高麗こま

 秋の一日に奥武蔵に渡来人か開拓した山里を訪ねた。そこは西武池袋線の高麗駅で降りる。私が訪ねたのは高麗王、若光を祀る高麗神社と高句麗人が開拓した巾着田といわれている水田である。

高麗神社

高麗王、若光を祀る高麗神社

 高麗神社は高句麗国の王族高麗王、若光を祀る社である。高句麗人は中国大陸の松花江流域(ハルピン周辺)に住んだ騎馬民族で朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年君臨していた。

 その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい668年滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが、霊亀2年(716年)そのうちの1799人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。高麗王若光は高麗郡の郡司に任命され武蔵野の開発に尽くした。

続日本紀

大宝3年(703年)
 従五位下の高麗の若光に王こしきという姓を賜った。

霊亀2年(716年)
 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。

巾着田

曼殊沙華コスモス

 巾着田周辺は今から1200年ほど前に高句麗から渡ってきた高句麗人が住みつき、大陸文化を取り入れた高度な生活を営んでいた場所である。当時、水田を作ることは大変な事業であったが高句麗人は、高麗川が蛇行していることを巧みに利用し、川をせき止め、その内側にあふれた水を導き水田とした。その形が山の上から見ると巾着の形をしていることから巾着田と呼ばれるようになった。

 曼殊沙華とコスモスを見たら山口百恵を思い出し、山口百恵のテープを聞きながらホームページを作りました。

 ついでに新羅からの渡来人についての続日本紀の記述を追記する。
天平宝字2年(758年)
 帰化した新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を、武蔵国の未開発地に移住させた。ここに初めて新羅郡(のちに新座にいくら郡と改める)を設置した。