日向薬師の(伝)大友皇子之陵
天智天皇は、伊賀宅子(やかこ)との間にもうけた皇子(みこ)を、大友村主(すぐり)のもとに預けた。大友村主は、近江国滋賀郡大友郷を本拠地にしていた、渡来系氏族です。この養家の姓を名のったから大友皇子なのである。大友皇子が武芸に秀でていたことは、『懐風藻』にも見えている。
9月29日(日)に伊勢原市の日向薬師の大友皇子の陵を訪ねました。
以前、大山登山の下山の時、大友皇子の陵があることを知りましたが、その時は下山を急いでいたので省略しました。
なぜ、大友皇子の陵が日向薬師にあるのか疑問に思って今回訪ねることにしました。
道順は、日向薬師バス停から日向川沿いにの林道を進むこと約10分、日向渓谷キャンプ村を管理している日向山荘手前で、大友皇子の陵あと5分と示された指導標に従い左折して日向川にかかる御所の入橋を渡ります。さらに進むと右側に大友皇子の陵への入口を示す道標がありました。
日本書紀では大友皇子は壬申の乱で大海人皇子と戦って敗れ、山前(やまさき)(大津市長等山の前。あるいは京都府乙訓郡大山崎等諸説あり)に身をかくし、みずから首をくくって死んだとなっています。
千葉県君津市周辺にも大友皇子が逃れてきたとする大友皇子伝説があります。
義経伝説とともに二十五歳の若さで亡くなった大友皇子への同情の念が大友皇子生存伝説を生み出したのだと思われます。
豊田有恒の小説『大友の皇子東下り』は、大友皇子伝説をもとに近江から東(あずま)への逃走劇が語られている。
小説の中では、天智暗殺説、天智・天武異父兄弟説で構成されており、『日本書紀』の史料批判が興味深い。
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| 石碑の内容 (伝)大友皇子陵 この塔は後の弘文天皇である大友皇子の陵と伝えられる。 皇国地誌日向村には「相伝往古古兵乱ノ際親王此地ニ行宮ヲ建築シテ御座シマス、終ニ行宮二崩ジ賜フ、ヨツテ此地ニ埋葬シ奉ル。」とある。 大友皇子は天智天皇を父とし、歳若くして太政大臣となるが、天智帝崩御の天智十一年(西暦六七二年)後の皇位継承を巡って叔父大海人皇子と争い敗れ自害sぢたという、これが壬申の乱である。 しかし当地の伝説によると百済の若者を身代わりに自害したと偽り、僅かの従者を率いて近江国山崎を逃れ、この地に隠れ住み、淋しい生涯を閉じたとされている。 当初、墓所には遺言にしたがって皇子が生前に愛された松が植えられたのみであったという。 後に諸国行脚の僧、華厳法師が紫雲に導かれるまま日向の地に分け入り、皇子を開基として養老二年(西暦七一八年)一寺を建立した。 この寺が医王山雨降院石雲寺である。 その後、鎌倉時代に里人が五層の石塔を皇子の墓として、その他の五輪塔を従者の墓として建立したと伝えられる。 現在でも雨降山石雲寺の貴い寺領として諸人の参詣が絶えない。 |
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| 雨降山石雲寺 | |