纒向遺跡
2008年10月26日(日)に奈良県桜井市主催のフォーラムに参加しました。テーマは「女王卑弥呼の国を探るU 〜3世紀の関東とヤマト纒向〜」で昨年に続いて纒向遺跡を中心に講演が行なわれました。講演は橿原考古学研究所で最初から纒向遺跡の発掘に携わてた石野博信、俳優で考古学研究を続けられている刈谷俊介、文化庁の禰宜田佳男(ねぎたよしお)
、桜井市教育委員会の橋本輝彦の講師によって進められました。
纒向遺跡は、昭和46年(1971)の第1次調査以来、現在までに158次にのぼる発掘調査が継続的に行われているものの、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の5%にも満たない程度で、全体像の解明には程遠い状況である。これまでは開発主導の調査がほとんどであり、今後は学術調査へシフトしつつある。今後、卑弥呼の居館のあった中枢施設や景初3年(239)12月に魏から卑弥呼に贈与された金印紫綬が発掘されることが期待されています。
刈谷俊介による狗奴国・東方部族の勢力範囲 |
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刈谷俊介により邪馬台国と狗奴国の境界は天竜川だとの見解は衝撃的だった。著書「まほろばの歌がきこえる」では狗奴国は東海勢力としていたが、今回訂正された。邪馬台国の連合体の東限は天竜川付近で、櫛描文(くしがきもん)系の山中式土器(弥生後期前半)・欠山式土器(弥生後期後半)が分布する地域である。狗奴国の主体は天竜川より東に土器胴部上半に縄文(羽状文)をもつ菊川式土器の分布圏で、それに長野県北半、群馬県、山梨県北西部の箱清水・樽式分布圏、駿河、関東地域がゆるやかに連動する。東国は天竜川以東、中部高地、宮城県南部まで含まれる。
三遠式銅鐸分布も天竜川を東に越えない。
邪馬台国と狗奴国の対立は、魏と呉の代理戦争である。呉は、239年に魏の冊封(さくほう)下となった邪馬台国連合体を避け、海上を通して狗奴国・東方部族に同盟を求め魏を牽制し、もともと違う文化圏を構成していた邪馬台国と狗奴国の対立を引き起こした。
纒向遺跡から、外来系土器の半数以上が東海(伊勢湾岸・濃尾)系で占められる。このことは狗奴国を東海勢力とすことを困難にする。
邪馬台国時代(190年頃〜270年頃)が終焉すると、天竜川流域から中部高地そして宮城県南部まで前方後円墳・前方後方墳が急速に広がる。この現象は、対立関係にあった天竜川以東の諸部族が纒向遺跡を核としてつながりもっていったことを示している。纒向3式期(250〜290)には、纒向遺跡に入ってくる外来土器のうち関東系のものが増加している。