タマコ物語



はしがき

 後世に名をお残す人間は非常に少ない。殆どその存在したという記録もなく、歴史的にも考古学的にも何にも残らないであろう。私もその一人になるであろう。どんな偉い人も、権力者も、金持ちも、スターもはかない人生である。その同時代をともに生き抜いた人たちがおらなくなればその人間像の記憶は永遠に消滅する。オバマとか秀吉とか後世の人間が取り上げあげたくなって、伝承するような話題の人でなくては無理である。この世には名もないような人間も沢山いるが、言い伝えや文書にする人がおれば、何かの形で残すことは出来るし、言葉として人間に語りかけることの出来ない動物でも残り得るであろう。ここでは人間よりはるかにはかない短い一生であったが、精一杯生き抜いた一匹の猫の断片的エピソードを記録してみた。何にも言葉のコミュニケーションはなかったが、私には懐かしい思い出を提供してくれた。そしてこの思い出が多くの当時の人々や事件にリンクし、どこまでも広がっていくのを感じた。

人間の ざわめきの中 二十年 猫生き抜きし そのさま消えず



猫好きのおばあちゃんであったが

 何代か続いたという宿場町の商家に貰われて、小柄なおばあさんに可愛がられることとなった。それまでそこでは数匹の猫が我がもの顔に居間のみならず仏間や座敷まで走り回っていた.
しかし、その親分に当たる大柄な黒白の猫も年老いたのか畳の上に垂れ流しをするようになった。さすがに猫好きのおばあちゃんも業をにやして、お隣の千代作さんに頼んで自転車に乗せて捨てることにした。子分の猫もいっしょである。千代作さんは九十竜川の堤防を一里も下り河原に捨てた。
その後、おばあちゃんは猫のいない部屋で淋しかったのか、畳に残る猫の毛を掃除しながら「可哀そうなことをした。」と念仏をとなえたりした。おばあちゃんには孫もいたが、一人息子とは別居していたので、おじいさんと二人きりであった。
やはり猫がいないことは淋しいものだった。
 しかし、やはりネコ族はたくましく、数日で親分も子分も続々と戻って来ててしまった。そしてまたおばあちゃんの家の中を我がもの顔にあらしまくった。挙句の果てに縁続きのお隣の千代作さんの家にも入り込んだ。そこでも親分はやはりよく垂れ流した。業を煮やした千作さんはおばあちゃんを説得して、今度は川の中洲に捨てた。さすが、九十竜の激流を泳いで河岸には来れなかった。



運動能力抜群の少女「タマコ」の出現

 あれから何ヶ月か、若い母親を亡くした孫の兄と弟の私はおばあちゃんと一緒に暮らしていた。そして猫がいない日々が続いた。しかし、ある日、子猫にしては少し成長した猫が、落ち着かない様子でおばあちゃんの膝にいた。「タマコや」と頭をなでていた。大変、すばしこそうな雌猫であった。近所の雑貨屋から貰われてきたのだが、その親元へすぐ戻ってしまう日が続いた。しかし、新しい家に自分の匂いがしみついてくるとどうやら新住所に落ち着いた。
 家の前は北陸街道である。国道といっても6mぐらいの狭い道で、少し大きな子供が三段跳びで道を横断することが出来た。たまに来る乗合バスがすれ違うと軒を削った。西日が入り込む街路は夕方になっても明るく、子供たちのいい遊び場であった。猫も犬もよく来た。その中に「タマコ」もいて、子供たちにまじって夕暮れ時、一緒に遊んでいるようだった。薄暗くなるとよく飛んで来る蝙蝠に跳びついたりしていた。そして道路を縦横無尽に走りまわり、自転車の車輪間を潜り抜け、人間を驚かしたりした。「タマコ」のもっとも運動神経のすぐれた少女時代であった。おばあちゃんにとってはこれ以上にない良い猫でもあった。足の裏のまめが黒い猫がよくねずみを捕ってくれるといわれているらしいが、たまこはピンクのまめであったがよくねずみを捕まえた。
 自分のねぐらの座布団も決まり、便所のミカン箱の砂場も決まると落ち着いて住むようになった。おばあちゃんの孫は県立の中学校に通う兄と弟の小学生であった。タマコの遊び相手は弟の私が多かった。その顔はいつもかき傷だらけだった。だっこしてはタマコをこね回すので、逃げようとして爪を立てたのであった。しかし、時には仰向けにされたタマコはその毛の少ない薄い皮の腹をそーとになでられると気持ちよさそうであった。其の姿勢でしばらく眠った様にじーとしていた。猫背がピーンと伸ばされた不思議な光景であった。
 しかし、タマコにとって一番大切な人間はやはりおばあちゃんであった。おばあちゃんが台所にいると外出から帰って来たタマコは食事を要求した。細長い間取りのの中ほどの隅に彼女の青い花模様のついた食事皿があった。ご飯に味噌汁がかけてあった。しかし、猫族である彼女にはあまりおいしくないものであった。どうも薄暗い天井から下げられてある竹編みの籠の中身が気になった。味噌汁ご飯も2口ほど付き合いに食べて、おばあちゃんの足にまとわりついて猫なで声で籠の中の「みがきにしん」をねだった。それはタマコがねずみを捕った時のご褒美のためのものであったので、おいそれと与えるわけにはいかなかった。「またかいな、さきやったじゃないか」とおばちゃんがいうと「ニャーオ」「ニャーオ」とタマコも簡単にはひきさがらなかった。どうやら根負けしたおばちゃんは一本あたえた。それをおかずにしてご飯も食べた。



ねずみはおいしい。
 
 運動神経のいいタマコは次第にねずみ捕りの名人になり、近所でも評判になった。深夜捕獲したねずみをくわえて、寝ている人間の枕もとに自慢げに「ほーらねずみを捕まえてあげたよ」と言わんばかりに見せに来た。はじめは「よくやった」と褒められていたが、深夜あまりに沢山捕まえるので皆うんざりしてしまった。だんだんタマコもいい加減になって、捕まえたねずみと遊びだした。ねずみは必死に逃げようと部屋の隅へとに走った。タマコはそれを追いかけもせず、じーとみていて間一髪というところで、また捕まえた。たまには失敗した事もあった。ある夜、おばあちゃんもタマコと一緒になって逃げたねずみを探したが、どこにもいなかった。その頃、おじいちゃんは持病の心臓病でよく床につく様になっていた。まさか、おばあちゃんはその蒲団をめくってみたらねずみがとびだした。本当にその頃のねずみは猫がいない時は、わがものがおに台所にも居間にも出没して、のさばり走った。そして子供の耳たぶまで噛んだりした。しかし、タマコの出現は彼らにとって大変な脅威であった。
ねずみとのつき合いが深くなって来ると、少女タマコも子猫特有の遊びからかわって、捕ったねずみをよく食べるようになった。そしてそれがかなりうまい事を発見した。特に腹の薄皮を食いちぎって食べる腸の味は格別であった。人間がこのわたを食べるようにするすると飲み込んだ。消化されたアミノ酸の味が旨いのかも知れない。この食事が不思議である。行儀よくというべきか、自分の食事場所まで捕まえた鼠をくわえて運び、皿に盛られているご飯を食べながらねずみを食べた。そして横にそえられた沢庵もかじった。どっちが主食がかわからないが、やはりタマコにはねずみが主食でご飯がおかずかもしれない。
猫の口を拡げてみると上あごすなわち硬口蓋はザラザラでまさしく細かい歯だ、口全体でねずみの骨もくだいてしまう。頭がい骨を噛み砕く音はまさしく破壊音である。サバンナの豹のようである。タマコの図体が大きかったら怖い存在だと思った。しかし、そのような凄惨な場面は、タマコも遠慮してか、だんだん昼は階段の下の暗がりや縁の下とかに隠れるようにしてねずみを食べることが多くなった。しかし、ねずみの毛皮や尻尾だけを食い残すので、いつもその後片付けをするおばあちゃんに「またタマコ行儀が悪い」とせっかくネズミを捕ってあげたのに叱られることもしばしばだった。タマコにはどうししてよいかわからなかった。だんだん縁の下で食べる事が多くなった。孫の私はよく玄関から縁の下にタマコの光る瞳をみた。
 タマコはだんだんベテランになってくると、台所をうろちょろするねずみのみならず、捕らえたかたにもいろいろ工夫するようになった。ねずみの通り道に待ち伏せするのである。排水口や縁の下の通気口である。何十分もそっと隠れるようにしてそこをみつめていた。通りがかりの母親が幼子に「猫ちゃんえらいね、頭がいいね」といった。



タマコもマタタビには弱い 孫の相手も大変である

 弟の孫にとってタマコは大変都合のよいパートナーであった。遊び相手のみならず、いろいろと助けてくれた。孫にとってはい鰯の煮物は大変に苦手であった。何時も食事の時にはにはタマコが丸いテーブルの下にいてくれて、孫がこっそりタマコに与えて食べてもらった。そして好き嫌いのないよい子になれた。
 南向きの縁側はとても暖かい。たまこは座布団のうえでよく昼寝をした。気持ちよく寝ていると学校から帰って来た孫のわたしが大変にうるさい。タマコを抱き上げて肩の上にのせてはよく縁側の床板の上に落した。猫の反射神経の実験と称して、数十センチの上から逆さまに落とされるのだが、一回転して四足でたった。こんな遊びにはかなわんと肩から落とされたタマコは必死に逃げた。縁側沿いに屋内を逃げると、孫は反対回りにそーと隠れるように歩き、たまこの出現をまった。タマコはここまでくれば安全とそっと曲がり角の柱からのぞくとそこにはいたずら孫の顔が見えるではないか、Uターンして又逃げた。こんなことを何回もしていたら、タマコも孫もそれが人間と猫のかくれんぼ遊びになってしまった。タマコも楽しむようになった。柱のかげから孫がそっと覗くとタマコもそっと相手を見る。そのままじーとしていて、孫が動きだすと一目散に逃げた。
そのうち、たまことの遊びにもっと面白いものはないか孫は考えた。「ねこの好きなものはそりゃマタタビじゃ」おばあちゃんに言われて孫は福井市の繁華街まで5kmの道を自転車を走らせた。そこはいろんな薬草なども売っているい薬種屋があった。マタタビを買って来た。夏の日、気持ちよく板の間に寝ていたタマコの鼻先にまたたびをそっとおいた。やはり猫族には効果てきめん。タマコは目をさまし、陶酔したように体をくねらせたりしてマタタビをかかえてじゃれた。そしてその実を噛んでははきだした。もうどうしたらよいか、わからないようだった。よだれもかなりだした。同じことを繰り返していた。ライオンでも陶酔させてしまうというマタタビは本当に不思議な植物である。性的快感を覚えさせるような成分もあるらしく少女タマコには大変な刺激であったに違いなかった。しかし、タマコも疲れはてたのか20分もじゃれた後、さっさと行ってしまった。その後タマコは成長し、子沢山のメス猫になっていった。



屋外でのタマコは愛想がわるいがたくましい。

 猫はいつも屋内にいるのではない。夜になると外のどこかに集合しているらしい。そこでは友達や彼氏彼女も出来るらしい。
そして普通は会合の様に何匹も集まるのだが、恋仲になると二匹だけでそっと密会する。あけっぴろげの犬属とは違う。滅多に人には見られない。田舎ではどこかの家の中にもに入り込んだりして隠れるようにして密会する。タマコの彼氏も見た事がなかった。ただ子猫が生まれてはじめて「ああ白黒か」とわかったくらいである。
 タマコが自宅から結構離れた所を歩いているのを見かけることもある。しかし、私が道であって「タマコ!」と呼びかけてもちらっと振りむくだけであとは知らん顔である。無理やり捕まえて抱っこするまでは何とかなるが「フッ」と怒り出し、逃げて行ってしまう。「こりゃ、ちゃんと覚えておけ!」怒って追いかけるが一目さんに何処かへ行ってしまう。しかし、家に戻るといつものように、「ニャゴニャゴ」と寄ってくるから不思議だ。猫はどうも人間を覚えるのが苦手だ。ここが犬とは全然違う。脳みその機能の違いか嗅覚が犬より可なり劣るのか?はっきりわからない。どうも一定の場所なら2−3人は区別つくようだ。数の計算は下手だ。子猫が1〜2匹おらんでも大体知らん顔をしているが、ふと気がついて探し回ったりする。それは数えているのではなく、何か足らんような気がするのであろう。
屋外のタマコは人間の道も利用するが、ほとんど他人の庭もみな自分の敷地の様である。次々と垣根をくぐり、塀をとびこえ、境界なんかない。塀にものぼり、雀にも跳びつく。自分の背丈よりはるかに高い所へ跳びのったり、また跳び下りたりする。そして猫は着のみ着のまま靴も履かず、食料も蓄えず、丸裸でその日暮らしである。もちろんお金は無用であり、「猫に小判」である。そして不平を全く言わない。本当にエライと思う。人間には真似できない。人間には誇りや自尊心があるから、不平不満の塊である。食べていけても戦争をしたりする。自分の考えを傷つけられると相手を殺したりさえする。人類は厄介な生き物である。猫は孤高である。いったん外に出たらおべんちゃらはつかない。ただ、手向かってきそうな相手にはよく戦った。例えそれが猛犬でもである。ある日、近所の通称 巡査部長というあだ名の猛犬が突然タマコの前にあらわれた。タマコもびっくりしたようであった。「こわっぱ猫のやつ、いっぱつでしとめてやるは」と彼はタマコの頭に大きなどう猛な口を拡げて噛みついてきた。絶体絶命!あ〜 瞬間、逃げ出したのは部長であった。痛そうに、牛若丸の様に身をかわしたタマコは部長のほっぺったに噛みついたのだった。こんな素晴らしい運動能力をもったタマコであったが、子供をみごもった時には、猛犬部長の前では逃げに徹した。ある日、陽光さす明るい縁側で大きなおなかで気持ちよさそうに昼寝をしていたタマコの目の前の軒先にあの猛犬「巡査部長」が又立っているではないか、異常な気配に目をさましたタマコはびっくり、跳びあがるようにして私のいる奥の部屋に逃げ込んだ。この大きなお腹ではとても勝ち目はないのだった。しかし、部長はその室内には入れなっかった。
そして、家の中では本当におばあちゃんに甘えた。



みごもったタマコ テジという名前の子猫

 どこでどうなったのか、タマコに彼氏ができて、だんだんお中が大きくなりはじめた。何匹いるのかかなり大きい。
深夜、タマコのいつもと違うなきごえがけたたましい。おばあちゃんにあまえながらのお産である。「そう泣くな、がんばれがんばれ はやく産め」おばあちゃんのの声が深夜に響く、私ら孫の兄弟は蒲団の中で深夜のタマコの初産の苦しみを聞いた。
翌朝、そっと林檎箱を覗くと、まだ目の開かない薄い毛のはえたピンク色の赤ん坊猫が5匹いた。タマコのお腹はだらりとたれて、だぶだぶになった毛皮を着ているようであった。乳房だけはかなり大きくなっていた。そっとしぼるとしゅっと猫乳がでた。毎日子育てであった。
子猫が大きくなってくるとそれぞれ個性も出てきた。よもぎ、白黒、の二種類であった。タマコはよもぎだから父親は白黒猫だろう。私が子猫に手を出すと、「フー クション」とみがまえるのが一番大きなよもぎであった。兄はこれに「ハクション」というニックネームをつけた。印象に残ったのはシロクロである。どういうわけがこのすばしこそうな子猫におばあちゃんは「テジ」という名前をつけた。そして時々「テジや テジや」と呼んでいた。ながらくその意味はわからなかったが、韓国にいったらソウルの南大門市場に豚の頭(テジモリ)が並んでいた。「これだ!豚だ」しかし、今考えてもその子猫が豚だとはどうしても思えない。おばあちゃんに直接きくしかないが、他界して61年にもなっている。当時、タマコのいた街には日本人にさせられたコリアンの人がかなり沢山住んでいた。おじいさんは貸家を何軒か持っていて、それらの人にも貸していた。私もそこの子とよく遊んだ。そこの子は年上だったが、力も強く相撲大会ではいつも優勝候補だった。頭もよく旧制の中学校に進学して4年目に終戦となり、どこかえ行ってしまった。音信もないから北朝鮮に帰ったのかも知れない。それと「テジ」がどう関係があるのかはわからない。



タマコの家とその周辺

 タマコの住む家は明治時代に建てられた建物である。古い商家でその頃の主人であったおじいちゃんの3代前に火災があって、古い資料がなくなってしまった。北陸街道の宿場町であったが、九頭竜川の川岸に古い旅館が並んでいたようである。明治の中ごろおばあさんは4歳でそこの養女に来て、あとから養子になったおじいさんと夫婦になった。その入籍が早かったおばあさんは口も達者で、あとから来たおじいさんはたちうち出来ない様であった。おまけに舅が気ぜわしい人であったとかで、おとなしいおじいさんは大変な気苦労であったろうと思う。しかし、勉強好きの頭のいい人だった。二人の男の子がいたが、弟の方は18歳でこの世を去った。旧制の中学生の時の軍事行軍の時の食中毒のためであった。たった一人の弟なくし、兄であった父は大変悲しんだという。そして大事な一人息子になってしまった父は大変勉強好きで、小学校で終わらずに家業を継がず旧制の中学校にいき、1年から4年までを首席で通した。そして金沢市の旧制第四高等学校に進み,金沢市の医科大学をでて医者になってしまった。おじいさんとおばあさんは毎日毎日家業のもち屋の仕事に、それはそれは一生懸命働いた。学費もいるし大変な努力であったらしい。街の名物の「よもや」を作った。柴田勝家に献上したといわれていたその米のおこしはその界隈では有名であった。蒸した米を乾燥し、それを炒って飴で固め半面に黒砂糖を塗ったものだが、戦前、戦中は貴重なお菓子であった。あとを継いだ加藤さんは駅で名物として販売したこともあった。現在、作る人もなく淋しい限りである。タマコも「よもや」作りの風景を見ていたに違いない。そしてうろつくネズミどもの退治に貢献したのだろう。昭和15〜16年おじいさんはすでに加藤さんに店を譲っていたが、二人でよく「よもや」を作っていた。”餅や嘉平”すなわち「餅嘉」は「餅加」になった。
 反対のお隣は下駄屋さん、タマコも庭伝いによく遊びにいった。目立ったのはそこのおじいさんと娘さん、若主人はご養子さんらしく、大人しい人だった。店に行くと顔に似合わずそのおじいさんは親切で「お隣さんじゃ、安くしてあげなさい。」と言ってくれた。しかし、あとからみると、そんなに安くもなかった。タマコはそれらの店屋の前の街道を良く横断した。車も殆ど通らず。動物たちにとっても安全地帯であった。
 向かいの傘屋には野球好きの若主人がいて戦後は町の選抜チームの遊撃手であった。そのプレイは牛若丸のようであった。かっては少年野球の福井県代表として、東京の神宮球場の大会に出場したとかで町中、大騒ぎになったということであった。しかし、その若主人の青春は大変な時代だった。南の島、パプア・ニューギニアで敗戦、やっと日本に帰れたが、永らくマラリアの発作に苦しめられた。この家に遊びに行くと、部屋の奥から店先にひょっこりタマコが出てきてびっくりすることもあった。そこのおばあちゃんもよくタマコを可愛がってくれたのだ。その頃の家屋は田舎でもあるし、玄関も縁側も戸もしまっていないこともあり、家猫もどら猫もほとんど自由に出入りが出来た。部屋に見知らぬ猫がいてびっくりすることもあった。大きな青大将が入ってきたり、顔を洗っていたいたら、頭の上にパタンと蝮がとび落ちてきたり、大変だった。蛇取りの名人でもあったタマコはそんなときは頼もしい存在であった。
 お隣の菓子屋の加藤さんの主人の千代作さんはは戦後ロシアに連れて行かれ、なかなか祖国にはもどれなかった。大事な主人を戦地にとられ、留守宅は大変な苦労をしていた。やっと昭和22年祖国の土を踏んだ。しかし、その時、父親とも慕っていたおじいちゃんの姿はなかった。復員の挨拶に来て、玄関先で悲しみに号泣した。終戦の年の11月、祖国を破滅に追いやり、300万人の尊い人命を犠牲にした軍人政治家を恨みながらの死であった。戦地での玉砕のニュースの度に仏壇に「玉砕の御霊に」と札をかざり、お参りし、霊を弔っていた。国の政治を預かるものとして最低なのは「国民の命」を守らない指導者であろう。まず命その次が権威と経済である。
 そこの長男は私と同じ1933年生まれで、秀才であった。旧制の県立中学校に入学すると、すぐ副級長になった。父の召集、福井地震と散々な中で、大学にも進学したが、都会の学校に行くこともならず、東大、京大をあきらめ、福井大学でい一番伝統のある工学部繊維科に入った。その妹も県立の有名高校をでた。タマコはおばあちゃんの死後は一生そこで世話になった。
 タマコの生家は近くの雑貨屋である。 大変しずかな主人と賑やかで朗らかな奥さんがいた。奥さんはよくおばあちゃんのところ遊びにきてタマコが上で居眠りしていた炬燵で、世間話をしていった。その声は真上の二階の孫の勉強部屋にまでよく聞こえた。兄は「−−−−」とその奥さんのニックネームを二階の部屋の床の畳に向かって声をかけ、「聞こえたかな?」と面白がっていた。その家の長男は中学校では可なりの暴れん坊であったが、普段は大変陽気な人であった。多くの武勇談を聞かせてくれた。やくざとわたりあい、危うく助かった話や、戦時中の工場の現場監督をまかされ、どうしようもなかった不良中学生の親分をたたきのめし、社長に是非、婿にといわれた話など、武勇談が多かった。硬派、軟派と何でもこなした。兄弟姉妹みな県立中学校や女学校をでて頭のいい家系だった。
 ななめ向かいの郵便局長の家系も秀才であった。そこの孫も良くできて医者や先生になった。父親は東大医学部出のバリバリであったが、残念なことには戦死してしまった。
近所には成績優秀な子供たちが揃い大変教育にはいい環境であった。そのうち兄は金沢市の旧制第四高等学校にはいり、また近所のの酒屋さんの長男も入った。



タマコと炬燵 巻物をくわえた化け猫

 やはり猫族である。冬になるとタマコもだらしない。炬燵の番ばかりである。大体昼は炬燵の布団の上にまるこまって寝ているのだが、時々おばあちゃんや私に抱かれて赤ちゃんのように蒲団から首だけ出して「ごろごろ」と喉をならしていた。
掘りごたつで炭火の上は木のめざらが置かれていたが、上手にタマコは布団のすきまからその上に入り込んだ。足をいれると時々「またタマコが入っている!」その毛皮の感触がよくあった。全身温まっていい感じらしかったが、ときどき一酸化中毒になるのか、ふらふらになって炬燵から脱出していた。ある日タマコがなかなか炬燵の中にはいりこめないでいて「ニャゴニャゴ」うるさかった。私はタマコを掴んで布団をめくり、放り込んだ。「フッー」一瞬タマコは跳び出した。「アアッチチ」といったのだろう。炬燵にはその時にかぎってめざらがしてなかったのであった。真っ赤な炭火であった。火傷したらしい足のまめを一生懸命なめまわしていた。可哀そうなことをしたものだった。
 夜、私はよくタマコ抱いたり、枕がわりにして眠った。ある冬の寒い夜、いつもの様にタマコを抱いて寝床にはいった。私は炬燵に足を突っ込んで布団をかぶり、眠ってしまった。一大事、一酸化中毒で意識をなくしてしまい、うなった。隣の部屋で寝ていたおばあちゃんが、それ聞きつけて私を抱き上げると痙攣をおこしていた。駆け付けた医者の父が注射をして、その痛みで目覚めた。大分ながい間、失神していたらしく、床のまわりに何人もの人が心配そうに取り囲んでいた。「あ、よかった目をさました。」皆大変心配してくれた。がんがんとっ頭痛がした。しかし、タマコはさっさと逃げていておらなかった。やはり猫は強い生命力をもっている。人間は一酸化炭素中毒になると、わかっていても動かれなくなるといわれているが、猫はサッサと逃げれるのである。 
 抱いて寝るとタマコはよく夢の中にも出て来た。当時の家は縁側の突き当たりに便所があり、その横に薄暗い土蔵の入り口があった。そこは夜になるととても気味悪かった。その辺りからよく化け物がでる夢をみた。座敷の仏壇の横の床の間には極楽や地獄の絵が時どきかけられていて、余計気味悪く怖かった。夢には多くの仏様に混じって妖怪も出た。化け猫が巻物をくわえていた。はっと目をさますとタマコが私の布団にもぐりこみ気持ちよさそうに眠っていた。



タマコの家のピンチ

 タマコの住む家は古い商家であったが、もう商売はしていなかった。そこにはもうおじいさんも亡くなってしまって、おばあさんと孫の私がいた。私の母親は大変、若くして亡くなってしまったからである。私の父親は再婚して離れた所の医院に住んでいた。
新しい若い母親が来たが,医院と子育てで多忙であった。父親は年のせいもあって軍隊にもちょっと行っだけで済んだ。しかし志願兵の形で入隊したので、すぐ幹部候補生になり軍曹になった。そして町の在郷軍人会長になった。それはまでは良かったのだが、戦後の外地からの持ち込み伝染病にやられてしまった。往診中に感染したのかも知れない。高熱が何十日もつづき、入院先の病院の医師も診断に苦労して首をかしげた。特効薬もなく、ひたすら寝ていて回復をまったが、そんな簡単に行かなかった。ようやく熱も下がり、落ち着いた時にはげっそり痩せて、ひげもぼうぼうの老人みたいなってしまった。今考えると、リケッチャ症であったのだろう。リッケッチャ ムーゼリかもしれない。のみが媒介するものだ。往診先で感染したのかも知れない。そんなことがあって、医院の収入は途絶えた。その間、政府は財産税という大胆な税制を実行した。おばあちゃんの持っていた田んぼもなくなった。あるものは住宅のみ、大事な息子の病気にはどうしようもなかった。おかねの心配をしながら、ひっそり孫とタマコとで生活していた。時々貰いものだと言って息子である父から魚が届いたが、それもなくなった。タマコはごしょうばんにはあずかれなくなった。孫の私は川へ行ってよく魚釣りをした。よく釣れるのだが、うぐいが多く、海の魚の味を覚えたタマコにはウグイは大変まずい魚であった。ちょっと手を当て、匂いをかいただけでさっさといってしまった。ブリやアユをやると唸りながら食べるのにウグイはよっぽどまずいのだろう。しかし、人間社会の苦労とは関係なくタマコはいつものようにたくましかった。



おばあちゃんとの別れ 蚤の攻撃

 昭和22年、80歳までは大丈夫といわれていてたおばあちゃんが、本当に突然亡くなった。66才であった。タマコのあまえれる相手がなくなってしまった。朝から体の具合がわるそうだったが、その日の昼、お隣の加藤さんの主人が見つけた時には、もう意識がなかった。急性肺炎を起こしていたのだろう。医者の父が一所懸命、強心剤の注射をしたり、当時全く法外な値段をしたペニシリンをうったが、脳出血もおこしたのだろうか?すでに遅く、意識は戻らなかった。私は中学校3年になっていた。兄は金沢市の第四高等学校にいて、夜行列車で帰って来た。結局、私が一年の時に祖父、3年になって祖母を相次いで亡くしたが、兄は間に合って最後をみとることが出来た。当時、おばあちゃんと二人きりで住んでいた孫の私にはもうタマコしか残っていなかった。見かねてお隣の加藤さんの夫人がよく面倒をみてくれた。息子のC君も一緒に寝たり、勉強することになった。そしてタマコの面倒も見てくれた。私は100mほど離れた父の医院まで食事に通った。おばあちゃんはいなかったが、加藤さんのおかげでタマコにはまた平穏な日々が続いた。そして加藤さんの家の炬燵の上で寝ているタマコをよくみかけた。相変わらずネズミも捕まえ、子猫も生んだ。しかし、もうほめてくれたり、お産の介助までしてくれる人間はおらなかった。タマコの食事も加藤さん宅が主になってきた。しかし子育てが問題だった。やっと見つけたのが二階の物置であった。祖父がよく畑で採れたジャガイモなどをむしろにひろげて保存していた場所であった。そんな餌もあって結構ネズミが出没した。しかし、タマコが子育ての巣には大変都合の良いところであった。孫の私は勉強部屋に近いとあって、よく仔猫を覗きにいったが、大変なこともあった。それはものすごい蚤の攻撃であった。ある日、子猫を抱こうと差し出した腕が真っ黒になった。砂の中に突っ込んだように蚤の大集団だった。足もやられた。びっくりした私はズボンも下着も投げ捨てて蚤を払いのけて逃げた。仔猫の角膜の上には蚤がうろついていた。しかし平気な様子であった。そんなことがあってDDTで徹底的に部屋を消毒さざるを得なかった。そしてやっと蚤も消えてくれた。こんなところにいたタマコを寝床に入れたら大変だとも思った。嫌がるタマコの毛皮を徹底的に駆虫した。おばあちゃんの作ってくれた寝床にいれば、こんなことはなかったのだろうか?



淋しいタマコ どうしたんだろう?

 おばあちゃんが亡くなってから、タマコは甘える人間がおらないようになったせいだったかも知れない。よく「ニャゴニャゴ」と私にまつわりついた。長い時には1時間もはなれなかった。なにかを要求しているようだったが、わからなかった。
ある夕暮れ、外出した私にどこまでついて来て困ったことがあった。目を見るとタマコもじーと私をみつめた。何か哀願しているような眼差しだった。しきりに頭と頬をわたしのズボンにこすりつけた。急ぎ足の私に小走りにどこまでついて来た。タマコが家に帰れるのはここまでだと思い、隠れるようにして走って逃げた。タマコはそこでスゴスゴと引き返して行った。
「どうしたんだろうタマコ淋しかったのか?」いまだにわからないでいる。秋の夕暮の九頭龍川の河畔の堤防の一本道の風景を見る時、今はもう遠い昔になってしまったが、タマコのあの時の姿が、リアルに浮かんでくる。

     どこまでも ついてくる猫 思い出す 九頭龍河畔の 秋の夕暮れ




どこへ行ったのか?タマコ 福井大地震

 それはそれは未曾有の大地震であった。おばあちゃんの死後、半年ぐらいたった昭和23年6月28日の夕方であった。加藤さんの息子のC君と私は明日の試験の勉強をしている最中であった。おばあちゃんの家は木端微塵にに破壊されてしまった。
命からがら逃れたてからすぐ、大音響で家は倒壊したのだった。火事も発生した。戦争も終わってやれやれ、これからと言うときの大災害であった。近所や向こう三軒両隣に多くの犠牲者がでた。殆どが圧死であった。私の家族も当時、赤ん坊であった一番したの弟が圧死した。梁の下になり、2日間、発見できなかったが、見つけた時には平行四辺形に変形して紫色に腫れあがった顔が哀れであった。やっと笑うまでに育っていたのに残念であった。まだ幼かった5才の妹と4才の弟はその姿をみて大声で泣いた。
生き残った人たちも無我夢中に家族の安否を気遣った。そしてまず人命救助であった。そこでは自身のサバイバルや避難など考える余裕はなかった。
4〜5時間もして家族の安否も確かめられた。しかし、タマコの姿はいつまでたっても見られなかった。
地震が来るのを知っていたのか、おじいちゃんもおばあちゃんもすでにこの世から逝っていまっていた。もし生きていたらこの地震では助からなかったであろう。加藤さんの主人の千代作さんも「あの足の悪かったおばあちゃんにはとてもだめだろうな!逃げれなかっただろう。」とつぶやいた。おばあちゃんは足のリュウマチを病んでいて晩年はずって歩いていることもあった。
地震のあと、次の日も、その次の日もタマコはあらわれなかった。極楽のおばあちゃんのところへ行ったのかもしれない。
なかばあきらめていたが、「猫だし運動神経もいいし、どこかの隙間にいるだろう。」などとも思っていた。しかし、強い余震は容赦なく何べんも来た。まさに徹底的な破壊であった。やっと倒壊家屋の隙間に生き残った人にも完全にとどめをさしているようだった。
私は住む所もなく、倒壊した父の医院の空き地にバラックを建てて寝泊まりした。蚊帳をつって兄と寝ることにした。幸い夏だったので、簡単な寝具でよかった。
 何日目か?して、夕暮れ、猫の鳴き声がした。「タマコだ!」倒壊した建物を跳び越えて来たのだった。しっかり捕まえて抱きしめてやったが、タマコはあまりにもの環境の変化に対応出来ないようであった。離したらどこかに消えてしまったが、結局、おばあちゃんのお隣の加藤さんの仮住宅に落ち着くこととなった。もうタマコは6才になっていた。
ながらく住んでいたおばあちゃんの家もなくなってしまったので、私は父の医院のやっと倒壊を免れた平屋の台所を改造した仮住宅に住むことになった。妹と弟とも一緒であった。


中年から老猫に そして消える。

 加藤さんのお世話になってからタマコに会う機会が減ってきた。私も高校3年生、旧制の中学が無理やり女学校と合併させられて新制の高等学校にかえられたが、授業はやさしくなり、中学時代の繰り返しも多かった。男子生徒はむしろ喜んでいた。特にこれまでの男子と女子の教育の落差が大きかったらしく、あまり勉強しなくてもいい点数がとれた。そこに大地震があったから、旧制の中学校時代の誇りの一つだった勉強癖がなくなってしまった。毎日、暇があるとキャッチボールばかりしていた。地震のあとの山のように積まれた廃材や瓦などのあいだでピッチングをしているとタマコがッヒョコリ顔を出すことがあった。
すぐ高校3年生になってしまった。私はあわてて、受験勉強をした。その後は幸い家族も健康であったので、勉強に精を出すことが出来た。どうやら金沢大学に合格した。40名の合格者の中にはいれたが、同じ高校の5人の仲間も合格できた。クラスでは一番多かった。
金沢市内の本多町に下宿し、帰郷することもだんだん少なくなった。たまに戻って加藤さんの家に行くと、まだタマコはいた。
もう12才、タマコも若き日のように活発ではなかった。しかし、もう猫仲間の女親分になっていたのかもしてない。
大体寒い時は加藤さんところの炬燵の上に寝ているのであるが、私が行ってからかうと、面倒くさそうに前足をねたままでだし、ちょっと子猫のまねをしてみせた。人間につきやってやっている様な感じであった。
時が過ぎて、私も25才、医師国家試験も終わったが、タマコはまだいた。もう18才である。本当に老猫になってしまった。何でも面倒くさくなった様であった。ネズミも取れなくなっていた。うまくいくと猫は20年を生きるというがどうだろうか?
その後、何年かあわなかったが、ある日、加藤さんからタマコの死亡が知らされた。年老いてよたよたになった「タマコ」はつに往生した。あれ程の輝かしく、素晴らしい運動能力をもったタマコも年には勝てなかった。静かに息をひきとった。加藤さんはタマコを抱いて九頭龍川の河畔に行き砂中に葬った。南無阿弥陀仏と書いて布にくるんだ。
今では私もタマコの何倍かの年にもなった。この間、多くの猫にもあったが、タマコは不思議な猫であった。そこには戦前、戦中、戦後の日本の人間社会をを見つめ、生き抜いた日本猫の姿がみられた。



タマコの復活 J.cats バドミントンクラブの誕生

 2000年タマコは復活した。 私が金沢市に住んでもう半世紀もとっくにたち、孫のような近所の子供たちも随分大きくなっている。かって、私は子供たちを集めて、自分の趣味のバドミントンを教えていた。始めた頃は私もまだ40才代であったから、本当に子供たちと練習をしたりゲームをしたりした。そして遂には県大会でも優勝してくれた。その後、次第にジュニアの世話をする人も増えて、県内には強い子供たちもどんどん出て来る様になり、大人を負かしたりするほどにもなった。私はその後は仕事も大変忙しい時代にはいり、ジュニアのこともしばらく消極的になっていたが、どうしてもかってのジュニアを復活させてやりたかった。私も60才近くになっていたので、気力もなかったが、バドミントンのシャトルコックを追う子供たちの姿をみて、「そうだ、タマコだ」すばしこい少女猫タマコの姿をそこに重ね合わせた。シャトルコックは小鳥であり、こうもりであった。ジャンプして鳥に跳びつくタマコの姿があった。Jamping cats、省略してJ.catsというバドミントンクラブの名前が浮かんだ。猫は九つの命を持つという。なかなか死なない。ねばリ強く生き抜く。死んでも化け猫になってまた出てくる。スポーツの世界にはこのしぶとさが必要である。その後、子供たちは若い指導者にも恵まれ、全国大会でもいい成績を残すようになった。