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しづかに息づく世界のプレゼンスを

-伊庭靖子のフォト・ペインティングによせて-


 降雨量の少ない梅雨明け前のあつく倦んだ一日。陽の消息を雲にかくしたままの夕刻は、時間の推移を蒸発させている。地図をたよりにたどる未知の住宅街の路地がネバーランドを旅する者の眼に映る非日常のジオラマのようにたち現れてくる。

 「ガレリア-」の表示のある洋館。招じられて邸内にはいると、過密の都心部から葉脈のようにのびたメトロと私鉄をのり継いで歩きたづねた行程に、乾きほてった身体が清閑な暮方の光と影につつみ慰されていくのを知る・・・。

 階段をあがった展示空間は、一方が緑蔭のテラスと庭園へと開けている。いくらか青みがかった余光とスポットライトがまじりはじめた室内の白い壁に6点のタブローがかかっている。葉叢に息づく植物の蕾や葉脈の表情を、ソフトフォーカスでクローズアップした画像。マジックリアルな油彩によるみずみずしい色彩とマチエールの密度が、プリントにはない有機的な空気感を充溢させている。植物の部分をモティーフにした4点にくわえてニットやウール地の衣服(着衣された状態)の襟もとのみをクローズアップした2点がならんでいる。

 スナップ写真にもとづいて制作するという若い画家の焦点は、どうやら植物のディテールといった特定の物象がもたらすイメージや形体にあるのではなく、カメラ・アイを通してまなざされ、現前される、光という触媒とともに呼吸している世界のプレゼンスそのものにあるようだ。この事情は、さらに階上の小部屋に蒐められた3点の最新作、グラスや瓶にはいったビール、ペインティング・オイルなど液体の部分をクローズアップした作品を巡りみると、よりはっきりとしてくる。

 近代以前の西欧絵画は、まず現実の再現性としてのリアリズムを要件としていた。写真や映像といった機械的なメディアの発達とともに、絵画はイリュージョナルでアナログ的なメディアとしての特性に対して自己言及をつよめ、今日多種多様な視覚メディアが氾濫するなかで、あえて「平面に描くこと」の可能性が模索されている。一見シンプルな色相や変哲もないイメージの作品でも、写真やディジタル映像との差異や相同が意識的/無意識的に屈折した結像の回路を形づくっている。

 こうした絵画性の今日的な探究の抱括、徹底度において、まずあげられるのは、ゲルハルト・リヒターの仕事だろう。

 伊庭靖子のフォト・ペインティングも、リヒターの多元的な方法論の主軸をなすフォト・ペインティングとの比較を意識させる。最近、例によってひと眼でリヒターの表層的な矮小化以外の何物でもないとわかる作品が、美術界のヒエラルキー化を目的として仕組まれた現代絵画コンクールに入選していたりするのを見かける。

 伊庭の作品からは、より内的な感性の要因と動機から、まなざすこと、撮すこと、描くことが「三位一体」となって表現化されるについて、「フォト・ペインティング」という方法が真率に伸びやかに身についた必然性が感受される。リヒターの作品が透徹した認識(視覚)の鏡であるとすれば、伊庭の場合は、写真的視覚を生体化させた世代ならではの感性から、絵画表現へのフィードバックを通して絵画性の可能性が再生されていくナチュールと爽快さがある。

 もっとも作者の希いが、被写体深度をともなうフォーカスに織りなされる世界のディテールやモメントの豊饒さへの慈しみとその再現、伝達の純度そのものにあるのだとすれば、元になるスナップのアングルが植物の作品の場合のように無意識に絵画的構図に依る分、そのフォト・ペインティングの技量とも相乗して、「画像=イメージ」としての美しさのみに見る者を誘惑しがちだったり、植物の部分と同じようにファブリック(織り込まれた)な光彩の表情をとらえるために選んだ衣服の襟もとが、省筆された身体を伴うことによって、身体性のメタファーが意図されているようなイメージを発生させてしまっていることなど、「絵画」となった結果によって持ち上がった問題も多くある。

 そうした問題をも絵画的探究ならではの糧として、失敗をおそれずに心あれば到るところに邂逅の時を待って、しづかに息づいている世界のプレゼンスを、真相の豊饒を、その画布に奏でつづけてほしい。きっとそうでありつづけるだろうと思わせる、もの静かな芯の勁さと一途な情熱のプールの耀きが、夕陰につつまれていく一刻に、若い作者とその作品と共にあった時間の水面に映り出していた。



鷹見明彦(美術評論家)