真間の手児奈
万葉歌人の山部赤人、高橋虫麻呂も訪れた手児奈(てこな)伝説の地である葛飾の真間(千葉県市川市真間4丁目)に行きました。そこは、JR総武線市川駅から北にまっすぐ約1.4km(13分)進んでいくとあります。「手児奈」は東国地方の娘子をさす愛称です。「真間」は崖・土手などの傾斜地を意味する言葉で、ここでは国府のあった国府台(こうのだい)南端の台地斜面をさします。
江戸名所図会 真間弘法寺(ぐほうじ) |
天平九年(737)に行基(ぎょうぎ)が求法寺(ぐほうじ)として手児奈を供養するために開山したのが、始まりといわれている。 国府台の台地の上に下総の国府や弘法寺があり、崖の下に真間の里がありました。 |
万葉歌人の山部赤人、高橋虫麻呂も訪れた当時、すでに手児奈伝説は存在していました。その伝説は、多くの男に求められた手児奈が誰にもなびかずに真間の入江に身を投じたというもので、その伝説は国府を中心に美化されて世に知られていたのでしょう。 山部赤人、高橋虫麻呂は、720年〜730年ころ真間の里に訪れ手児奈伝説を都にもたらしました。 当時の真間の里は、海水が後退したしたものの、まだ水路や沼沢がいたるところに残り、港もあって、船の行きかう交通の要衝であったようです。
手児奈を祀った手児奈霊堂 |
山部赤人
勝鹿の真間の手児名の墓を過ぐる時に、山部宿禰赤人が作る歌一首 并せて短歌
いにしへに ありけむ人の 倭文機(しつはた)の 帯解き交(か)へて 伏屋(ふせや)立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が
奥城(おくつき)を こことは聞けど 真木(まき)の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき
言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ
(巻3・431)
昔、このあたりに住んでいた男が、倭文織りの帯を解きあい、 寝所をしつらえて、共寝をしたという葛飾の真間の手児名のお墓は、
ここだと聞くけれど、真木の葉が茂り、 松の根がのびて、長い年月がたったせだろうか、その場所もよくわからないけれども、手児奈の名前だけは、私はとても忘れることはできない
倭文機(しつはた) 外国渡来の織物に対して日本古来の単純模様の粗末な織物
伏屋(ふせや) 竪穴住居のような掘立小屋。ここではふたりの寝屋を設ける意。
奥城(おくつき) 墓所 おく=最後、き=囲われた場所。
真木(まき) 杉や檜
反歌
我れも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥城(おくつき)ところ
(巻3・432)
私も見ました、人にも語り伝えよう、 葛飾の真間の手児名のこの墓の場所を
勝鹿の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ
(巻3・433)
葛飾の真間の入江に、波にゆれる玉藻を刈ったという 手児名のことがしのばれる
玉藻 美しい藻の意味。特定の海藻の名ではなく、生活に役立つ海藻を総称。
下総の国府があった国府台からの南側の眺め |
弘法寺の東側です。 |
高橋虫麻呂
勝鹿の真間娘子(をとめ)を詠(よ)む歌一首 并せて短歌
鶏が鳴く 東の国に いにしへに ありける事と 今までに絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣(あさぎぬ)に
青衿(あおくび)着け 直(ひた)さ麻(を)を 裳(も)には織り着て 髪だにも 掻(か)きは梳(けづ)らず 沓(くつ)をだに はかず行けども
錦綾(にしきあや)の 中に包める 斎児(いつきご)も 妹にしかめや 望月(もちづき)の 満(た)れる面(おも)わに
花のごと 笑(え)みて立てれば 夏虫の火に入るがごと 港入(い)りに 船漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時
いくばくも 生(い)けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の騒く港の 奥城(おくつき)に 妹が臥(こや)せる
遠き代に ありける事を 昨日(きのう)しも 見けむがごとも 思ほゆるかも
(巻9・1807)
東の国に昔あったこととして、 現在まで絶えず言い伝えられてきた 葛飾の真間の手児奈という娘、
麻で織った着物に
青い襟をつけ、麻だけで織った裳を着けて、髪にさえ櫛を入れず、沓さえもはかないで、素足で行くけれども、
立派な錦や綾に身を包んだ大事に育てられた姫君だって、その美しさはこの娘にはかなわない。
満月のように満ち足りた美しい顔に
花のようにかわいいい笑みを浮かべて立っていると、 まるで夏虫が火の中に飛び込むように、港にはいろうと船が漕ぎ集ってくるように、
多くの男たちが求婚にやって来て、いりいろという時、
人生どれほども生きていられないのに、何だって自分の身の上をすっかり見通して、波の音の騒々しく寄せる港のほとりの墓に眠っている。
遠い昔にあった出来事だけれど、昨日見たことのように思われることだ。
反歌
勝鹿の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ
(巻9・1808)
葛飾の真間の井を見ると、毎日ここへ通って、水を汲んだであろう、手児奈のことが思われる
真間の井(亀井院の裏庭) |
東歌
下総の国の歌
葛飾の 真間の浦廻(うらみ)を 漕ぐ船の 船人騒ぐ 波立つらしも
(巻14・3349)
葛飾の真間の入江を漕ぐ船の、船人たちがせわしく動き廻っている。波が立ってきたらしい
葛飾の 真間の手児名を まとこかも 吾れに寄すとふ 真間の手児名を
(巻14・3384)
葛飾の真間の手児名が、本当に私に心を寄せてるって、あの真間の手児名だよ
葛飾の 真間の手児名が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに
(巻14・3385)
葛飾の真間の手児名がいたころは、 真間の磯辺の波のように男たちが騒いだものだ
おすひ 磯辺
鳰鳥(にほどり)の 葛飾早稲を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも
(巻14・3386)
葛飾の早稲の新穂を神に捧げて斎(い)み籠もっている夜でも、あのいとおしいお方、その人を外に立たせておくことなどできるものか
鳰鳥(にほどり) カイツブリのことで葛飾の枕詞
足(あ)の音せず 行かむ駒(こま)もが 葛飾の 真間の継橋(つぎはし) やまず通はむ
(巻14・3387)
足音を立てずに行くような駒でも欲しい。その駒で真間の継橋を絶えず通おう
継橋は、川の中に柱を立てて、両岸から継ぎ渡した橋 |