日本の喫茶店の生い立ちを知ろうとすると、必ず目に留まるのが「可否茶館」と「パウリスタ」。
大正期にコーヒーの大衆化を目指して苦闘の歴史を背負った「パウリスタ」は、
一時期仙台にも支店を置いたことを知って親しみを覚え、
上京の機会に現存の銀座本店を訪ねHPに1ページを加えました。
それから間もなく東北大学文学部での「コーヒー学入門公開講座」で、
茨城大学佐々木靖章教授の「日本におけるカフェの歴史~カフェパウリスタを中心に」
の講義を拝聴しさらに身近な存在になった。
仙台喫店の周辺情報を最近入手したので追加掲載しますした。(2008/01/25追記)

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前述の佐々木茨大教授(1999)の言を借りれば、銀座店の開店は明治44年12月ごろ
だったようだ。と有りますが、先日横山さんという方から突然メールを頂き、
「カフェパウリスタ」の1号店は正確には
明治44年6月25日開店した箕面有馬電気軌道
・箕面停留所前店
(現大阪府箕面市内)ではないか?とのご主旨でした。
その後の横山さんからのメールなどを別ページでご紹介します。



「パウリスタ」とは「サンパウロっ子」という意味
 大正2年10月、日本の喫茶店の原型とも言うべき「カフェ・パウリスタ」が銀座に登場した。白亜3階建ての正面にはブラジルの国旗が翻り、」中に入ると北欧風のマントルピースのある広間に大理石のテーブルが並び、海軍士官風の制服を着た美少年の給仕が、銀の盆に載せたコーヒーを恭しく運んでくるのである。しかも洒落た空間で本格的なコーヒーを味わう代金としては破格の一杯5銭で提供したという。
 明治末期からブラジル移民として1万5千人の日本人がサンパウロ州に送られ、辛苦を重ねた結果コーヒー栽培が軌道に乗ったとして、ブラジル政府がその功績に報いるため毎年1500俵のコーヒー豆を日本政府に送り併せてブラジルコーヒーの普及と宣伝を依頼したその具体化が「パウリスタ」の誕生である。
    パウリスタのマッチ
 その後銀座本店に続いて全国各地に支店(当時は喫店と称した)を開設、大正8年には22店に達したという。左のマッチは大阪松島喫店のもので、知人の松野昭夫氏(仙台在住・故人)所蔵のマッチアルバムから発見した。
 仙台喫店がいつできて、いつ無くなったかは定かでない。ただ住所が当時の東一番丁42番地だったことは明らかでおそらく現三越の辺りではないかと思われる。中村忠雄という人がオーナー店長だったとの記録もある。

その後の調査結果を別欄で紹介します
  北原 白秋
やわらかな
誰が喫みさし珈琲を
紫の吐息
ゆるくのぼれる

   吉井 勇
珈琲の
香にむせびたる夕べより
夢見る人と
なりにけらしも      大正文人とカフェ・パウリスタ
 当時の友人たちが好んでカフェに顔を出し、彼らの筆を通して華やかなパウリスタ時代の演出に力を貸してくれた。
パウリスタの伝票の裏には珈琲の短歌が印刷されていた、と茨城大学の佐々木靖章教授が紹介している。
     宮澤賢治も浅草喫店に?
 現パウリスタの親会社日東珈琲㈱代表取締役長谷川泰三さんからのお便りによると、大正8年浅草金龍館のタンゴ名手高田雅夫やオペラ歌手田谷力三がパウリスタで毎日のようにコーヒーを飲んでおり、宮澤は高田雅夫の踊りについて作品の中で触れているから、当時の賢治のダイアリー手帳の中に時折出てくる「P」の文字はパウリスタのPではないか?と記している。
新橋駅から銀座方面へ徒歩5分博品館向いにある現パウリスタ本店
 
 


パウリスタ仙台喫店

カフェ・パウリスタの地方進出は、明治44年銀座に第1号店を開業してから
大正12年までに順次20店舗以上を開店、東京都心の7店をはじめ
仙台・京都・大阪・名古屋・九州・上海の各地に喫店(支店)をオープンした

仙台喫店は、大正8年ごろ仙台市東一番丁42番地に出店、
昭和6年ごろまでは営業していたことと推定される。
オーナー店長は地元の中村忠雄という人だったようだ。
店の場所はどうやら、現在の三越・141ビルのところのようである。

最近、ハリウ・コミュニケーションズの菊地淳さんから有力な情報を頂いた。
それは、当時42番地の真向かいの東一番丁50番地で親月堂という
和洋菓子屋さんの娘さんだった方(石原美代子さん:故人)が、
その頃の想い出を昭和55年7月の河北新報「ティータイム」欄に
投稿されている新聞記事のコピーです。

残念ながら、地図の上ではパウリスタの名が見えないし、写真も手に入らないが
この新聞によると、お向かいの珈琲の香り、トーストを焼く香ばしい香りが
彼女の記憶として再現されており、さらに妹の吉田芳子さん(87:市内にお住い)
との電話でも「パウリスタという喫茶店があったことは鮮明に覚えている」そうで
ここにパウリスタが営業していたことが明確になりました。
当時の地図などから仙台喫点の正確な位置は、三越の隣の141ビルの辺りではないか?




河北新報 昭和55年7月4日「ティタイム」
投稿者:石原美代子さん(故人) 資料提供:妹・吉田芳子さん


大正5年秋撮影の「親月堂」:仙台で初めて長崎カステラを売り出した(包装紙)


仙台喫店は、大正9年5月現在東一番丁42番地で営業していた
~茨城大学佐々木教授の講演資料から~