個展 番画廊
見たことのあるような、ないような不思議な花なら、じつは見飽きた花なのではないだろうか。伊庭はそこからはじめている。シュールな花々の増殖には手を貸さない。たやすいトレードマークが必要ならば、ある意味でのつらい選択だ。ノヴァーリスの「青い花」の少年がみたような美しい夢を増殖させて、ついにはこれが原植物だと呟くよりも「無意識とは他者のディスクールである」ことに伊庭は意識的なわけだ。ありふれた不思議さ。そこにアウラを見つけようか。そんな暇はあるまい。ありふれた不思議なオブジェが、まず写真に撮られる。しかしこれは無意識を摘出するような作業ではないのだ。もともと写真で見たことのある不思議さなのだ。空想の美術館で。写真は流通し、消費されている。それは制作の条件である。写真に撮られたオブジェがシルクスクリーンで刷られ、そこにパステルが加えられる。ありふれた物語よりも、ここには多様なリアリティが出現することになる。物質と記憶のあいだが出現する。だからこれは、原・植物ではなく、現・植物なのだ。この不思議な忍耐の持続を期待しよう。手垢の染みついた物質と記憶のあいだに花を咲かせることを。
「・・・誰にでも回顧ということがあるように、たんに思い出のなかをさまようだけなのだ。かくて私は「思い出にみちているが、その思い出は私にとって抽象的」である。(クレー)
三脇康生