約束

 「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
翔子がこう問いかけるのは何度目だろう。
「ああ、聞いてるよ。」
俺がこう答えるのは何度目だろう。
時は繰り返す。無限に続く円周軌道を断ち切るには自ら剣を振るわなけ
ればならない。

 その日、俺は場末の小さな酒場のテーブルを挟んで恋人の星野翔子
と向かい合って座っていた。恋人?そう、俺と彼女は恋人同士だ。それ
は間違いない。しかし俺の愛情が間違いなく彼女自身に向けられている
かと問われたら恐らく俺は言葉に詰まっただろう。そしてそんな微妙な
「ずれ」に翔子が気付くのにそれほど時間はかからなかった。
「どこを見てるの?」
翔子が問う。
「君の顔だよ。」
俺が答える。
「それは嘘。あなたが見るのは私を通した他の誰か。それは誰?」
しばらく沈黙が続く。俺は話すべきかどうか迷っていたが翔子の訴え
掛けるような眼差しに押し切られるように口を開いた。
「分かった。外へ出よう。」
店を出てしばらく行った所にある公園のベンチに並んで腰掛けると俺は
翔子に念を押した。
「あの場で話さなかったのは別に恥を掻きたくなかったとかそう言う訳
じゃない。話を聞いた者に何らかの危害が及ぶかもしれないからだ。
それは君にも言える。それでも構わないか?」
この状況でこんな事を言われて引き下がる者は普通居ない。もちろん
翔子も無言でうなずいた。俺は内心の不安を何とか押さえ込みながら
話し始めた。

 今からほんの一年ほど前、俺は古式ゆかりという女性とつきあっていた。
ゆかりは良家の子女と言った感じの物腰の柔らかい娘で、その非常に
おっとりした物腰がある意味強烈な個性を放っていたが、俺にとっては
それは彼女の魅力でもあった。ただ不思議なことにゆかりは自分の過去
や家族に関することなど一切話そうとせず、こちらから尋ねようとしても
いつもはぐらかされた。何か理由があるのだろうと思っていたが、それは
意外な形で明らかになった。

 その日、いつものようにデートを終えて彼女をアパートまで送っていく
途中でゆかりが突然歩みを止めた。何気なく振り返った俺が見たのは
俺の知っている古式ゆかりとは全くの別人だった。外見上は何の変化も
無いが、つい先程まで彼女から感じられた暖かみのある雰囲気はかけら
ほども残っていなかった。むしろ彼女を中心に冷気が発生しているかの
ような感じがして寒気を覚えた。髪や肩に降りかかる雪を払おうともせず
微動だにしないゆかりにしびれを切らしたのか周囲の空気が動きを見せ
た。タイヤから空気が漏れるのに似たかすかな音が数回響く。同時に
ゆかりが姿を消した。その後しばらく例の音が断続的に響き、かすかに
うめき声らしいものが聞こえたりしたが、やがて静寂が戻るとゆかりが姿
を現した。
「終わったのか?」
俺の問いにゆかりは首を横にゆっくり振った。
「いいえ、後一人残っています。」
それが誰を意味するのかは明らかだった。現実と切り離された空間の
中でゆかりがこちらへ銃口を向けるのを俺はぼんやりと見つめていた。
ゆかりが引き金を引いて銃弾が俺を貫き、その後悪夢から覚めて平凡
な日常が始まる・・・半ばそんな期待を込めてゆかりの手元を見ていた
が、その指先は動く気配が無く、銃声に変わってゆかりの声が響いた。
「一つだけ約束して下さい。そうすれば命は助かります。」
俺はゆかりの顔に視線を移した。彼女の瞳の奥に隠された感情は
読みとれず、言葉の続きを待つことにした。
「今日のことは忘れて、誰にも話さないで下さい。」
「もし話したら?」
「あなたを・・・殺します。」
そう言ってゆかりがさっと手を振ると粉雪が俺の顔にかかった。思わず
瞑った目を開けたとき、ゆかりの姿は既に無かった。

 「そして俺は約束を守り続け、現在に至るというわけだ。」
話し終わって翔子の方を見るとどうやら怒らせてしまったらしい。こちらを
にらみつけている。
「いや、別に作り話でごまかそうとしているわけじゃないんだ。確かに
現実離れしているかもしれないけど本当にあったことで・・・」
「何故、話してしまったのですか?」
翔子の一言は衝撃的だった。翔子は、いや、ゆかりは星野翔子と名乗
って俺に近付き監視を続けていた訳だ。
「いくらでもごまかしようはあったはずなのに。何故です?」
「君に会いたかったからだ。」
俺の言葉でゆかりに動揺が見られた。
「話せば君は俺を殺しに来ると言った。つまり話してしまえば確実に君に
会えると言うことだ。もっともずっと目の前にいると気付いていれば知ら
ないふりして幸せな日々を過ごせたんだけどね。まあいい、もう思い残す
事は無い。さっさとやってくれ。」
実は最後の所だけは真っ赤な嘘だった。ゆかりに再び会いたかったのは
本当だが会えたからと言って死ぬ気は更々なかった。あの時ゆかりはあっ
さり俺を殺してしまった方が話が簡単なのにそうしなかった。この事実に、
一筋の髪の毛ほどの頼りない希望に賭けてみよう。そう決意するのに一
年近くかかった。一年かけた決断の答えはすぐに出る。俺は静かに結果
を待った。ゆかりはしばらく迷ったあげく一端取り出した銃を再びしまい
込んで自嘲気味につぶやく。
「私も甘いですね。撃たなくてはいけないのに、どうしてもあなたを撃てない。」
どうやら賭は俺の勝ちだったようだ。
「それでは改めておつきあい願えますか、お嬢さん?」
「はい、私でよろしければ、喜んで。」
二人は立ち上がると家路についた。ゆっくり歩きながらゆかりが話しかけ
てくる。
「一つだけ約束していただけないでしょうか。」
無言で続きを待つ俺の肩にゆかりが頭をもたせ掛ける。
「ずっと、いつまでも、一緒にいて下さい。」
「もちろん。」
続けて「死が二人を分かつまで」と言いそうになったがさすがにこの場合
縁起でもないので思いとどまった。そして俺はゆかりの方へ首を回した。
それを察して頭を起こしたゆかりと視線が合い、久しぶりに見る微笑みに
話しかける。
「そういう約束なら自信はあるよ。だってそれは俺の望みそのものなんだから。」

 後書き
 この話の元ネタは怪談の「雪女」です。何でまたこんな時期に思いつい
たのかは自分でも疑問です。最近渋めのストーリーに走っていますが、
今回は「オチ」さえありませんでした。