「眠れる天使」

 「おいおい、いきなりどうしたんだ?今頃部活始めるって、もう夏休み目前だぜ。」
早乙女好雄はあきれ顔で陣館諭に問いかけた。
「ちょっとな。最近体力落ちてるみたいだから鍛えてみようかなって思ったんだ。」
諭はさりげなく答えたが、何か他に理由を隠しているような気がした好雄
は食い下がった。
「なーんか怪しいなあ。実は訳ありなんだろ?言って見ろよ。」
「そんなこと無いって、考えすぎだよ。」
「そうかなあ。ま、いいか。」
何か他人に言いたくない理由でもあるのだろうと考えた好雄はそれ以上
追及しないことにして、無駄話を続ける内に諭の家に差し掛かった。
「じゃあ、またな。」
「ああ。」
好雄と別れて家に近付く諭。しかしその時家の周りを囲む生け垣の陰
からにゅっとつきだした手が諭を捕まえ、あっと言う間に諭を道路から
家の敷地内に引きずり込んだ。
「こらあ、諭ーっ!」
「うわ、し、しお・・・」
「今更テニス部に入るって、あんた一体何考えてんのよ!まさか女の子と仲良くなろうとか虫の良いこと考えて居るんじゃないでしょうね?」
「そんなこと考えてないって。」
何か叩くような音が連続して聞こえてくる。
「嘘ついても駄目。やる気があるんなら何で今までふらふらしてたのよ!」
「いててて。だから、このままじゃいけないと思って始めることにしたんだって。」
しばらく沈黙が続く。諭の相手は今の言葉の真偽を吟味しているらしい。
「うーん・・・いいわ、信じてあげる。でも途中で音を上げたりしたら許さないんだから。早くレギュラーになって、インターハイに行ってよ。待ってるからね。」
諭が引きずり込まれてから呆気にとられて突っ立っていた好雄だったが、話が終わって誰かが出てくる気配がしたため咄嗟に電柱の陰に身を隠
した。その直後に路上に姿を現した人物を見た時好雄は我が目を疑っ
た。それはきらめき高校の女生徒の中でもトップクラスの人気を誇る藤
崎詩織だった。詩織はそのまま諭の家の隣にある自宅に入って行った。
詩織の姿が消えてから好雄は諭の所へ駆けつけた。生け垣と玄関の
間のちょっとしたスペースにへたり込んでいた諭は好雄を見て困った
ような顔をした。
「何だ、見てたのか。参ったな。」
「藤崎さん、すごかったな。いつもああなのか?」
「まさか。今日は特別だよ。まあ、普段から学校よりは砕けた態度だけどな。」
諭は立ち上がりながら話し続ける。
「物心ついた時から同い年の姉さんが居るようなもんだ。なんか俺って詩織にしつけられて育ったような気がするんだけど、気のせいかなあ。」
それを聞いて好雄は思わず吹き出す。
「ぷっ!くく、分かるよ、うん。藤崎さんはしっかり者で、それにひきかえお前と来たら頼り無いことこの上無いもんなあ。」
「そこまで言うかね、全く。」
諭は不服そうに赤い紅葉模様の付いた頬を膨らませる。
「しかし派手にやられたもんだな。」
「ああ、これか?こう見えてもちゃんと手加減してるんだぜ。何しろ詩織はフルコンタクト空手の有段者だからな。」
「何ぃ?本当か、それ?」
驚く好雄を見て諭はにやりと笑った。
「ああ。あいつが本気を出せばヒグマぐらい殴り殺せる。ま、さすがにグリズリーはきついかもな。」
すぐに真顔に戻った諭は好雄に頼み込んだ。
「ところで今日の事は忘れて欲しいんだけどさ。頼むよ。」
「ああ、いいともさ。陣館君の格好悪い姿は見なかった事にしてやろう。」
好雄はおどけた口調で諭をからかいながら申し出を承諾したが、諭の
真意が詩織を気遣ってのものだと言うことは好雄にも見当が付いた。

 自分の部屋に戻った詩織はベッドに腰掛けると大きな溜息をついた。
「はあーあ、まぁたやっちゃった。」
そう言ってベッドに手をついて左右の足首を重ねると天井を仰ぐ。
「もう少し穏やかに話そうと思ってたんだけどなあ。顔を合わせたら思わ
ず突っ掛かっちゃうのよね。」
詩織は頭の後ろで手を組むとそのままベッドの上に寝転がる。
「諭がいけないのよ。小さい頃から一人じゃ何にも出来ないんだから。
放っておこうと思ってもなんか危なっかしくって見てられないんだもん。」
勢いをつけて跳ね起きた詩織の指が真っ直ぐ諭の部屋に向けられる。
「お願いだから今度はちゃんとやってよね。」

 テニス部の夏合宿の初日。諭の体調はがたがただった。夏休みに
入って間もなくひいた夏風邪をこじらせ、熱っぽさと体のだるさが全然
抜けない。出来れば合宿参加は見合わせたかったが、詩織の手前
それも出来ず強引に参加することとなった。夏の日差しの下でのラン
ニングは諭の体力を奪い、力尽きた諭はグラウンドに倒れ伏した。
気が付くと諭は木陰に寝かされていた。
「あら、おめざめのようですね。だいじょうぶですか?」
声のした方を見ると女子部員が一人こちらを心配そうにのぞき込んで
いた。
「ああ・・・もう大丈夫。ありがとう。」
諭は軽く頭を振りながらゆっくり起きあがる。
「それはよかったですねぇ。きょうはむりをなさらないほうがいいとおもいますよ。それではわたくしはこれでしつれいいたします。」
女子部員は軽く一礼して立ち去りかける。
「あ、ちょっと。本当にありがとう。ええと・・・」
彼女は振り返って首を傾げていたが、やがて何か気付いたようにぽん、
と手を打った。
「まあ、もうしわけございません。わたくし、こしきゆかり、ともうします。」
ゆかりは自己紹介を済ませると人の良さそうな笑顔を浮かべた。

 その場はとりあえずそれで済んだが、夕食の直後に諭は激しい胃の
痛みに襲われた。体力の衰えている諭だけが食あたりを起こしたらしい。
医務室に運び込まれてベッドに横たわる諭の側に誰かが立った。
「え、こ、古式さん。どうしたの?」
熱も出てきて朦朧とした諭の問い掛けに思い詰めた表情のゆかりが
答える。
「もうしわけございません。わたくし、りょうりはふえてなものですから。」
「あ?いや、そうじゃなくて、俺、風邪引いてるから、体調崩し易いんだ。こんな風になったのもそうだから、古式さんは関係ないよ。」
「いいえ、そういうわけにはまいりません。わたくしがせきにんをもっておせわいたします。」
そう言うゆかりの顔がぼやけて見える。
「いや、良いって、本当。大丈夫だから、だから・・・」
諭の意識は次第に遠のいていった。

 瞼に光が当たる。諭がゆっくり目を開けると窓から朝日が射し込んで
いた。額に乗っかった濡れタオルに手をやる。体調はほぼ回復した
らしい。ふと胸のあたりに重みを感じて目を向けるとそこにはゆかり
の寝顔があった。看病の合間にベッドの横に座って休んでいる間に
眠ってしまったらしい。
(まさに眠れる天使って感じだね。)
柄にもないことを考える諭。ゆかりの寝顔を一目見た瞬間強く惹かれる
ものを感じた諭は恐る恐るゆかりの頬に手を伸ばす。自分の手が触れた
途端に目の前の少女が光の粒になって消え去ってしまうような気がして
不安で仕方無かったが、それでも手の動きを止めることは出来なかった。
「ん・・・うん・・・」
後僅かというところでゆかりが小さな声を出して目を開けた。
「あら、いつのまにかねむってしまったようですねえ。」
起きあがったゆかりは手を伸ばして固まっている諭に気付く。
「まあ、つらだてさん、おはようございます。ごきぶんはいかがでしょうか?」
「ああ、もう大丈夫。すっきりしたよ。」
伸びをするふりをして誤魔化しながら上体を起こす。
「これも古式さんのお陰・・・わわっ?」
ゆかりが諭の後頭部に軽く手を当て、いきなり顔を近づけてきた。気が
動転した諭は再び硬直する。
「ねつもひいたようですね。よかった。」
額をくっつけて熱を計っていたゆかりはそう言って離れるが諭の顔を見て不思議そうにつぶやいた。
「あら?ねつはひいたのにみょうにかおがあかいですねえ。なぜでしょう。」
「あ、これ?体調が戻って血の巡りが良くなったんだよ。」
咄嗟に出任せを言ってその場を取り繕う諭。しかし自分が古式ゆかりに完全に参ってしまったという事実は誤魔化しようがなかった。