広開土王碑
東京国立博物館で「広開土王(こうかいどおう)碑の諸問題」というテーマで行われた講演を聞いてきました。高句麗は、紀元前後から西暦668年唐に滅ぼされるまで現在の中国東北地区南部から朝鮮半島北部にまたがる地域を支配した国です。この高句麗の領土を大きく広げたのが広開土王(位391〜412、好太王(こうたいおう)ともいう)です。王の死後建てられた広開土王碑は、当時の高句麗の首都であった現在の中国吉林省集安市に今も残っています。高さ6.4m、断面が1辺1.5m〜2m巨大な柱で四つの面すべて文字が刻まれており1775文字になります。
永楽五年(395)に王は稗麗(契丹族)を打ち、勝利した。 百残(百済)と新羅は高句麗の属民であったが、辛卯年(391)に倭が(海)を渡ってやってきて 百残・新羅を臣民としてしまった。そこで王は永楽六年(398)から反撃を行い、 百残の多くの城を攻め落とした。 敗れた百残王が貢物を献上し、広開土王に忠誠を誓った。 永楽九年(399)、百残王は約束に反して倭と通じたので、王は平壌に南下した。 新羅王が使者を遣わして「倭人が多数押し寄せている」と言ってきた。 翌十年(400)、王は五万の歩兵・騎兵を派遣して新羅を救援した。 永楽十四年(404)、倭は無道にも帯方界に侵入した。王は兵を率いて倭と 戦った。倭は大敗し、惨殺されたものは数え切れなかった。 |
燕国との関係
中国側の歴史書「晋書」、「資治通鑑」に記されている燕国との戦争に触れていない。広開土王の戦争すべてが書かれておらず、意図的に取捨選択が行われている。
辛卯(しんぼう)年条
・「渡」の下は酒匂(さかわ)本・石灰拓本では「海」となっているが、現在では文字を確定できないとする説が有力。
・辛卯年(391)の記述が、永楽五年(395)と永楽六年(398)の間にある。王が自ら動くときには、その理由を先に述べる。辛卯年の記述は、永楽六年の行動の前置の文である。
・属民・臣民とはなにか。
碑文の解釈
@倭は強大であったが、碑文は過小な記述(戦前の日本)。
A倭は過大に記述されている。
長寿王が広開土王碑を建てた理由
広開土王は412年に亡くなり、長寿王は414年に広開土王碑を建てている。長寿王には、427年の集安から平壌への遷都が念頭にあり、国家発展の重大な決断をするにあたり、政治的意味合いがあった。