東アジアの古代文化を考える会『国際シンポジウム』

 東アジアの古代文化を考える会の国際シンポジウムが12月14日、15日に国学院大学で行われました。テーマは、『東アジアからみた日本国家の起源−倭人のクニから日本へ−』で日本の国家成立に至る形成過程を東アジア諸国間の交流・影響を視野に入れ歴史学、考古学の成果を踏まえ議論が行われました。 当会の名誉会長だった江上波夫先生が11月11日、肺炎のため96歳で死去されました。江上波夫先生は1948年(昭和23年)、東北アジアの騎馬民族が大和朝廷の起源とする騎馬民族征服王朝説を発表し、天皇制中心の歴史観が残っていた当時の社会、学界に大きな衝撃を与えました。 騎馬民族征服王朝説では、大陸北方系騎馬民族の一派が南朝鮮の伽耶を飛び石として、九州に上陸し、やがて東上し近畿地方一帯を制圧して、4世紀末から5世紀始めには天皇家の大和朝廷が確立したとする仮説です。
 シンポジウムの基調演説は、上田正昭京都大学名誉教授が「倭国から日本へ」というテーマで日本列島における古代国家の成立の見方について、「七五三」論争が続いているとのことでした。「七五三」論争とは、3世紀の邪馬台国の原始的な初期国家の成立を注目する見方、5世紀後半の地域権力や部族的国家に対する古代国家の成立(稲荷山古墳鉄剣銘文と江田船山古墳太刀太刀銘文に「治天下」という象嵌文字が刻まれていた)を画期とする考え方、7世紀後半の日本国としての成熟国家の成立(「日本国」の成立、「天皇」号の成立、律令的諸制度の整備、官僚制の確立)を重視する見解がそれぞれあります。
 申敬K(シンギョンチル)釜山大学校教授は、金海大成洞古墳群(金官伽耶の支配者集団の共同墓地)の発掘調査の結果、それまで韓半島にはなかった殉葬の習俗と陶質土器から3世紀末に中国北方住民の移住があったことを明らかにした。5世紀始め新羅圏に編入され、金官伽耶は滅亡した。金官伽耶の支配者集団の移住先は日本列島の畿内であったとしている。このことは伽耶土器(陶質土器)が、日本列島で初期須恵器となって再現されていることから推測される。金海大成洞古墳群の発掘調査結果は、騎馬民族征服王朝説を裏付けるのに有効なものである。
 しかし、武末純一福岡大学教授の報告では、伽耶の首長の葬法による土壙木槨や殉葬の例が近畿で発掘されていないので、騎馬民族征服王朝説の成立が困難だとの見解だった。
 申教授は、二日酔いだととぼけていましたが、時々パンチの効いた発言をしてシンポジウムを盛り上げていました。