鎌倉アルプス
2006年11月25日に鎌倉市街の北東部を囲む鎌倉アルプスと呼ばれている山に行きました。山といっても一番高い大平山の標高が159mしかありません。お寺を見学しながらの半日コースです。低い山でも鎌倉時代の防御には十分役立ったようです。新田義貞が鎌倉を攻めた時も、この山を越えて鎌倉に侵入せずに化粧坂(けわいざか)切り通し、巨副呂坂(こぶくろざか)切り通し、稲村ヶ崎から鎌倉へ乱入しました。
新宿から北鎌倉から15分ほどにある建長寺境内の奥くには半僧坊があり、そこから天園を経て鎌倉宮や瑞泉寺に向かう山道は天園ハイキングコースになっています。
新宿7:16−湘南新宿ライン−大船8:06−北鎌倉8:18−建長寺8:33−半僧坊9:00−十王岩9:20−大平山9:55−天園10:15− 瑞泉寺10:55−鎌倉宮11:35−鶴岡八幡宮11:50−由比ヶ浜海岸−鎌倉駅13:44−大船13:52−湘南新宿ライン−新宿14:57 |
建長寺三門 建長寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼(1227−1263)によって創建された禅宗寺院。鎌倉五山第一位のわが国最初の禅寺です。鎌倉五山の第一位は、建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺。 |
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建長寺本尊 本尊は地蔵菩薩の坐像です。もとはこの地を地蔵谷といって幕府の処刑場でした。はじめは、その受刑者の霊を慰めるために心平寺が建てられ、地蔵を本尊として置いたと伝えられます。 |
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ビャクシン(柏槇)の古木は創建当時のもので樹齢約750年。 ビャクシンはヒノキ科の常緑針葉樹で、イブキ(伊吹)とも呼ばれます。ビャクシンは禅宗の寺院に多く見られるのが特徴です。 |
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半僧坊の展望台からの富士山 建長寺鎌倉半僧坊の由縁は、明治23年(1890)に、当時の住職霄貫道(おおぞらかんどう)はある夜、僧であるような、又俗人とも見える白い頭髪の老人に山中で合い、その翁が「私を関東のいづれか清浄な所に招いてくださるならその所いよいよ栄、ありがたいことたゆることがない」と告げフッと姿を消し去った霊夢をみた。この姿こそ半僧坊の真姿で建長寺鎮守に相応しきものとされ、早速御自身自ら静岡県奥山方広寺へおでむきなって御分身を願われ、建長寺内で最も景色の勝れた勝上獄(しょうじょうけん)に安置された。天狗像は、半僧坊のお供です。 |
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勝上巌(しょうじょうけん)からの建長寺 | |
切り通し 岩をうがった切り通しの道を行く。 |
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「やぐら」と呼ばれる鎌倉時代後期の墳墓です。 商業が発達して鎌倉の人口が急増、都市として平地の必要性が増えたため、市街地への墓所建設が禁止され、墓所が山中になったと考えられています。 |
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大平山(159m) 鎌倉アルプスの最高標高 |
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大平山からの鎌倉市街地 |
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天園展望台からの富士山 大平山から10分ぐらいのところにあり、茶店もありました。 |
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クスノキ 暖地性の常緑樹のクスノキの大木が登山道の脇に数本続いてありました。 |
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瑞泉寺(ずいせんじ)の庭園 鎌倉時代末期の嘉暦2年(1327)に夢窓国師によって創建されました。 鎌倉石の岩盤をえぐって滝、池、中島をつくり、橋をかけた岩庭の禅の庭園です。 |
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鶴岡八幡宮本殿 鶴岡八幡宮は、京都の岩清水八幡宮を厚く信仰していた河内源氏2代目の源頼義が前九年の役で奥州の安部氏を平定した後、康平6年(1063)、京の岩清水八幡宮を鎌倉由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請した。その後、治承4年(1180),源頼朝が鎌倉入りするや由比ガ浜の八幡宮を,現在の地である小林郷北山に移した。 |
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鶴岡八幡宮の大いちょう 鎌倉3代将軍源実朝暗殺の際に、八幡宮別当であった甥(2代将軍源頼家の次男)の公暁が隠れていた大いちょう。 樹齢1000年。 |
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材木座海岸 鶴岡八幡宮から若宮大路を南にまっすぐ15分ほど進むと鎌倉の海岸にでます。海岸の手前に滑川(なめりがわ)が流れています。 鎌倉の海岸の左側が東で材木座海岸です。逗子、葉山の方向です。 |
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由比ヶ浜海岸 由比ヶ浜海岸は鎌倉の海岸の右側が西で稲村ヶ崎が見えます。 |