仙台の喫茶店(戦後)

戦後の喫茶店ー仙台ー

昭和20年(1945)終戦時の仙台は街の中心部は焼野原。

日本国中「喫茶店」と言う名が登場するには暫くかかりました。

私が初めて喫茶店を覗いたのが、昭和22年学生時代の常磐線日立駅前でした。

SPレコードに魅せられて覗いたのがきっかけで、ついでにコーヒーの味も初体験となりました。


 昭和20年空襲で焦土となった仙台市で戦後いち早く再建したレストラン「クローバー」。

 平成11年(2003)141ビル1Fでジオラマ展示された終戦後間もない仙台・勾当台付近の商店街(141ビル建築前の姿)。 走る市電の向こう側に「クローバー」の看板が見える。

 下の写真は、昭和27年にバラック建てからモダンなレストランに再建された「クローバー」
 右の写真はその直前まで営業していたバラック建ての旧「クローバー」

 これらの写真は、Nさんという方から送って頂きました。

詳しくは Nさん提供資料ページ をご覧ください




◆戦後仙台での創世期

 私が仙台に定住するようになったのは昭和25年以降なので詳細は不明だが、戦後仙台でいち早く喫茶店を開いたのは「ら・めーる」、「茶茶」。進駐軍家族が愛用のレストラン「りゅしょうる」、パン屋のちに喫茶部増築の「クローバー」などがコーヒーに縁があった店として記憶がある。

 写真(左)終戦直後に立てられた「クーローバー」
 (右)「りゅしょうる」のマッチ (Nさん提供)
  


 戦後喫茶店の草分け的存在の一人「ら・めーる」の長尾博道さん(故人)と、
今もその写真をカウンターに飾り、父のドリップを頑なに受け継いでいる娘の道子さん(2002記)


 「ら・めーる」は平成23年(2011)閉店しました。

    「ら・めーる」のページへ

◆第1次全盛期  昭和30年〜50年

 戦後の純喫茶全盛期は、昭和30〜50年代の約30年間。この時期のコーヒーは「店で飲むもの」。コーヒーの味より音楽や造作のムードが売り物の時代でもあった。名曲喫茶、うたごえ喫茶、画廊喫茶などが次々と登場した。
 その頃開店の仙台駅前「寿苑」(s34 1959出店)はウエイトレスが床に立膝でコーヒーをテーブルに載せるサービスが評判になった。クラシック名曲系の喫茶では、南町通り「田園」(s27~34)、東一番丁「白鳥」、定禅寺通り「未完成」、「エリーゼ」など。パン屋、ケーキ屋、洋食屋で喫茶コーナーを備えたのが、「りゅしょうる」、「クローバー」「信用堂」、「嵯加露府(サカロフ)」、「ひらつか」など記憶に残る店
  味が売り物のコーヒー専門店では東一番丁「ら・めーる」(s21東三番丁開店、s29広瀬蒲鉾本店2F,s39~h24/1旧東北電力ビル地下)、二日町「茶々」(その後米が袋に移転)、駅前「とうもん」(s33出店-現営業中)、服部チェーン「エビアン」(仙台駅、青葉通り等現営業中)、それに続き「アートコーヒー」「トリコロール」「珈苑」「ルナ」(いずれも閉店)などがその頃足繁く運んだ店。
  この頃は企業など職場の売店脇や食堂にも喫茶コーナーが現れ、サラリーマンの商談や憩いの場として繁盛したのもこの時期である。
昭和30年代のコーヒー1杯80円、40年代の仙台の喫茶店数は数十店から100店に激増。「深夜喫茶」が繁盛したのもこの時期。その深夜喫茶を明るくするための「風俗営業法」改正(S34)。

 昭和34年に丸光デパート地下に「グランド喫茶」と銘打って華々しく登場した「寿苑」とともに生きてきた安斎保さんの自宅に伺い、当時の喫茶店運営の裏話を聴きました。(平成9年・井桁)
  (同氏の経歴)
昭和8年日本大学卒 満州製鉄勤務
昭和21年帰国 レストラン「紅谷」を経て
昭和34年 「寿苑」調理課長
38年に開店した「マロニエ」の支店長
昭和54年「寿苑」の常務取締役を最後に退職
昭和58年「喫茶店繁盛の秘訣」著 柴田書店
  この「寿苑」と「マロニエ」のマッチは東仙台にお住いの松井三郎さん提供です。

当時「寿苑」と「マロニエ」に勤務された安斎保さんは、
「喫茶店はコーヒーよりも座席、言い換えれば場所と雰囲気と時間を有効に使うための最も能率的な社交のオフィス。」と言っています。
 昭和30年代の仙台で音楽喫茶として
脚光を浴びた「田園」の
レコードコンサートのプログラム
 詳細は 「名曲喫茶 田園」のページ
 ◆コーヒーの家庭進出期

 昭和40年代、インスタントコーヒーが店先に並び始め、家庭の趣好品として、あるいは来客への緑茶代わりとしての位置づけが定着した。その後、家庭の洋食化の普及に合わせて、「コーヒーメーカー」の発売によるレギュラーコーヒーへの嗜好が高まり、ペーパードリップと挽き売り豆の普及が、喫茶店から家庭コーヒーへの移行期を迎えた。この時期に仙台でも多くの喫茶店が大判焼き屋、立ち食いそば屋、インテリアショップなどへの転身を図ったり、閉店の憂き目に遭遇することになる。

 戦後の喫茶店ブームからインスタントコーヒーの普及でコーヒーが家庭に定着したが、
「ドトール」など廉価喫茶店の進出で
コーヒー愛好者は再び街中に還流。
特に女性の喫茶店好みが急激に増えている
 ◆第2次全盛期  平成時代

 平成に入るとニュータイプ喫茶店の廉価コーヒー合戦で、モーニングサービスや買い物帰りの主婦層の利用が急増してくる。先鞭を付けた「ドトール」は繁華街の至るところに新店舗を作り、最近はその隣り合わせに「スターバック」「プロント」、地下鉄沿線に「ベローチェ」などが進出している。

これらの攻勢に対抗して、コーヒー専門店の地元仙台の老舗「エビアン」も店舗拡大、京都イノダ系「ニューエレガンス」やカップが売りの「ホシヤマ」などレトロ型の特徴を盛り込んだムード客層確保に乗り出している。まるで家族のような常連に支えられて、生き残ってきた「ら・めーる」は平成24年ついに閉店となったが、同様の「珈琲屋」「プロコプ」「ギャルソン」などの老舗が今後どのように進展して行くか、古い喫茶店を愛する一人としてしっかりと見守ってゆきたい。

 最近注目は関西著名の「丸福珈琲店」が僅か2年で撤退、UCCの「上島珈琲店」がオープンと仙台の中心部で拡げられるめまぐるしいコーヒー合戦の行方である。


 従来型の老舗喫茶店は押されながらも常連客の支えで生き残っている。
「珈琲家」もその一つ。


【コーヒー大衆化への足取り】

平成9年(1999)5月に記した仙台での喫茶店の履歴です。

私が体験した喫茶店やドリップ・サイフォン、マッチラベルと喫茶店経営者の話、それに図書館の蔵書などから珈琲と喫茶店の足跡を探り、ホームページに雑然と紹介した中から、仙台を中心にした喫茶店の歴史的な流れを整理したもので、その後一部修正しています。(2013/12記)

     1.   明治の半ば頃登場している西洋料理店「大洋亭」のメニューでは、コーヒー2銭5厘、ミルクコーヒー3銭5厘で、米1升6〜7銭の時代だから庶民には高嶺の花だった          。
      2.   大正元年(1912) 本格的な店構えの「カフェ・クレーン」登場。エプロン姿の少女が給仕を務めコーヒー-5銭。帝大生などの利用が多かったが、まだまだ庶民には遠い         存在。
      3.   大正12年関東大震災後、東京の郊外や学校付近にいわゆる「純喫茶」が登場するが、その頃の仙台でどの程度普及したのかは定かでない。ただ大正14年一品洋         食の「カルトン食堂」が洋風3階建てでオープン、知識層の利用が次第に広まってはきている。 かの「パウリスタ仙台喫店」も大正8年から昭和6年まで東一番丁で営業し         た痕跡がある。

4.   昭和の初めは、金融大恐慌、それに東北は大飢饉が続き、庶民の生活は苦しい時代だから、学生や一部の富裕層を除き、コーヒーとか喫茶店という言葉は全くの死   語であった。 昭和8年には広瀬蒲鉾店本店2階に「Tearoom HIROSE」が営業しており、セーラー服姿で東北帝大の教師・学生や第2師団の青年将校を迎えたという   記録が残っている。

5.   第2次大戦後の昭和26年コーヒー豆も輸入解禁となり、復興仙台の街にも徐々にコーヒーを飲ませる「喫茶店」が建ちはじめ、豆の輸入が戦前水準に回復した昭和3   4,5年頃には「音楽喫茶」や「うたごえ喫茶」「画廊喫茶」などかなり普及してくる。しかし、30年代のこの時期、未だコーヒーが一般家庭に入り込むには至っていない。

6.   個人向けの豆売り専門店が登場したのは40年以降ではなかったか? 私が家庭でネルドリップを始めた30年代は喫茶店へ卸す焙煎屋から分けて貰ったという感覚   。「ら・めーる」のモカ豆、連坊小路の焙煎卸屋「木村コーヒー店」のガテマラ、南町通り郵便貯金事務センターの隣りにあった焙煎店「萬国社」、仙台駅前の喫茶店「とうも   ん」の自家焙煎ブラジル豆などを入手していた。

7.   昭和40年代に入り、サイフォン、ドリッパーなどの器具類やコーヒー豆の店頭売りが始まったが、それを使って家庭で楽しむ人は一部の愛好者に限られ、コーヒーが一   般家庭の常備品として地位を確保するのは、インスタントコーヒーの出現とその強力な宣伝によるスーパーマーケットでの品揃え・普及を待たなければならなかった。

8.   一般家庭が本物志向のコーヒー愛好族に変身するのは、昭和末期に家庭用コーヒーメーカーの出現以後である。これにより、いわゆる喫茶店でしか味わうことが難し   かったコーヒーが、簡単電動ドリップに変わることで、出勤前の奥様でも簡単に淹れる環境が整ったといえる。

9.   平成に入り、豊富な珈琲豆とコーヒーメーカーの普及により、肝心のコーヒーをいい加減な出し方をしてきたムードだけの「喫茶店」は厳しい競争下に置かれることとな   り、「珈琲専科」とか「炭焼珈琲」といったネーミングで本格派への生き残りを賭ける時代に突入している。

10.さらに、エスプレッソ式の大型抽出機によって「本物が安く早く飲める店」が登場し、買い物帰りの奥さんが気軽に立ち寄れる環境が整い、コーヒーの大衆化がようやく実    現した。 その代表的な店「ドトールコーヒー」は仙台市内に17店を出店している。(h25
    あくまでも本物志向へのこだわりを主張する「珈琲専科」と、セルフサービス    の「小粋な廉価喫茶」との、併存の時代がここ当分は続くことになるだろう。

(参考) 「新風俗営業法」 昭和34年(1959)  深夜喫茶を明るくする法律改正  
                                     The Soda Fountain No.8
s44/spr P28 から抄録
 10ルックス以下の照明、または5u以下で、暗くて狭い飲食店は、風俗営業の部類に属し、夜の11時で閉店しなければならない。その他の店では、@明るさ20ルックス以上  Aバンドや社交員、ショーなどの接待をせず  B18歳未満の者は客として受け入れない   という条件に適った店は深夜営業を認める。 


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