・昭和3年 「剣岳」
剣岳では大日岳東面の雪庇がすばらしかった。内蔵の助のカールのあの椀状の大きな銀白の雪の窪の上を雲影が縞を描いて、その中をザイルに縋(すが)つて降りて行く一行の影が美しくひかれた。剣の三ノ窓ではカメラを据(す)ゑたなりにして暁と夕の剣の影を収めた。よく晴れた日で雪渓の上から山も岩も白樺の林も畫(え)のやうにくつきりと浮きだしてゐた。五月雲(さつきぐも)が後立山を壓(あつ)して白金色の潮をひた寄せてゐる。この時には熊とカモシカを見た。急いでカメラを擔(かつ)ぎ出す時分にはカモシカは逃げてしまひ、熊は距離があったので畫(え)にはならなかつた。

・昭和4年 「赤石岳」
初夏の赤石岳では、天龍の川下り、遠山川の新緑、下栗を中心としたあの暢びり景色など強い印象となつて残つてゐる。聖から赤石につゞく山の景色もよかったが、兎岳の泊り場から見た朝と夕の富士の姿が最も嬉しかつた。

・昭和5年 「鹿島槍ヶ岳と下廊下」
鹿島槍の東尾根の初登攀では随分苦しんだ。岩小屋澤岳の支脈から黒部へ下りたときには、立山の姿や黒部別山の山壁の立派さに夢中になってゐる中に日が暮れてしまひ、たうたう絶壁の突端で灌木に身體を縛して一晩つくばつてゐた。黒部へ下りて見ると生憎(あいにく)水が大きいので渡渉が出来ず、急造の籠渡しを造つて対岸にうつつた。

・昭和6年 「尾瀬」
尾瀬は又趣を異にした軟(やわ)らかな景色を見せてくれた。朝夕の尾瀬沼の感触、船を湖心に泛(うか)べて撮影機を向けて鶴を追い廻した。あの湿原では二日以上を費やしてアヤメ日光黄菅(きすげ)の、美しい広茫(こうぼう)とした湿原を、至仏山をバックにして池塘をとり、その中で風に漂ふひつじ草やネムロカワホネの媚態(びたい)を撮った。忘れ兼ねるのは沼からとりたてのジュンサイを酢にして、岩魚の塩焼で氷のやうなビールを傾けたその味である。

その映画製作を指揮したのは文部省の専門官(学芸官・社会教育官)であった中田俊造(1881−1971)です。
関東大震災(大正12年9月)直後の被災地を記録した「関東大震大火実況」全五巻は文部省が企画した最初の映画だった。この作品以降約300種に及ぶ文部省映画が作成されたが、戦前まで全作品の企画・政策に中田は関与することになった。今日中田が映画教育の先覚者として評価されている。

いずれの映画の撮影技師は白井茂(1899-1964)であった。日本の記録映画撮影の泰斗である白井茂は大正14年に初めて山岳映画に手を染めて以降、一連の冠松次郎が現場指導をする山岳映画に関わった。