玉の井

 2010年1月31日(日)、永井荷風の墨東綺譚の舞台になった玉の井を訪ねる。浅草から東武伊勢崎線で東向島で降りる。東向島駅は玉ノ井駅の名称だったが昭和62年(1987)に駅名が改称された。玉の井の由来は、、明暦(1655〜1657)の頃この辺りの代官だった多賀藤十郎の妾の「お玉さん」にちなむ。 「井」は、湧水池、井戸、水路、用水、湿地を表す。その藤十郎の屋敷跡が再開発されて「向島百花園」となったという。東向島駅から高架沿いに鐘ヶ淵方面に200mくらい歩くといろは通り商店街の入口になります。

墨東綺譚(墨東は向島。時勢から取残されたような私娼窟玉の井。)   永井荷風著
大正七八年のころ、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、広い道路が開かれるに際して、むかしからその辺に櫛比(しっぴ 櫛の歯の様にびっしりと並んでいること)していた楊弓場(矢取り女を置いて、ひそかに色を売らせた店もあった。矢場。)銘酒屋(飲酒店を装いながら、私娼を抱えて店裏での売春を斡旋する私娼屋)のたぐいがことごとく取り払い命ぜられ、現在でも京成バスの往復している大正道路(現在のいろは通り)の両側にところを定めず店を移した。つづいて伝法院(浅草寺の本坊)の横手や江川玉乗り(浅草公園第六区 江川玉乗り一座の常打ち小屋だった大盛館)裏あたりから追われて来るものが引きも切らず、大正道路はほとんど軒並み銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取り締まりが厳しくなり、車の通る表通りから路地の内へと引き込ませられた。浅草の旧地では凌雲閣の裏手から公園の北側千束町の路地にあったものが、手を尽くして居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時ことごとくこの方面へ逃げて来た。市街再建の後西見番と称する芸者家組合をつくり転業したものもあったが、この土地の繁栄はますます盛んになりついに今日のごとき半ば永久的な状況を呈するに至った。


断腸亭日乗(断腸亭とは荷風の別号、日乗とは日記のこと)   永井荷風著
昭和11(1936)年5月16日   玉の井見物の記
初めて玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり。その時には道不案内にてどの辺が一部やら二部やら方角更にわからざりしが、先月来しばしば散歩し備忘のために略図をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば、外にて見るより案外清潔なり。場末の小待合と同じくらいの汚さなり。西洋寝台を置きたる家すくなからず、二階へ水道を引きたる家もあり。また浴室を設けたる処もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴するといふ。ただしこれは最も高価の女にて、並は一時間三円、一寸(ちょん)の間(ま)は壱円より弐円までなり。路地口におでん屋多くあり。ここに立寄り話を聞けば、どの家の何といふ女はサービスがよいとかわるいとかいふことを知るに便なり。七丁目四十八番地高橋方まり子といふは生れつき淫乱にて若いお客は驚いて逃げ出すなり。七丁目七十三番地田中方ゆかりといふは先月亀戸より住替に来りし女にて、尺八専門なり。七丁目五十七番地千里方千恵子といふは泣く評判あり。曲取(曲芸体位)の名人なり。七丁目五十四番地工藤方妙子は芸者風の美人にて部屋に鏡を二枚かけ置き、覗かせる仕掛けをなす。ただし覗き料弐円の由。警察にて検梅をなす日取りは、月曜日が一部。火曜日が二部。水曜日が三部といふ順序なり。検梅所は玉ノ井市場側昭和病院にて行ふ。入院患者は大抵百人以上あり(女の総数は千五、六百人なり)入院料一日一円なり。女は抱えといはず出方さんといふ。東北の生まれの者多し。越後の女も多し。前借は三年にて千円が通り相場なり。半年位の短期にて二、三百円の女も多し。この土地にて店を出すには組合へ加入金千円を収め権利を買ふなり。されど一時にまとまりたる大金を出して権利を買ふよりも、毎日金参円ヅツを家主または権利所有の名義人に収める方が得策なり。寝台その他一切の雑作付きにて家賃の代りに毎日参円ヅツを収めるなり。その他聞く処多けれど略して記さず。

物価 米10kg  昭和11年 2円50銭 平成19年 3,848円
1円:1,539円  5円:7,695円  1000円:1,539,000円

戦前はいろは通りの南側(東向島5丁目)が玉の井の核心部で、墨東綺譚のヒロインお雪の家もありましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失した。戦後は焼失を免れたいろは通りの北側(墨田3丁目)が赤線が出現し売春防止法成立の昭和32年まで賑わい、現在でも当時の建物が残っています。
玉の井出身の漫画家、滝田ゆう(1932〜1990)の作品「寺島町奇譚」で「玉の井ラビラント」と呼ばれた路地裏の迷路が描かれています。路地には「ぬけられます」、「ちかみち」と表示されおり、曲がりくねったあぜ道沿いに建てられた名残りだという。墨東綺譚でもたびたび書かれていた溝(どぶ)や蚊も思い浮かんできます。
墨田3丁目の路地裏にあった2階にバルコニーのある家
墨田3丁目の路地裏にあった2階にバルコニーのある家