新井の花柳界

広津和郎の「訓練されたる人情」の全文
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現在、阿部定の舞台とたった新井の花柳界は、現在は存在しない。広津和郎ひろつかずおの短編小説「訓練されたる人情」の中で関東大震災(大正十二年)前後の新井の花柳界の様子が記述されているので紹介する。

広津和郎ひろつかずお(1891〜1968)

東京生まれ。大正五年性格破産者を扱かった「神経病時代」で認められる。戦後は「松川裁判」に十年以上にわたり批判的に関与した。「訓練されたる人情」は『文芸春秋』昭和八年六月号に発表。広津和郎は震災の数年前に新井薬師の近くに半年ほど住んでいたことがある。

訓練されたる人情

玉千代という一人の女性が新興花柳界の新井に住み着いて、次々に父親の違う子供を五人産み、人々の人情の機微にふれながら花柳界でたくましく生きていく半生(十八〜二十七)を描いている。

新井の記述の抜粋

玉千代がこの土地に出るようになったのは、彼女が十八で法界屋ほうかいやにまじってこの近辺に流して来たのを、鈴源の女将が目につけたのに始まると云われていた。
「まあ御覧よ。あの手振りの軽いことを。あれは仕込んだら、お前、物になるよ。」
鈴源の女将は、この場末の町にその頃出来た一品洋食屋の店先で、彼女が活惚かつぼれを踊っていたのを通りがかりに見て、妹の三升家の玉吉にそう囁いたのだそうです。
それから間もなく三升家のお抱えになり、法界屋時分に呼ばれていたおゆきは改めて玉千代と呼ばれる事になった。
そこは東京の郊外でその近辺に有名な薬師があるので、その薬師を中心にこの二三年前からやっと花柳界が出来かかったが、最初のうちは芸奴げいこと呼ばれずに師匠と呼ばれていた。そういう名義でなければ警察から許可が下りなかったのである。
省線電車のN駅からその薬師まで行く十町ほどの道のりの間には、畑が見えたり田圃が見えたり、処々にはまだ武蔵野の名残りの雑木林の向こうに三味の音の聞える一郭があろうなどとは、一般の人には一寸気がつかない位だった。
もっとも昔から有名な薬師なので、料理屋だけは随分前から四五軒その附近に出来ていた。その中でも鈴源は最も古く土地の草分けと云われていた。
客筋は恵方えほうを気にする東京の株屋町が主だった。薬師に参詣かたがた東京から芸奴をつれてやって来て、帰り道に料理屋で一杯引っかけて行こうと云ったような客は、省線電車がまだN駅まで延びない昔からあった。が、近頃この土臭い田舎に「師匠」が出来たという事になると、それが又好奇心を惹いたものか、若い遊びざかりが東京での飲み足りなさを夜更けてから此処までのして来ると云うような風に次第になって行った。
それから又一廉ひとかどの猟奇家を以て任じながら、ふところの淋しさ市内では思いきりはねをのばせないと云ったようなサラリーマン達が、いつの間にか此処を嗅ぎつけて、月末になると割カンで一台の自動車に満載されて、一ヶ月のうさをぶっ放しにはるばるやって来るようになって来た。こんな連中は大きな声でデカンショなどを合唱しながら、夜更けまで薬師の森のふくろうの目をきょとんとみはらせていた。
師匠の置屋が三軒に師匠の数が九人。それ等三軒の女主人達は今のような意味での師匠の許可のまだ下りなかった時分、時々料亭から迎えが来ると、白髪染しらがぞめで染めた髪を小さな髷にして頭の天辺てっぺんに載せ、三味線をぶら下げて客席にのこのこ顔を出しに行った婆さん達だった。義太夫ふとの専門が一人、清元が一人、小唄が一人、そして三升家の玉吉は最後の小唄の師匠で、踊りも相当こなしていた。姉の鈴源の女将と一緒に明治の中期には新橋に出ていたとかで、姉が兜町の好い旦那がついて、その旦那が死んだ後も鈴源の女将としてこうして片隅ではあるが相当やって行くので、彼女が新派俳優で一時鳴らしたIの妾になり、Iが死んだ後は余り好い事もなく暮らしていたのを、骨肉の愛からこの土地に呼び寄せて、遊びがてらに小唄の師匠をさせたわけだった。
この三人の老師匠達は、所謂新しい意味での師匠の許可地にこの土地がなると、三人相談して置屋になり、若いおんな達を抱え、客の所望があれば自分達も相変らず小っぽけなまげを頭の真ん中に載せて、のこのこと三味線片手に出かけて行くのである。そして総数九人という数の中には、この三人の婆さん達も数えられているわけである。土曜日と日曜日とそれから月末の三四日の外は至って閑散で暢気のんきだった。他の土地のように面倒なつきあいもなければ、無理をして歌舞伎の変り日毎に見に行かなければならない義理もなかった。回向院えこういんの相撲を見た事がないという若い妓が実際にいる位だった。
そんなわけだから、別段他の土地のように衣装で苦労しなければならないこともなかった。実際どんななりで座敷に出ようが、お客もお客で、ひなびた土地にはひなびた師匠が調和がとれているとでも思っているらしく、そんな事は問題にしなかった。

途中省略

彼女が何処かに行っていた間に震災が来、震災後の東京の郊外の発展に洩れず、その土地も今や見違えるようになっていた。停車場(中野駅)とその土地(新井)も今や見違えるようになっていた。停車場とその土地との間の田圃や畑はすっかり埋められ、そこに立派な賑やかな町が出来ていた。一品料理屋でないカッフェが軒を並べて、二年前には夜など淋しくて一人では歩けなかった辺りに、蓄音機のジャズの音が渦を巻いていた。
師匠は今は芸妓げいぎと一段の名義の進化を来していた。三軒の置屋は八軒に殖えて、妓達は今や三十人を越えていた。
「随分この辺も変わったね」
「ああ、変ったよ。お前、もう前のように暢気にしていられる時節じゃなくなったよ。新橋にいた妓も、赤坂にいた妓も、芳町にいた妓もいるんだからね。お前しっかりやってくれなくちゃ・・・・・」
「ええ、今までの埋合わせをして一所懸命働きますわ」
「鈴源も震災後の好景況でしこたま儲けたと見えて、二棟も座敷を建て増していた。その二棟の西側には、前に畑だった地所を買い込み、そこに築山や池のある庭が出来上っていた。そして一棟の方は震災後めっきり殖えたつれこみ客のために小さな部屋が幾つも仕切ってあった。その棟の廊下にはこの辺の料理屋では昔見かけなかった断髪や洋装の娘達の姿がちらついたりした。
「まあ、ほんとうに変わったわねえ」玉千代は鈴源の女中のおきみにそう云って眼を瞠った。
「ほんとうに変わったわよ。まあ、一寸こっちへ来て御覧なさい」とおきみは玉千代の袖を引いて新館の上り口の下駄箱のところにつれて行き、それを開けて玉千代に内を窺かした。
「ちょっいと、玉ちゃん見て御覧なさい。昔はおつれ込みと云ってもみんな芸妓衆よ。だから下駄箱の中にはイキな下駄が並んでいたでしょう。ところが御覧なさい。近頃はこの通りよ。靴もあれば、こんな野暮ったいぼてぼてした草履もあれば、掃溜にだって落っこちてないようなチビた下駄もあるのよ」
「まあ、驚いたわね。一体こういう人達は何でしょう。?」
「女事務員もカッフェもあれば、女学生もいるのよ。・・・・・何しろ近頃の素人と来たらとても玄人はだしよ」

後省略



昭和28年の新井花街(かがい、はなまち)置屋街の地図(新井町538番地 現新井1丁目33〜34) 
阿部定のいた料理屋吉田屋も戦前はこの中にありました。
戦後の上高田の料亭街(旧 待合)の地図 現上高田2丁目41〜45
新井薬師アイロード商店街から柳通りにぬける道。
左側が上の地図で北側になります。
さらに進んでいくと花柳流の日本舞踊の師匠の家があります。
今でもここで日本舞踊の稽古が行われています。


新井の花柳界の変遷

 明治22年4月に甲武鉄道(中央線)の開通とともに中野駅が開設されると中野駅と新井薬師との間の参道は、駅前商店街や門前町が発生した。昭和2年には村山線(西武新宿線)が田馬場本川越間に開通すると新井薬師駅との間の参道には参詣者を対象とする商店街が発達した。
 新井薬師門前において、料理屋と芸妓げいぎ屋の二業は関東大震災以前から盛んであったようであるが、新井・上高田一帯を仕切っていた博徒、幸平(こうへい)一家の親分が、震災以後、待合の設立に乗り出してから待合の形成が進んだという。そして大正14年(1925)11月に新井三業(料亭・待合茶屋・芸者置屋)組合が設立されている。三業地とは、料亭、芸妓置屋、待合、の営業が許可される区域を指す行政用語で、花街とほぼ同義である。

 昭和6年に出された警視庁統計によれば、当時、新井では待合茶屋が25軒、芸妓屋が40軒、芸妓が136人と示されている。料理屋11軒は上高田にある1軒をのぞき新井に所在している。同様に芸妓屋40軒すべてが新井に置かれていた。一方、待合はすべてが上高田に店を構えていた。そして、三業組合事務所でもあり、三業の円滑な相互依存的経営のための検番は新井の地に置かれていた。

 昭和初期は新井の花柳界は全盛期を迎えた時期であった。新井薬師の門前には、向かって右側には萬屋、そして向かって左側に山口屋という大きな料亭があった。戦前の花柳界のお客は周辺地域の地主の主人が多かったこともあってか、萬屋と山口屋は競い合うようにしていたという。戦前の新井花柳界において忘れえない事件といえば昭和11年に起こった阿部定事件であろう。

 終戦後は僅かずつではあるが店が営業を開始していき、昭和24、25年頃から30年代にかけて再び最盛期ともいえる時期を迎えた。昭和28年頃には三業組合により、18歳未満ではお座敷に出ることが禁じられるなど風紀上の取り締まりが厳しくなっていった。また待合も規制を受けることとなり、三業組合は芸者置屋と割烹(旧料理屋)、そして料亭(旧待合)の三業種の組合となった。

 戦前は個人で遊ぶお客が多かったが戦後は企業の接待などに花柳界が使われることが増えていった。赤坂や新橋の花柳界で遊んだ後、二次会で新井の花柳界を訪れる客が多かったのである。赤坂や新橋でのお座敷は「芸をみる」という性格が強かったようである。清元の姉さん、義太夫の姉さん、長唄の姉さん踊りでいえば立方(男形)と女方の役割が明確に分かれているように、それぞれの芸者は各自の専門を決めており、お座敷では自分の芸の披露を行った。当然、民謡や俗謡などの流行物はやらず、したがって、新橋や赤坂では、遊ぶという雰囲気ではなたったのである。それに対して、新井では、一人の芸者が清元から長唄、端唄、流行物などなんでもこなし、請われれば浪曲までうなったという。お客さんの歌に三味線をその場で合わせたりと、お客にとって新井の花柳界は面白く、楽しい場であったようだ。

 昭和初期にも匹敵する賑わいは昭和40年代まで続いたが、40年代も後半に入ると客も減り、芸者衆も少なくなっていったという。昭和50年頃には芸者衆が化粧をして待っていてもお座敷が無いので、化粧することもしなくなっていったという。そうすると稀にお座敷がかかったりして、慌てることひとしきりであったそうだ。花柳界は昭和55、56年頃に自然消滅した。


お座敷のこと
 お客の人数や広間の大きさにもよるが、一つの座敷に10人から15人の芸者が入ることが多かった。

 お客が来て、まず乾杯をする。そこで「それではこれからお座敷をつけましょう」ということになる。お座敷をつける時には、まず最初に四季の踊りを踊り、それから後はくだけてお客の要望に答えたり、姉さんの指示に従って遊ぶ。

 四季折々の踊りとは、例えば1月は「初春」や「角松」、3月は「梅の花」、5月は「菖蒲」、「潮来」、「五月雨」、6月7月は「岸の柳」、8月は「川風、」9月は「萩桔梗」、12月は「北州」という具合である。また3月の梅の頃には梅の歌詞がついたものであったり、桜の時期には桜の唄で踊る。

 このきっちりした四季の踊りの後は、座敷を賑やかにということで囃子たてをする。そして囃子をおしまいにする時には「さわぎ」という曲を演奏する。四季の踊りから「さわぎ」までが、いわばお座敷のオープニングとなる。この後は三味線を鳴らしたり、おしゃべりをしたりと自由なお座敷が続くのである。

 お座敷での歌舞音曲は夜11時で終わりにしなければならなかった。それは近隣の家々への配慮によるものである。この時間になると検番の箱屋さんが「箱下げです」といって三味線や太鼓を取りに来た。箱下げの後、一時間くらい経つとお座敷がお開きになるのが常であった。客は皆ハイヤーを呼び帰って行くが、時には芸者衆を連れてキャバレーやバーへ行ったりもした。