プールの底
「こんな事するのは今回限りだよ。いいね?」
「I see、分かってるわ。ごめんね、無理言って。」
念を押す清川望にとりあえずそう答えた片桐彩子だったが、その意識の大部分はこれから始まるちょっとした冒険に対する期待が占めていた。きらめき高校に伝わる伝説の一つ、「プールから伸びる白い手」の真偽を確かめようと思い立った彩子は友人で水泳部所属の望に相談を持ちかけた。望はあまり気が進まなかったが、彩子があまり熱心に頼み込むので根負けして協力することにした。夜の屋内プールの入り口にたどり着いた望は取り出した合い鍵でドアを開ける。この合い鍵は本来望が休日などにも自由に練習できるように管理を任されている物であって、こういう使い方をすることに後ろめたさを感じながら望は振り返って彩子にうなずいてみせる。ドアを開け、建物内に入ると望は念のため内側から鍵を掛け、それから二人は懐中電灯の明かりを頼りに慎重に通路を進んだ。更衣室の前を通過し、シャワールームを通り過ぎ、目的地にたどり着いた二人の目の前に現れたプールの水面は室内と言うこともあって全く動きを見せず、窓から申し訳程度に入る月明かりと懐中電灯の貧弱な光の下でまるで底無しの闇があるように見えた。
「It's eerie、薄気味悪いわね。」
本来こういう場所を嫌っている彩子がぞっとしたようにつぶやく。ここに来て後悔の念が頭をかすめたが、無理を言って望に協力してもらった手前今更止めるわけにも行かない。
「OK、じゃあ、はじめましょ。」
彩子の声を合図に懐中電灯を消した二人は壁際のベンチに座ってプールの監視を始めた。噂で「出る」と言われている時刻の前後一時間、監視を続けるつもりだった。しかしいざ実行に移してみるとかなりつらい。
何もしないでじっと座っているのは肉体的にも精神的にも結構な苦痛だが、今回の目的から言って動き回ったり音を立てたりと言った行動は厳禁であり、時々音を立てないように注意しながら姿勢を変えるのがやっとだった。そして時間がたつ内にもう一つの問題が持ち上がってきた。何もしないで夜が更けるのを待つ内に二人とも睡魔に襲われるようになる。一人が眠り始めるともう一人が揺り起こすという行動が繰り返されていたが、やがて耐えきれなくなった二人は折り重なるようにベンチに横たわって寝息をたて始めた。
目覚めた時、彩子は得体の知れない胸騒ぎを感じていた。目を覚ます直前に何か物音を聞いたような気がする。時計を見ると問題の時刻から五分と過ぎていなかった。望の方を見ると彼女も起きあがっていた。その瞳にはやはり緊張が走っている。
「・・・聞いた?」
彩子の問いかけに無言でうなずく望。二人はすぐにプールに視線を向け、わずかな気配も逃さないよう意識を集中させた。
ぱしゃっ。
それはほんの小さな水音だったが、二人にとっては至近距離に落ちた雷の音に等しかった。思わずびくっ、と体を震わせた二人はすかさずその耳に神経を集中させた。高まる緊張の中で自分の鼓動が聞こえるような感覚に襲われながら待ち続けたが、その後新たな展開はなかった。
「・・・行って見る?」
「・・・そうだね。」
しびれを切らした二人は行動に移ることにして静かに立ち上がると恐る恐るプールに近付いて行った。水際まで来て水面をくまなく見渡すがやはり何も見あたらない。
「駄目か。仕方ない、戻ろう。」
見込み無しと見た望は振り返ってベンチに向かって歩き始めた。
「確かに何かある。それは間違い無いけど、どうも今一つはっきりしないな。今日は駄目かも知れないね。」
そう言いながら望が振り返ると彩子はまだプールの縁に突っ立っていた。その大きく見開かれた目と声も無くいたずらに開閉を繰り返す口元にただならぬものを感じた望がそばに駆け寄ろうとした時、彩子の一方の足首を掴んでいた青白い手が彩子を水中に引きずり込もうと力を込め始めた。
「いや、いやああ!望、助けてえーっ!」
床に転倒した彩子は助けを求めて絶叫しながら必死でプールから這い出そうとしたが、圧倒的な力の差の前にあえなく水中にその姿を消した。
「彩子ーっ!」
万一誰かに見つかったときの言い訳のため水着を着用していた望は上に羽織っていたパーカーを脱ぎ捨てると後先考えずプールに飛び込んだ。水の中は不思議な事にうすぼんやりと明るく、すぐに底の方で腹這いになってもがいている彩子が見つかった。
(よかった、とりあえずまだ間に合う。)
少しほっとした望はすぐに彩子の腰から下が見えないのに気付いて言いしれぬ恐怖に襲われ、急いで近付いて行った。そして彩子のすぐそばにたどり着いた望の眼前には異様な光景が広がっていた。プールの底にぽっかりと穴があき、彩子の下半身はその中にほとんど飲み込まれている。そして彩子の足首を掴んでいるのはきらめき高校の制服を着た少女で、さらにその足首を別の生徒が掴み、途中から老若男女が入り交じり服装が古めかしくなっていく人間の鎖は地底の暗闇に姿を消すまで延々と続き、真っ黒な空洞と化した両目で鎖の新たな一端に選ばれた彩子を恨めしげに見上げていた。凄まじい怨念の連鎖を見せつけられた望はその激しさに圧倒されて身動きがとれなくなっていた。しかし力尽きた彩子が完全に穴の中へ引き込まれようとした時、渾身の力を込めて体の自由を取り戻した望はぎりぎりのタイミングで彩子の手首を捕まえた。それと同時に彩子の体を通していくつもの声が望の中に流れ込んできた。
「苦しい・・・」
「出せ・・・ここから出してくれ・・・」
「おまえらも来い・・・」
(くっ・・・重い!)
彩子を引く力はかなり強く、プールの底に腹這いになった望は現状を維持するのがやっとだった。そしていくら望といえども水中にとどまれる時間には限りがあり、次第に意識がもうろうとして心臓の鼓動が全身を激しく震わせるような感覚に襲われ出した。
(もう、息が・・・でも・・・あきらめる訳にはいかない!)
望は一か八か残された力を振り絞って彩子を引っ張り上げようとした。しかし全く動く気配はない。限界が迫った望の視界が次第に暗くなっていく。しかしその時プール内を閃光が満たし、手応えが一気に軽くなった。望は何が起こったのか疑問に思う余裕すら失って死に物狂いで水面に浮上し、むさぼるように新鮮な空気を取り込んだ。彩子が危険な状態なのは間違いないためすぐにプールサイドに泳ぎ着き床に横たえる。
「容態は、いかがですか?」
誰かが声を掛けてきたが、それに答えている余裕は今の望には無かった。
「彩子、しっかりして!早くしなきゃ、早く・・・」
呼吸が停止してから大した時間はたっていないので適切な処置を施せば一命を取り留める可能性はかなり高いはずだったが、悪い結果ばかり頭に浮かんでそれが焦りを生み、更にはもたつきにつながっていた。望は失敗することによって生ずる苛立ちが次の失敗を引き起こす悪循環に陥っていた。
「どうして、どうしてうまくいかないんだよ!このままじゃ彩子は・・・!」
その時そばにいた誰かが望の両肩に手を置いて話しかけてきた。
「お友達を助けたい気持ちは分かります。でもこういうことは落ち着いてやらなければいけませんよ。心の乱れがリズムの乱れにつながってしまいます。」
そのアドバイスを聞いて失敗の原因に気付いた望は、今度は冷静に応急処置を進め、やがて血の気を失った彩子の顔に赤味が差してきた。
「ううん・・・」
かすかに声を上げて目を開ける彩子。
「あ、気がついた。彩子、気分はどう?」
「・・・Not so fine、お世辞にも良いとは言えないわ。」
彩子は望の問い掛けに蚊の鳴くような声で弱々しく答えた。
「そう・・・無理も無いよ。もう少し休んだ方がいいね。」
望の勧めに小さくうなずいた彩子は間もなくかすかな寝息を立て始めた。望はそれを見届けてもう一人の付き添いに礼を言おうと向き直る。
「今日は助かったよ、ありがとう。えーと、確か古式さん・・・だったよね?」
「はい。私、古式ゆかり、と申します。本日はお役に立てて何よりです。」
すっかり気分も落ち着いたところで望はふとわき起こった疑問をぶつけてみた。
「ところで、どうしてここに来たの?」
「はい、私もここの噂に少々興味がございまして、一つ確かめさせていただきたいと思い立ちましたので参りました。」
まあそう言うことが無いとは言い切れないが、望達と同じ日というのが引っかかった。しかし偶然だと言い張られたらそこまでなので追及は断念せざるを得なかった。
「へえ、そうなんだ。でも、鍵はどうするつもりだったの?」
「まあ、いつもは鍵がかかっているのですか?今日は扉が開きましたのでそのまま入ったのですけれども。」
それを聞きながら望は自分たちが入ったとき鍵を掛けたような気がしたが、記憶違いだろうと思い直した。
翌日のプールサイドで情報交換をする彩子と望の姿があった。
「昔、この辺りに沼があって、次々とおぼれ死ぬ人が出たから埋め立てたそうよ。どうやらたまたまその跡にプールを作っちゃったみたいね。」
「プールができた頃から生徒が行方不明になる事件が時々起こって、取り壊そうという話も出たんだけど、確証が無いと言うことで立ち消えになったそうだよ。」
その気になって調べてみるとプールに関する情報は意外と順調に集まった。
「生徒を不安がらせちゃいけないから表向きは単なる安全祈願だけど、プール開きのお祓いは実は水死者の怨念を鎮めるためにやってるんだって。その甲斐あって今では事件らしい事件は起こらなくなってたんだけど・・・」
「私たちが寝た子を起こすような真似をしちゃったって訳ね。」
しばらくの沈黙の後、二人はどちらからともなくプールの方に向き直ると手を合わせた。あの夜一時的とはいえ「鎖」の一部になった二人は自分達に伝わった死者達の無念さを決して忘れはしないだろう。
