卒業式

 3月25日(土)の午前には次男の慶應義塾高校の卒業式に、午後には長男の早稲田大学の卒業式に参加した。子供の卒業式を迎え、親としてやれやれと思う一方、ついこの間自分が卒業したように思えるが、30年近くなり月日のたつ早さを改めて感じさせられた。卒業式の式辞、祝辞から印象に残った部分を思い出すままに書きとめた。

福本校長の式辞(慶應義塾高校)

 剣道の修行の段階に「守・破・離」という言葉があり人間の成長の段階にあてはめて説明された。

初心者は、先輩や師の指導をよく聞き、基本的な型や技をしっかり身につける初心の段階で高校までの段階にあたる。
守でしっかりと覚えこんだ基本の型を破り自分なりのものを作って作っていく達人の段階で、これから大学で自分なりのものを見つけてほしい。
自分独自の流儀を確立する名人の段階で、社会人になって自分の生き方を確立してほしい。

鳥居塾長の祝辞(慶應義塾高校)

 慶應義塾ができたころの歴史について語られた。学校で一番古いのは慶應だと思っていたが、公家のためにできた京都の学習院が一番古い学校だったが、途中つぶれたとのこと。また、福沢諭吉の「学問のすすめ」は塾生だった中津藩主に頼まれたのがきっかけで書き始めた。現在日本がおかれている2つの危機についてふれた。ひとつは現在所得の46%が税金や健康保険、年金の社会保障費でひかれている。これが試算では2025年には67%になるという。どうしたらよいか大学にいって考えてほしい。もうひとつの危機は外国の侵略である。北朝鮮のテポドンがもし秋田か岩手に落ちていたら君達は今ごろ自衛隊にいるかもしてない。
 これからの人生で日のあたる場所で生きるにしろ、下積みで生きるにしろ、君達の年代は人生の基礎になる大切な時期だから大事にしてほしい。最後に“Never give up”の精神でこれから迎える波乱の人生を困難にあってもあきらめることなく最後まで戦ってほしい。

奥島総長の式辞(早稲田大学)

 戦後55年間は組織が優先された時代だったが、企業系列の崩壊、株の持ち合い解消など従来の護送船団方式の組織がくずれつつある。これからは個が尊重される時代だ。個を尊重した人物として、反骨精神の政治家中野正剛が紹介された。中野正剛は、戦時中に東条英機と対立し、権力と真正面からぶつかった大隈重信の流れをくむ人物だった。福沢諭吉も個を尊重した人物として紹介された。卒業生はこれからの人生を孤立を恐れることなく、自己を主張して生きていってほしい。

中野正剛(1886年〜1943年)

政治家。福岡県生まれ。1909年(明治42年)早稲田大学政治経済学部卒。東京日日、東京朝日記者を経て1920年(大正9年)衆議院議員となった。以後、革新倶楽部、憲政会、民政党に属し、いわゆる反軍的、自由主義的政治家として知られた。1931年(昭和6年)満州事変勃発のころから思想転回をはじめ民政党を脱党した。このあと東方会をひきいてファシズム思想を鼓吹し、親独・伊の政治運動を展開。太平洋戦争開始後は、戦争遂行方針をめぐって東条内閣と対立。1943年10月一斉弾圧をうけて逮捕拘留され、釈放後割腹自殺を遂げた。政治的信条と所属党派をつぎつぎかえたことは、中野がむしろ時流を敏感に知るジャーナリストであって、権力的政治家でなかったことを示唆する。

慶應の卒業生は30万人、早稲田の残存卒業生が45万人いることがわかった。慶應の「塾歌」、「丘の上」に対し早稲田が「校歌」、「早稲田の栄光」で閉式となった。

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福沢諭吉 大隈重信