仙台の喫茶店(戦前)

        戦前の喫茶店ー仙台ー

 仙台での喫茶店登場は、明治10年(1877)東一玉沢横丁に「大洋亭」開店、コーヒー一杯が2銭5厘とある。本格的喫茶店の草分けは、大正9年(1912)「カフェクレーン」(左図の2階、1階はつるや洋菓子店)エプロン姿の少女が給仕を務め、コーヒー5銭。

 コーヒーの大衆化を目指し大正期に「カフェパウリスタ」の仙台喫店が東一番丁(今の三越辺り?)に出店したが、数年後に消滅した。金融大恐慌や東北大飢饉でコーヒーとか喫茶店というコトバは庶民に無縁の時代だったようだ。  その頃、東一の南端にあった「ティールーム・ひろせ」は、仙台笹かまの創始「広瀬蒲鉾店」の2階で、粋なセーラー服のウエイトレスが帝大や第2師団の青年将校らの人気を集めたという。(昭和8年撮影)図のマッチラベルは当時のもの。金色の地にTEAROOMHIROSEと洒落れたもの。

戦後の昭和30年前後に、この広瀬蒲鉾店の同じ2階に「ら・めーる」が出店、画廊風の静かな雰囲気とネルドリップに魅了された常連で賑わった。(現在は旧東北電力ビルで営業中、詳細後述)
      カフェと喫茶の両極分解

 昭和初期のマッチラベルにはかなり派手なデザインが多く見られる。これは、大正モダニズムの流れに染まった風俗店化で、カフェといえば女給さんが脇にべったりと寄り添い、踊り相手も務めるダンスホールと同類視され、本来のコーヒーなどソフトドリンク系の店はレストランや洋菓子店に限られて、いわゆる喫茶店という独立した存在は戦前の仙台には少なかったようだ。 この両極に分解したまま第2次大戦に推移し、カフェの呼び名がコーヒーのイメージに戻るのは、名曲喫茶とかうたごえ喫茶の誕生する戦後暫く経ってからのことである。

      戦前の喫茶店マッチ

 マッチラベルは、昭和初期の仙台にあった「コーヒーに縁のある店」。店名の右書き、3桁の電話番号に注目。


仙台の喫茶店史実資料抜粋 平成9年(1997)作成
@『思い出のアルバム「仙台」』 1980 佐々木 庸一監修
A『仙台はじめて物語』 1995 逸見 英夫著
B『新目で見る仙台の歴史』 市制100周年 P146
C『目で見る仙台の歴史』 昭和34年刊 55年増補
D『明治の洋風建築』(宮城県) 昭和51年 小倉 弘 宝文堂
E『わが町 仙台』 3代(明治・大正・昭和)の思い出  渡辺 萬次郎
F 『番丁詳伝』 昭和62年 活黶E四・一 発行
G『あきんどの町 おおまちに至るまで400年』 昭和59年刊 おおまち商店振興組合
H『仙台の喫茶店』 戦後編  井桁 章メモ 平成9年(1997)
I『喫茶店のマッチラベル』 昭和40年〜60年頃
J『喫茶店感想カード』
K『戦前の喫茶店マッチ』 昭和5年頃を中心にした仙台の喫茶店マッチ  松野昭夫氏所蔵

@『思い出のアルバム「仙台」』 1980 佐々木 庸一監修

p106  昭和の娯楽といえば、 なんといっても映画。東一番丁には、仙集館、パティー館、森 徳座、文化キネマ、など軒を並べ、一大娯楽センターを形成。そさらに、カフェやミルクホールも 大流行し、次々と新店舗が誕生した。
p108 写真  東一番丁広瀬蒲鉾店の2階にあった喫茶店(昭和13年)
年表 明治17年(1884): 11月 西洋料理屋の需要少なく閉店、都川亭で新たに西洋料理はじむ。
   明治25年(1892): 7月陸奥ホテル 9月松島座洋風に改装 10月東座改装、森民座と改称
   明治28年(1895): この年のコレラ患者474名 死亡数366名
   明治29年(1896): 仙台ホテル開業
   明治34年(1901): 5月ブラザー軒開業
   明治37年(1904): 日露戦争 1月明石老舗 西洋菓子を発売
   明治38年(1905):12月 ブラザー軒洋館3階竣工 
   大正元年(1912): 7月東一番丁に新式洋菓子珈琲店つるや 2階カフェ・クレーン 開業
   大正7年(1918): 8月仙台米騒動 米価暴騰に抗議する群衆が最高時数千人 軍隊出動
   昭和20年(1945): 7月10日仙台空襲 全市5萬世帯の3分の1焼失
   昭和24年(1949): 7月 ビアホール復活

A 『仙台はじめて物語』平成7年発行創童舎 逸見英夫著(仙台郷土史研究会副会長)

本書は、昭和57年1〜7月 河北新報に連載した「仙台事物起源片々」に加筆訂正したもの。
[巻末年表から抜粋] 前記と重複部は省略
明治10年(1877) 洋食屋太洋亭開業 並30銭、中50銭、上70銭、ソップ4銭、コーヒー2銭5厘、同ミルク入り3銭5厘
明治45年(1912) 近代的様式の喫茶店兼食堂カフェ・クレーン、ツルヤ洋菓子店開店。コーヒー・紅茶5銭、特製アイスクリーム10銭、蒸し饅頭2個10銭
大正7年(1918)  仙台米騒動 仙台市での1等上白米小売り標準価1升 7/827銭 7/1937銭 8/1040銭 当時仙台郵便局の集配人平均日給は50銭
大正12年(1923) 仙台精養軒、弥生軒跡に開業
大正14年(1925) カルトン食堂開業 仙台最初のエレベーター設置のビル
昭和5年(1930)  芭蕉の辻(七十七銀行本店跡)に精養軒移転、カフェー部新設
昭和8年(1933)  満州事変に出撃した第2師団の凱旋(多聞中将)南町通りは多聞通りに
[口絵写真から]
・カフェ・クレーン内部 和服6人の男性 大正5年撮影
・カフェ・クレーンでの食事風景 経営者桜井常吉氏一家 大正5年
・戦前の七夕の広瀬蒲鉾店全景 2階は喫茶、写真のセーラー服の女性はウェイトレス
 七夕飾りものは桃太郎(多聞師団長)が大砲にまたがり、猿、犬を従えた仕掛け。
本文P74[喫茶店] モダンな洋館造り コーヒー5銭 洋食15銭 (一部省略)
仙台最初の洋風喫茶店「カフエー・クレーン」と「ツルヤ洋菓子店」の開業は、明治45年7月。
今の一番丁「アビアまんぞくや」の辺り、二階建ての洒落た洋館造りは、東北帝大文部技官中島仙太郎の設計で、夜はイルミネーションが点灯。二階の喫茶店は、写真材料店「桜井晃栄堂」主人で33歳の桜井常吉の経営。季節の花を飾った大理石張りのテーブルが十余個、天井には扇風機が回りオルガンもあった。12,3歳のウェートレス(当時は女給仕)の水色の洋服とエプロンは、市内「大阪屋洋服店」製。
コーヒー、紅茶が5銭、特製アイスクリーム10銭。ライスカレー、チキンライス、ハムライスの洋食は15銭均一。特に蒸しパン、蒸し饅頭、ビフテキの評判が高かったという。
1階の「ツルヤ洋菓子店」は、桜井の妻の弟中林源助の経営。彼は長崎でカステラ作りを習得、開業時は22歳の青年。赤塗りの馬車をロバに引かせ、元軍人の御者がラッパを吹き鳴らし、焼きたてのパンや洋菓子の配達、ご用聞きに市中を廻ると”ツルヤの赤馬車”と子供たちが囃したてた。

B『新目で見る仙台の歴史』 市制100周年 P146写真説明 つるや全景と2階内部

[カフェ・クレーン] 新式洋菓子珈琲店 大正元年(1912) 開店
 明治末から東一番丁付近を中心にブラザー軒のような洋食店ができた。ビヤホールや10銭均一の一品洋食を出して大衆化をはかった。精養軒の洋食が30銭から50銭だから話題となった。
 鶴屋(つるや)は大正元年開店し、色タイル張りで飾った外観は平明で瀟洒な感を与えた。一階は洋菓子店で二階は喫茶店。パンや洋菓子も出し、赤馬車にも積んで市内を練り歩き話題となった。2階には「カフェー・クレーン」が洋食一品料理と喫茶店になった。ライスカレーやオムレツなどの洋食が15銭均一、アイスクリームが10銭、珈琲・紅茶が5銭、蒸し饅頭が2個10銭、大理石の卓、エキゾチックな電灯に、12,3歳の少女が洋皿で給仕するしゃれた雰囲気が若者の人気を集めた。家庭の新しい時代を先導し、大衆化を促進する役割を果たした。

C『目で見る仙台の歴史』 昭和34年初刊 55年増補改訂 宝文堂 仙台市史図録編纂委

P143 写真 「ブラザー軒開店」「弥生軒全景」
[明治の西洋料理店]説明文 明治末年のハイカラ風は西洋料理屋の必要を生み、ブラザー軒、弥生軒などの店ができた。

D『明治の洋風建築』(宮城県) 昭和51年 小倉 弘 宝文堂

p120  ブラザー軒  明治43年 東一番丁
  仙台における西洋料理は、明治10年代から始まった。
 明治5年仙台にきたフランス人宣教師マランが、「仙台の商店はたくさんの西洋品を棚に飾っている。ビール、ウィスキー、シャンパン、メドック、練乳など見受けられた。」
 明治17年発行奥羽新聞に、「これまた西洋料理店開業のものの、需要少なく閉店す。新たに都川亭が西洋料理を始む」とあ。日本料亭で西洋料理を営んだ。
 明治35年6月に国分町と東一番丁の間に開通した新国町にブラザー軒が新設された。その後移転し、洋館を新築。明治末年には「弥生軒」もできた。
[カフェーカルトン] 大正14年 大町5丁目 鉄筋コンクリート造3階建て、その名を上海の店からとったという。喫茶室、集会室、そして仙台最初のエレベーターを備えて斬新な経営振りを発揮した

E『わが町 仙台』 3代(明治・大正・昭和)の思い出  渡辺 萬次郎 (信夫次郎)

  著者 : 明治24年生まれ 福島中学 東京高師  大正2年東北大学地質学科入学
       同5年卒 助手 講師 助教授 同10〜12年 独、英留学 12年教授
       昭和26年 理学部長 同30年退官 同31年秋田大学長 41年帰仙
1.明治の終わり頃 
  当時、国分町の繁栄は、その東側の東一番丁に移っており、ブラザー軒 、北側の弥生軒は、建築様式を異にしながら”西洋料理屋”の代表として知られ、日本料理店宮古川と競い合った。
2.大正の思い出
  東一番丁北半の繁盛は盛んで、”活動写真館”の前には、旗竿の大きな幟が立ち並び、”楽隊”の音が街に流れ、夜ともなれば料亭に招かれた芸者を乗せた”人力車”が入り乱れ、昼も明治の”ミルクホール”に代わった”カフェー”の2階で、白いエプロンを掛けた少女を相手に、緑のペッパーミントを味わったり、”蒸し饅頭”に郷愁をそそる学生があふれていた。
 国分町の「Aワン」、一番丁の「カフェー・クレイン」、大町5丁目の「カルトン」と思い出に残るところも多い。
3.昭和前半の発展
  昭和8年に三越(地上5階地下1階)がデパートとして営業開始、これに先んじ地元藤崎呉服店も新館を建てデパートとなり、南北を支え合った。

F『番丁詳伝』 昭和62年 活黶E四・一 発行 

P28 玉沢横町の文明開花
◆西洋料理の大洋亭
 明治に入って食生活も文明開化の大きな影響を受けた。ハイカラさんは牛肉を食べるようになるが、横浜や東京での流行も仙台まで伝わるのに汽車もないときだけに時間がかかった。
 明治5年頃に流行した西洋料理も仙台に入ったのは、5年後の明治10年(1877)のことだった。
玉沢横町(広瀬通り)には西洋料理専門の「大洋亭」が開店した。そのときのメニューは、上等料理75銭、中等料理50銭、並料理30銭といわれ、牛鳥料理で8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルクコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭5厘という価格だったという。(明治11年の米穀相場1石5円55銭、1升換算5銭5厘になるから、庶民にとっては高嶺の花の時代であった。) "
P36  ハイカラ通りの味わい
 文明開化の波は東一番丁から起こった。今でいう食堂も目新しい店を開いた。書生、軍人の愛好。
◆カルトン食堂
 明治から大正にかけて開業した食堂は、カタカナによる店名が多い。カルトン食堂は大町5丁目に鉄筋コンクリート3階建てで大正14年(1925)開業した。
◆ブラザー軒
 明治35年(1902)の11月3日に新国丁に開業した。洋館式3階の1階は食堂、2階は大広間と貴賓室の堂々たる建物で、第2師団関係者が多く利用した。背広が流行した時代でビールを傾ける客も多かった。
◆精養軒
 東一番丁に仙台支店を開店したのが、大正12年(1923)のこと。昭和の初めに芭蕉の辻の日本銀行仙台支店のところにあった赤煉瓦作りの建物を改造して開業した。当時のサービスガールは紺の着物にエンジの帯、白いエプロン姿で給仕をして、カフェーを兼ねての営業だったから評判になり、店の名は広まった。現在は芭蕉の辻の新仙台ビルに仙台精養軒として勝山企業(井沢)が営業している。
P140  ビルラッシュの不安と期待
 昭和7年 藤崎地上5階地下1階の着工 三越は第2期の工事中 とビルディングとネオンサインの戦いは熾烈となり、同時にカフェーの発達を促進した。
P141  写真は、つるやとその2階の「カフェクレール」(大正4年) クレーン?
P142  ビルの美観くらべ
◆三越開店前夜
 藤崎と三越を結ぶ近辺は、料理店、飲食店の多いところ。昭和7年前後は、急速に西洋飲食店が増加し、天井の大扇風機、12,3歳の洋装給仕女、エキゾチックなムードを満喫させた。
カフェー・クレーン、ブラザー軒、カルトンは近代的知識人、学生の溜まり場となり、政治、文学、活動写真、ジャズを話題に時間を忘れた。
p146   明治の味の浮き沈み
◆仙台の三大菓子補
 明石屋(大町1丁目)、玉屋(南町)、玉沢(国分町)が当時の仙台代表格。玉沢は、明治20年代そのころ中央でも珍しい、ビスケット、カルルス巻きせんべい、カステーラなど洋菓子を売り出している。
◆パンのはじめと七福最中の浮沈
 明治天皇ご巡幸にパン食西洋料理を調達するために随行した遠藤知至が、後再び来仙、虎屋横丁にパン屋「金華堂」を明治20年に開業。パン製造の仙台嚆矢のパン屋。大正半ばマリヤ本店のところに移転を機会に「祥華堂」と改名するが昭和10年企業整備令で休業。
 鶴屋パン店は、アメリカ式の宣伝馬車を配達用にし市内を走らせ人気を得た。店の方は1階をパンや洋菓子売場、2階を喫茶、軽食堂にして学生や文化人を集めた。
P152   終戦の狭間の店々
◆戦中、戦後洋菓子に生きるクローバー
 クローバーは昭和21年夏、焼け跡にバラック建ての店で再開。昭和10年星月堂経営失敗廃業の後を受けて、洋菓子専門店クローバーを独立開業、戦時は休業したが戦後再開、、27年には1階パン、洋菓子、2階レストラン喫茶、3階宴会場の西欧店舗を建設盛業を取り戻した。
◆戦後進出のひらつか
 大正7年から塩釜で漬け物生産業を営んでいた平塚長蔵は、戦後23年2階建てのモダンな洋式店舗を建て、「コックド−ル」を開業米軍家族のクラブ的営業をした。25年朝鮮動乱で米軍引き上げを機に、市民のためのレストラン、コーヒーショップに転換、パン、洋菓子の販売を開始、後の大型パン工場へと発展する。
◆兄弟で東一番丁に、菓子と蒲鉾と
 実家は鉄砲町の広瀬魚店、兄の久六は明治36年南町近辺に蒲鉾と食料品の店を構え、創意工夫して「笹蒲鉾」を生みだし、仙台独特の名産として成功した。明治45年弟の久之丞は広瀬菓子店を開店、昭和初年には老舗と肩を並べるまでに発展した。2階には喫茶を供し東北大生、二高生などハイカラな人たちの溜まり場となった。
P162   カボチャ饅頭の人だかり
◆東一番丁からの再出発
 東一番丁の戦後開店の菓子屋  森永キャンデーストア、23年栄屋、24年金時、ひらつか、25年紅ばら、信用堂、27年二宮、28年クローバー、小松、31年トミヤ、玉屋など、後にケーキ専門店として虎屋横丁角にプランタンにかわりグリコア、よろず園ビルの1階ミッシェル、南町通り角にぶらんたんが開業している。
P180   高校生の「番丁白書」 尚絅女学院生のリポート
◆商店の創業・開店
 創業・開店の一番多い時期は昭和21〜29年、戦争で失った店や、新しく開店したのが原因で、特に映画館の多くはこの期間に開店し、バーや喫茶店の大部分は終戦後人々が安息の場所や娯楽の設備を求めるようになった30年前後に開店している。
◆商店名の由来
 一番丁にある店の名前 (そのうちコーヒー・洋菓子などに関係しそうな店名)抜粋 昭和32年当時
エスポワール(希望・仏語)、未完成(東映前)、山口パーラー(東映2F)、ぷらんたん、ら・めーる(海・広瀬2F)、エビアン(アフリカの地名・名画座隣)、りゅしょうる(ほたる)、信用堂、クローバー、幸福堂、エーワン、ひらつか,喫茶トリコロール(いつからいつまでか?)、白鳥
P224   新しいマチの創造   141ビルへ
◆三越脇から定禅寺通りに抜けるあたり 今の141ビルあたり
 戦後沖電気が取り壊され、東二番丁に抜ける新道に、モルタルビルができ、その2Fに入居したバー街は、大豆煎りコーヒーが盛んだった頃、本物の珈琲を安く飲ませ、シャンソンを看板に、自称文化人の常連が絶え間なく出入りした。喫茶三優、喫茶ノンノン、喫茶一茶など。東二の三越レストラン・バレンシァ
H『仙台の喫茶店』 戦後編  メモ 平成9年(1997)5月 井桁 章

 戦後の仙台の音楽喫茶というと、「田園」とか「未完成」などかその名の通り代表的な店と言えるだろう。小さな汚い店だが、メニューを配って聴かせてくれた「茶茶」も忘れられない。
音楽なしで静けさを売り物にしていた店では、「ら・めーる」「えすぺろ」など。
いまは無くなった店が多いが、思い出すままにいくつかの喫茶店の印象を記しておこう。
 個人向けの豆売り専門店が登場したのは40年以降ではなかったか? 30年代は分けて貰ったという感覚。「ら・めーる」のモカ、連坊小路の卸屋「木村コーヒー店」の焙煎豆ガテマラ、今の仙台貯金事務センター(当時は仙台郵便局)の隣りにあった焙煎店「萬国社」、何年か後に駅前に登場した「とうもん」のブラジルやブレンド豆を仕入れては、ひとり悦に入ってコーヒーの講釈を後輩の諸君に押し売りした時代である。