深川江戸資料館
2007年2月10日に深川江戸資料館を見学しました。資料館の中には、江戸時代の深川をイメージした長屋のモデルが作られていました。
江戸の市街地の約60%は武家地だった。残る40%のうち半分が寺院と神社が占め、町人の住む土地は20%しかなかった。この20%しかない土地に江戸の全人口の50%にあたる50〜54万人の町人が暮らしていた。武家人口は町人とほぼ同じ50万人余りいたと考えられており、人口100万人を超える都市は当時、江戸のほかには世界中どこもなかった。
長屋の生活は、究極の空間の有効利用と、環境にやさしい暮らし方だったと思います。
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| 裏長屋は「九尺二間に戸が一枚」といわれて、間口が九尺(2.7m)で奥行が二間(3.6m)、つまり六畳の広さしかない。入口の土間に水がめがあり、狭い台所と煮炊きするカマドがあったので、寝起きするスペースは四畳半になる。 |
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| 長屋の施設は共同利用であり、井戸、便所、ごみためなどが設置されていた。 井戸端では食器を洗ったり洗濯が行われる、情報交換の社交場であった。 |
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| 「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」といわれ長屋の共同生活ならではの人間関係のルールがありました。 大家は長屋の持ち主ではなく、持ち主の代理人として店賃つまり家賃を集めたり建物の維持管理に当たる人だったが、委託を受けている長屋の管理だけではなく、町奉行所の下請けのような形で行政の末端を担当する立場でもあった。 夫婦げんかの仲裁、金銭上のトラブルなども、大家の段階で解決することが多かった。 地主は地代、家賃の収入があったが、江戸は火事が多く、火災で長屋を焼失するリスクが大きかった。 |
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| 清澄庭園 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられている。 |
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| 吉良邸跡(本所松坂町公園) なまこ壁の塀に囲まれていて、中には吉良上野介の首を洗 ったという「首洗いの井戸」があった。 赤穂四十 七士が討ち入りの後、一行は吉良邸近くの回向院(えこういん)へ向かいました。しかし、回向院はかかわりあいになるのを恐れ、門を堅く閉ざしたという。それで浅野内匠頭の墓所である高輪の泉岳寺へ向かうことになりました。 |