西吉見条里遺跡U現地説明会
埼玉県の東松山の吉見町から奈良・平安時代の国道「東山道(とうさんどう)」の一部と考えられる幅約12メートルの道路跡が、発見された。道路跡は、北北東から南南西方向で焼く70メートル直線的に確認された。路盤の製造方法は、3種類確認されている。1.地表の上に直接砂礫(されき)を積み上げる工法。 2.粗朶(そだ)と呼ばれる葦や木の樹皮等を敷いた上に砂礫を積む工法。 3.廃材や川原石、砂礫を混ぜ込み土壌改良した上に砂礫を積む工法。 道路の構築時期は、7世紀後半に構築され、幾たびかの改修をへて10世紀頃には廃絶したものと考えられている。 「東山道」とは、行政区画の名称であると同時に、その諸国と都を結ぶ道路の名称でもあった。「東山道は奈良を基点とし、出羽国までの8ヶ国を結ぶ交通路であった。今回発見された道路は上野(こうづけ)国(群馬県)から武蔵国(府中)までの支線{東山道武蔵路」と推定される。東山道は、特定の任務をもった役人や、地方での反乱を鎮圧するための軍隊など、限られた人々が都との間を通行するための道だった。律令制の象徴的な道であり、律令制の衰退とともに道路の維持ができなくなり廃絶されたと思われる。 |