日本国憲法の理念をふまえ、憲法改正
国民投票法案の問題点を考える


伊藤真さん(法学館憲法研究所所長、伊藤塾塾長)

 総選挙後の小泉・自民党の大勝による自公政権の3分の2勢力化を背景にして、すでに05年秋の特別国会で、国民投票法案を審議する憲法調査会の設置が衆議院で決められて動きだしています。国民投票法案とはなにか、その成立をなぜ阻んでいかなければいけないのかという点について、伊藤真さんにお聞きしました(聞き手・事務局)。改憲阻止の歴史的な闘いをつくっていきましょう。



 05年10月22日に「自民党の新憲法草案」が発表されましたが、これは憲法改正ではなく政治的クーデターであると私は考えています。日本国憲法には新憲法制定の手続きはどこにも書いてありません。国会議員は新憲法の制定、すなわち、現行憲法の価値を否定して新しい憲法秩序を樹立する権限を主権者たる国民から与えられていませんから、新憲法を制定することなどできません。(『全国通信』の前号4〜5面・浦部法穂さんの論文参照)
 現行憲法の96条は「憲法改正の手続き、その公布」を定めていますので、自民党などはこの規定にもとづいて憲法を「改正」しようとしているのですが、96条が予定している憲法改正国民投票の方法を定めた法律はありません。そこで憲法改正国民投票法(案)をつくりたいということなのです。

法案提出の背景

 政府与党は憲法改正国民投票法案を次期通常国会で通そうとしています。なぜ急ぐのか。それは言うまでもなく、米軍再編、アメリカの国際軍事戦略のスピードにあわせて憲法9条を変えなければいけないという要請があるからに他なりません。そのために小泉首相も意識的に朝鮮半島や中国大陸の国を刺激するような発言を続け、緊張関係を高め、国民の気持ちとして軍隊を持たなければ危ないのではないか、戦争ができる強い国にならなければいけないのではないかというムードをつくり、国民をそこに誘導しているわけです。そういう大きな戦略の具体化のために憲法改正国民投票法案が出されてきているということを私たちは見抜いて、それに乗せられないようにすることが大切だと思います。
 9条を変えて戦争ができる国になりたいと本気で考えている人はあまり多くはありません。もう60年もたって古くなったからとか、アメリカから押しつけられたものだからといった議論は既に克服された話です。国民は押しつけと思っていません。プライバシーの権利などを保障する必要があると言う人もいますが、それは現行憲法で十分対処できるものです。国民は憲法「改正」の必要性を感じてなく、今の憲法を受け入れているのです。ですから、これまで憲法改正国民投票法が制定されてこなかったのです。
 立法不作為という理由で、やはり憲法改正国民投票法ぐらいはつくっておかなければならないという議論があります。しかし、国民投票法の制定は改憲の第1ステップになりますから、この法律を手続きのためのニュートラルなものとしてとらえることは、あまりにも現実の政治を甘くみてしまうことになります。まさにいま、上からの改憲の必要性の流れの中で生じてきた憲法改正国民投票法案をあたかもニュートラルなものとみなすことはできません。

憲法96条の意義

 次期通常国会で論議されようとしている憲法改正国民投票法案には検討すべき問題点が多々あります。
 そもそも憲法というのは多数派が支持をした国家権力に歯止めをかけ、少数派の人権を守るための道具であり、その時々の政権の多数派がおかしてはならない、やってはいけないことをあらかじめ憲法という枠で歯止めをかけるものです。それが憲法の根本の存在理由なのです。ですから、96条の憲法改正の規定はあえて国会議員の3分の2という特別多数の賛成を必要とし、そして国民投票を要求し、改正のハードルを高くして、その時々の多数派に縛りをかけているのです。誰もが自分たちが間違った判断をする危険性があり、多数の意見に流されやすいということをふまえて、あらかじめ冷静なときに多数派に歯止めをかけておくということなのです。
学校での憲法教育は不可欠
 憲法改正国民投票制度が成り立つには、国民ひとり一人が主体的な主権者であることを自覚し、憲法を理解し、国民投票をしたことの結果について十分責任をとる成熟した国民であることが大前提です。ところが日本の場合、小・中・高校、大学などでは、法律と憲法の違い、憲法がなんのためにあり、そのもっとも大切な価値は何なのか,憲法の平和主義とは何なのかといったことについてあまり教えられていません。私自身の経験からも、憲法と法律のちがいなども大学生になってやっと知ったわけです。憲法を意識的に学ぼうとする動機付けのない多くの国民にとっては憲法なんてどうでもいいことになってしまうのです。
 これは個人の問題というより、憲法の基本的な考え方を教えない教育システムが何十年と続いてきてしまった結果だと思います。とても本来の国民主権に基づいて憲法を議論し、それを改正していくような状況にはありません。
 私たちはいままで60年間、戦争のない平和な社会を享受してきました。これを戦争のできる国にしてしまう改憲に手を貸すことによって、次の世代の人たちは戦争やテロに脅えながら生きることを強いられてしまうことになるわけです。次の世代の人たちからなんであなたたちは60年間平和を享受しておきながら、次の世代にそんな恐ろしいものを残していくのだと非難されても誰も文句はいえない状況になってしまうだろうと私は思います。
 重要政策を人気投票のような形で安易に決めてしまうプレビシットではなく、主権者がその自覚と知識をふまえて本当の意味での意思決定する、レファレンダムが本来求められているのです。

国民投票法案の中身

 憲法改正国民投票法案の内容を見てみましょう。
<投票権者>
 投票年令の範囲について、「国政選挙の選挙権を有する者」にするという議論がありますが、憲法改正は将来のこの国のあり方を決めるのですから、できるだけ若い世代が国民投票に参加できるようなものにしなければいけないと思っています。在外邦人、在日外国人のみなさんの投票権をどうするかなどという問題もあります。
<投票期日>
 投票までの期間が30日以後90日以内とされています。周知期間を短くする力が働いていることは重大です。
<投票方式>
 投票方式として、○×で一括で投票すべきか個別に投票するのかという大きな問題があります。自民党内の一括投票方式は新憲法の制定の考えと結びついているのでしょうが、この点には賛成だがこの点には反対だという国民の意見が反映できない一括投票方式というのは、国民主権の理念からすれば間違っていると思います。基本的には逐条ごとに投票するようにするべきです。
<成立要件>
 過半数によって憲法改正国民投票は成立することになりますが、過半数を有権者の過半数とするのか、投票総数の過半数か、有効投票数の過半数とするのかという問題もあります。
<公務員等及び教育者の地位利用による国民投票運動の禁止>
 憲法改正国民投票にあたっての学校の先生方など教育公務員に対する規制も問題です。教育公務員に対する規制は教育の自由を侵すものであり、それを封じ込めてしまうことは大問題です。
<新聞又は雑誌、放送局への規制>
 憲法改正国民投票にあたってのメディアに対する規制も問題です。
 自民党の舛添議員がメディア規制に反対だというなら、金のあるわれわれが広告を買い占めていいのかという発言をされたそうですが、広告によって国民を扇動できると考えているからそのような発言が出るわけです。それは国民を愚弄した発言ではないかと思います。テレビ、新聞、インターネットを含めて言論や運動は原則自由であるべきだと考えます。

メディアに惑わされない

 私は、メディアに対するつきあい方というものを、国民がしっかりと自覚をしていくことがとても大切なことだと思います(メディア・リテラシー)。メディアは実は主観的につくられたものであって客観報道なんて存在しません。事実が伝えられているようで、実はそれは編集者やディレクターなどその番組を作成する人たちの意図や一定の方向性をもって番組や記事がつくられているのです。良きにつけ悪しきにつけメディアから流される情報はそういうものだということを国民が認識して情報を鵜呑みにしないことが大前提として必要だと思います。
 国民の憲法について考える力やメディアを見る力が必ずしも十分成熟していない段階で憲法改正国民投票をしてしまうことは、多くの国民にとって不幸なことだと思います。

民主主義の理念にたって考える

 いうまでもないことですが、憲法は自由を保障することが原則で、あくまでも例外として必要最小限の制約を課すだけなのです。その考え方をこの国民投票法運動の規制のところにもあてはめるべきです。
 憲法「改正」の行き着く先はこの国を戦争のできる国にしよう、国民の自由を今まで以上に制限しようとするものですから、本来の民主主義がめざす方向とは逆方向になります。民主主義の目的はあくまでひとりひとりの個人を尊重し、より自由な、安全な社会をつくっていくことなのです。
 したがって、多くの国民が憲法について主体的に判断できるようになって、国民投票法案阻止の闘いを強力にすすめていかなければならないと考えています。(文責・事務局)

国民投票法案の問題点

第二章 国民投票の投票権
 7条 20才以上
第六章 国民投票の期日
 31条 30日以後90日以内を自公で合意
第七章 投票及び開票
 36条 一括投票、賛成○、反対×
第九章 国民投票の効果
 54条 賛成票が有効投票総数の過半数で改正を承認
第十三章 国民投票運動に関する規則
 63条 裁判官など特定公務員の運動の規制
 64条 公務員一般の「地位利用による国民投票運動」禁止
 65条 教育者の「地位利用による国民投票運動」の禁止
 66条 外国人の国民投票運動の禁止 寄付の禁止
 68条 予想投票の公表の禁止
 69条 新聞又は雑誌の虚偽報道等の禁止
 70条 新聞又は雑誌の不法利用等の制限
 71条 放送事業者の虚偽報道等の禁止
第十四条 罰則


自民党「新憲法草案」を斬る!
「改憲」論はクーデターの企て

浦部法穂さん(名古屋大学教授)

 9月11日の総選挙で与党は2/3以上の議席を占め、どんな法律でも通せる数になりました。私は、とうとう「1933年のドイツ」的状況が現実のものになってしまったという感を強くしております。1933年のドイツでは、ヒトラーが首相になり、その年の選挙でナチ党が圧勝して議会で「全権委任法」を成立させ、全ての権力を手にしていきました。小泉政権が「全権委任法」の代わりにやろうとしているのが「憲法改正」です。それは、まさにファシズム体制の仕上げとしての意味をもつものになりかねません。

「憲法改正」or「新憲法制定」

 「憲法の改正」とは現在の憲法の存在を前提にして、その条項に部分的な変更を加えることです。今の憲法を全部変えてしまうというのは改正ではなく、現憲法の廃棄、新憲法の制定です。また、憲法の基本的原理を変質させるような改正も改正ではなく、現憲法の否定と新憲法の制定になります。
 日本国憲法は、「憲法改正」について96条で定めています。第1項は改正の手続きを定めていますが、第2項で、憲法改正が成立したときには「天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」としています。「この憲法と一体を成すものとして」ということは、いまの憲法が残っていることを前提としております。憲法を全部変えてしまうとか、憲法の原理原則を大きく変えるという場合は、もはやいまの憲法は存在しなくなるわけですから、いまの憲法と「一体をなすものとして公布する」ことは不可能になります。ですから、日本国憲法は、そのような憲法の変更を「改正」としては予定していないのです。
 もう一つ、99条は「公務員の憲法尊重擁護義務」を定めています。国会議員も、もちろん憲法尊重義務を負っているわけです。96条にあるように、日本国憲法の改正を発議する権限は国会にあり、国会は憲法を尊重し擁護する義務を負っている国会議員で構成されているわけですから、国会がいまの憲法を否定するような「改正」を発議できるというのは矛盾しています。国会が発議できるのは、あくまでも、いまの憲法の存在を前提にした、いまの憲法の基本的な原理を変えないかぎりでの憲法の改正なのです。
 ところが、いま自民党は「改憲」と称して「新憲法起草委員会」を党内につくり、いまの憲法を廃止して新しい憲法をつくるということを公然と言っています。民主党も「創憲」と称して、新しい時代の新しい憲法をつくるんだと言っています。しかし、自民党や民主党が言うこのような「改憲」は、もはや「改正」ではありません。それは新憲法の制定です。だとすると、それを憲法96条の改正手続きで行うことは許されません。

憲法制定権は誰にあるのか

 自民党や民主党は、なぜ新憲法制定を言い出しているのか。その直接のねらいは9条を変えようということですが、ここにはじつはもうひとつ大きな問題があります。やや専門的な話になりますが、それは「憲法制定権力」、すなわち、憲法をつくる権限は誰にあるのか、という問題です。
 日本国憲法前文には「日本国民が憲法を確定する」と書いてあります。つまり、国民が「憲法制定権力」をもっているという前提に立っています。戦前の大日本国帝国憲法は、天皇がつくった憲法という建前になっていました。天皇が憲法をつくってそれを国民に示すということが、はっきりと書かれていました。しかし、日本国憲法は、国民が憲法をつくってそれを権力担当者に守らせるということを、はっきり宣言しています。「日本国憲法は国民がつくったなんていうのはウソッパチだ。占領軍がつくったんだ」と言う人もいますが、確かに国民が憲法をつくったというのはフィクションで、建前です。でも建前こそが重要で、民主主義も人権も平和も、建前が維持されなければ成り立ちません。
 自民党も民主党も、その建前を変えたがっているのです。国民が憲法をつくってそれを権力担当者に対して守れと義務づけているいまの憲法の仕組みは、彼らにとっては邪魔なのです。集団的自衛権や集団的安全保障の枠組みのなかに日本も積極的に入っていかなきゃならないのに憲法がダメだと言っている。憲法によって縛られているために自分たちが「よかれ」と思ってやろうとすることもできない、そういうように自分たちを縛っている憲法はけしからん。これが彼らの基本的発想なのです。
 だから、自民党や民主党は、憲法というものを、権力担当者が守るべき規範としてではなく、国民が守るべき規範として位置づけるという形で、憲法というものの性格を180度変えようとしているのです。昨年の6月に、自民党も民主党も党内の憲法調査会の報告を出していますが、自民党は「これからの憲法は国家と国民が協力しあって共生していくためのルールだ」と言い、民主党は「憲法は国家と国民の間の規範として国民ひとり一人の行動の価値基準になるべきものだ」と言っています。
 とすると、国民に対して「守れ」と命ずる主体はいったい誰なのでしょうか。大日本帝国憲法の場合は、天皇が命じたということで、主体ははっきりしています。天皇が憲法をつくった主体で、天皇に「憲法制定権力」があるという前提でしたから。しかし、自民党も民主党も、旧憲法のような「天皇がつくる憲法」に変えようと言っているわけではありません。「国民の憲法制定権力」ということ自体を否定すると言っているわけではないのです。そうすると、誰が国民に対して憲法を守れと命じるのか、さっぱりわからないことになります。

「改憲」は上からのクーデター

 つじつまの合うように考えてみると、結局、自民党や民主党の国会議員たちは、どうやら、自分たちは国民の代表なんだから憲法をつくる権限は自分たちが当然もっている、憲法をつくる主体は自分たち国会議員だ、「国民の代表」である自分たちが憲法をつくるのだから「国民の憲法制定権力」という建前に全然反するわけではない、という考え方にたっているとみざるをえません。しかし、これはとんでもない話です。「国民の代表」だからといって何でもできるわけではありません。国会議員は憲法によって国民から委託された権限をもっているに過ぎないのです。憲法は、憲法制定権を代表者に委ねてはいません。憲法の改正についてさえ、彼らには原案をつくって国民に示す発議権しか委ねておらず、最終的な決定は国民自身が行うとしているわけですから、「国民の代表」に憲法をつくる権限まで委ねていないことは明らかです。
 国会議員たちが憲法をつくって国民に守らせようという発想は、専門的にいうと、「憲法制定権力の不法な簒奪(さんだつ)」です。本来「国民」にあるはずの憲法制定権力を「国民の代表」が奪ってしまうということで、これはクーデターにほかなりません。
 憲法学界では「憲法制定権力の移動をともなう憲法の変更はいかなる意味でも改正ではありえない。それは現憲法の廃棄と新憲法の制定であり、法的には革命である」という点は、ほとんど一致しております。そういう意味で、自民党や民主党が「改憲」の名の下にやろうとしていることは、革命ないしクーデターというべきもので、「改正」などという生やさしいものではないということです。
 では、果たしていまの日本で新憲法の制定を必要とするような事情があるのでしょうか。そもそも、新憲法の制定ということは、革命や戦争・内乱などによって統治体制の根本的な変革があったときに行われるのが普通で、平時に新憲法の制定が行われた例を私は知りません。「60年間一度も改正されない憲法など例がない」などと言われたりもしますが、逆に平時に、「60年もたって古くなったから」といって新憲法の制定が行われた例はありません。いまの日本で新憲法をつくらなければならない状況は全くないにもかかわらず、国会議員たちが新憲法をつくろうと言っている。それは何を意味するのか、といえば、実は彼らが統治体制の根本的変更を企てているということにほかならないのです。そういう形で「革命」を起こそうと企てているのです。「憲法改正」問題などと呼ぶのは不適当だということを、認識しておかなければなりません。

憲法の基本原理の変質

 自民党の新憲法の第1次草案は、形式上は、条文の番号もいまの憲法をそのまま書き写しているし、字句の修正にとどめた条文の方が多い。ではこれは全面改正ではなく部分改正かというと、決してそうではありません。第1次案を見るだけでも日本国憲法の基本原理は大きく変質しています。
 まず第9条ですが、自衛軍の創設ということは新聞などでも報道されていますからみなさんご承知と思います。私がまず第1に注目したのは、この9条から「戦争放棄」という言葉が完全に消えていることです。現在の憲法は「第二章 戦争の放棄」。自民党新憲法案では「第二章 安全保障」。それから9条の第一項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は---永久にこれを放棄する」と定めておりますが、自民党案では、「戦争その他の武力による威嚇または武力の行使を永久に行わないこととする」となっています。だいたい法律で「こととする」というのは「場合によってはそうでないこともあるよ」ということです。
 「戦争の放棄」という言葉自体がなくなれば平和主義の原理は完全に放棄されます。それはそうでしょう。自衛軍を持ちながら「戦争は永久に放棄する」というのは、おかしな話です。軍隊は戦争をやるための組織ですから、軍をもつということは戦争をするということなのです。戦争放棄の文字の削除と自衛軍の保持の明記は対になっています。
 それから、人権保障のところでは、「公共の福祉」という言葉を「公益および公の秩序」と言い換えています。そして「公益及び公の秩序に反しない義務」というものを強調しています。これも、やはり理論的には大きな変更です。「公共の福祉」については、全体の利益のために個人の権利を制限するのは当然だという考え方が、政治の場や司法の場では、実際にしばしば適用されています。しかし、「公共の福祉」ということの本来の意味は、「みんなのため」ということであるはずなんです。一人ひとりの「福祉」を超えた全体の利益とか全体の秩序とかとは、本来無縁の言葉なのです。「公共の福祉」を「公益および公の秩序」と言い換えると、権力の都合によって人権も制限されるという話になってきます。一人ひとりの権利を超えた権力の利益や権力的な秩序によって人権が制限されるということになります。このように人権保障の点でも大きく変質させられています。
 ほかに、自民党新憲法案では、「政教分離」の緩和も盛り込まれています。いわゆる「靖国問題」を意識したものにほかなりませんが、国家の宗教的中立性を緩和しようというわけですから、神社神道との結びつきを容易にし、かつての国家神道的なものさえ出てくる可能性があります。これも国のあり方の大きな変更になります。

新憲法と教育基本法の改悪

 今回の1次案ではまったく触れられていませんが、憲法の前文を全面的に書き換えるということもいわれています。前文は憲法の理念なり原則を宣言しているわけですから、そこを全面的に書き換えることになれば、形式的にも全面改正にならざるをえません。しかも、そこに伝統とか愛国心とかを盛り込むというのですから、教育基本法の見直し論と軌を一にします。
 ホブズボームという歴史学者は《ナショナリズムを煽ろうとする動きは、常に一切を国家と国旗のもとに服属させるために教育を活用してきた、それは権力の常套手段だ》と指摘しております。教育をつうじて「愛国心や伝統・文化」を植えつけ、権力に服従し忠実に従う国民をつくる、そのために教育基本法を変えよう、そういうことです。

非武装平和は非現実的か

 非武装平和の9条は、「非現実的」だと言われたりもします。9条を擁護する側も「いや、それはそうかもしれないけれど、その理想はやっぱり守っていかなければ」などという言い方をする場合があります。しかし、「現実的」とか「非現実的」とかという議論自体が、じつはおかしな議論なのです。そもそも「現実」というのは、いろんな現実があって、決して一つの「現実」だけがあるわけではないのです。たとえば、国際社会の現実というのは、一つには、アメリカ・ブッシュ政権による力づくの世界支配の現実、それと対抗するテロと呼ばれるような実力による抵抗の現実があります。しかし、他方、国際社会では、さまざまなレベルでの非軍事の人権保障や「人間の安全保障」という取り組みが行われています。これも「現実」なのです。憲法の非武装平和主義は、アメリカ的な「力の支配」という現実にはあわないとしても、もう一つの現実には完全に適合しているのです。9条が現実的か非現実的かではなく、われわれはどっちの現実を選ぶのかという問題なのです。世界のあり方、そしてその中でのこの国のあり方として、どのような道をわれわれは選択するのか、これこそが、いま私たちに突きつけられている問題なのです。