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Depth og Focus

〜絵画の焦点深度と浸透圧について〜

伊庭靖子の絵画について話していたとき、ある人が「表出力」という言葉を使った。「表現力」ではなく「表出力」というのが、とてもいいと思った。「表」に「出」ること。表面を越境し、視る側の空間へと働きかけること。

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"Depth of Focus" は、当館のホール空間を前提とした一連の小企画展のシリーズに属する。直径、高さともに10メートルを越す吹き抜けの大空間は、美術館建築における機能という点ではかなり異色である。企画者側としてはこの無目的性を逆手にとり、オーソドックスな展示空間では不可能な何事かを追求するしかない。必然的に、これまでは巨大な立体作品や大規模なインスタレーションが主流となり、ジャンルや表現の垣根を超え、遠心的に拡大していく傾向にあった。

しかし本展は、二人の若手作家による絵画の展覧会である。両者はともに女性であり、同世代であり、関西を基盤に活動し、そして何らかの具体的なイメージを織り込んでいる。ただし、こうした表層的な共通点はさほど重要ではない。

伊庭の絵画は、眼差しという意志が具現化したものではないだろうか。それは色彩や質感、空気の透明感などへと向かう。制作過程で写真を用いることは、その関心を実現するために現時点で最も好都合だからに過ぎない。しかし眼差しは、対象を得て初めてその存在を保証されるはずだ。植物や液体、繊維などの意味性はともかく、そこに対象が「在る」という事実が、伊庭の絵画が成立するために不可欠なように思われる。

一方、松尾の眼はいわば「心眼」のようなものである。彼女は10年近く一貫したテーマに取り組んできた。空虚と充実が同居する、不思議な静けさに彩られた絵画。実はその背後には、強烈な衝動が潜んでいるのだが。誰もが持つ「喪失感」を否定も肯定もせず、そこに「ある」ものとして認識すること。人間存在に対する哲学的な問いかけを、絵画という言語に置換できるとしたら、このような姿となるのだろうか。

絵画に対するスタンスにはかなり差があるが、空間に訴えかける質に着目したとき、両者にはさらに根深い共通点があるように思える。それは圧倒的な力感でも、強烈な瞬発力でもない。何かがその表面から徐々に滲み出している。そこに作品があることによって、展示空間がじわじわと浸食されるような感覚である。不穏な、それでいて心地よい浸透圧。それは何に由来するのだろう。

絵画が物質に還元された時代を経てもなお、そのイリュージョンの魅力は死滅したわけではないだろう。伊庭も松尾も、やはり何らかの具体的なイメージを織り込んでいる。しかしいうまでもなく、ここではクローズアップされた繊維を描くことや、窓枠を描くこと自体は目的ではない。むしろ、それらにまつわる何らかの属性こそが重要なのである。伊庭のフォト・ペインティングの場合、接写のため焦点深度(Deps of Focus)が浅くなることによって生ずる、いわゆるピンボケが画面の大半を占める。一方、松尾の描く窓などの開口部は、彼方の空間から溢れだす光に満ちている。それはまさに、画面より奥の虚空間と手前の現実空間とが混じり合い、交錯する場に他ならない。境界面は前後に振動を重ね、重層的な厚みが産まれる。かくして虚実の境界は「結界」へと移行するのである。ある種のインタラクティヴィティ。虚空間からの誘惑にみちた引力。

極めて特殊なホールが会場となる今回(仮設壁面を交えるにしろ)、通常の展示室以上に空間と絵画との相関性が重要となる。そこに結果する浸透圧に身を浸してみたい。こうした個人的な欲望が、その感覚を他者と共有することによりコミュニケーションの回路として開かれていくならば、学芸員冥利に尽きるというものだ。

山本淳夫