個展 ガレリア・キマイラ
伊庭靖子は「襞」を創出する作家だ。初期(といっても1年ほど前の作品)の植物の繊維(襞)を対象にした一連の作品が、清潔そうなシャツの折りたたまれた襟やウールの質感を再現する作品へと変奏され、やがてビールらしき液体の注ぎこまれたグラスに光が屈折するさまや、その液体からの泡がグラスの際にかたちづくる折りこみを丹念かつ曖昧に描きこみ、より抽象度を増したともとれる近作に至る。
1967年生まれ。美術大学の版画科を卒業しており、今回展示された油絵の作品群に移行するまではシルクスクリーンで植物の作品を発表してきた。やがて写真によって対象を接写したイメージを絵画へと移しかえるアプローチが採用される。だが、そこで試みられるのは奥行きや焦点を消し去ることで出来する、いわゆるハイパー・リアリズム的な平面性への執着ではない。見事な力量といっていい筆致によるリアリスティックなイメージには、充分にそうした画像への接近の予感をはらみながらも、それを裏切り、あるフォーカスらしきものを形成する。というか、むしろそれは逆ですべてがリアリスティックに再現された画面の中心に、ピントのずれた曖昧な場所が出現するといってみるべきだろう。それがつまり「襞」であり、平面の折りたたみだ。写真的な平面性を素材とすることで、作家は絵画の平面性を自ら進んで受け入れ、その内部を探求する決意をあきらかにする。だが、そこでその内部性を「外」へと連結させる方式=襞が要請されるのだ。「内の自発性と外の限定性とのあいだに、まったく新しい交通の様式が必要となるだろう・・・」(ドゥルーズ「襞」宇野邦一訳)。外を内へと折りこむこと。植物や衣服、それに光を絵画の内部性のほうへと折りたたむこと。そこで引かれる曖昧で、ピント外れで、たゆみ、ねじれていて、複数の力のひしめきであるかのような境界=輪郭・・・。伊庭は物質=素材を描く作家ではなく、その物質を折り曲げることで非物質的な形態もしくは方式(襞)を出現させるバロック的(?)作家となる。
北小路隆志