寝過ごさないために
青色の花を見た少年は言った。「ぼくが珍しく寝過ごしたからって、気を悪くしないで下さい。寝ついたのがずいぶん遅かったのです。それからさんざんうなされた後で、やっと気持ちのいい夢が訪れてきたのですが、それがどうもただの夢ではないのですよ。ずっといつまでも覚えていそうだ。」鉱物のようには不毛ではなく動物のようには意志を持たない植物は少年の夢の格好の対象であり、他者性を都合よくカットした永遠の愛の原像であったのかもしれない。だがベンヤミンが言うように我々にとって夢は灰色で、物が夢に向いているのは、げてものとしての側面である。今日、花の夢を見るのなら、げてものの花を咲かすこと、習慣の手垢のついた物で花を咲かすことが流儀となる。「ありふれたものを捉えることによってぼくらは、同時にみごとなものを捉えるのだ。-みたまえ、こんなにも手近なところに。」例えば、ここに伊庭によって置かれた花がある。少し気味悪い花?それでは少年の夢の花がくすんだ青色になるに過ぎず、年甲斐もない夢に過ぎない。シュールな花々、これすらありふれたものであり、ありふれていることを引き受けた所作こそがここにはある訳である。花の形は粘土で仕立てられてあっけらかんと写真に撮られてしまう。ここに出現する、イメージの様々なリアリティとその差異に注目しよう。写真の映像、刷りのステージごとの映像、ペインティングの跡。これらの混在が生じさせる、リアリティの隔差が物質と記憶の間にある我々の現実の位置を示すかのようだ。少年の夢が原植物ならば、これは現植物である。言わばこれは大人の夢であり、今日こそ寝過ごさないでここで会おう。
三脇康生