「セロ弾きのゴーシュ」問題点の解答 2002/06/08 山戸朋盟

問一 始めの第六交響曲の練習の場面で、楽長がゴーシュに注意したことを、三点にまとめよ。(一点は七字以内)

 「セロが遅れた」「とけた靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるく…」「糸が合わない。…ドレミファを教えてまでいるひまはない…」(調弦が狂っている)「表情ということがまるでできていない。怒るも喜ぶも…」から、

@ リズムが悪い。
A 音程が悪い。
B 表情がない。

 よく、「こんなにセロの下手なゴーシュが、なぜプロの楽団を首にならずにいられたのか」という質問をする生徒がいるが、そういうのを「愚問」と言う。首になっていたら、この小説が出来ないではないか。「なぜ猫やかっこうが人間の言葉をしゃべれるのか」というのも同じ。小説とは、実際にはあり得ない設定のもとであっても、そこに作者が読者に訴えたいこと、作者が人間の真実だと信じることを表現するものである。そういう「実際にはあり得ない架空の設定」のことを fiction 、日本語では「虚構」と言う。だから、小説のことを fiction とも言う。

問二 ゴーシュはどういう生活をしているか。それはどこで分かるか。

 水道もない、町外れの壊れた水車小屋を借りて、周りの小さな畑の管理を地主から任されて、自給自足の生活をしている。水車小屋の持ち主は、水利権を持ち、立派な家に住み、粉問屋などをしている有力者だろうから、この水車小屋はゴーシュのものではないと考えられる。水車が壊れて役に立たず、放っておくと動物や浮浪者などが住み着いてしまうので、持ち主がゴーシュに、ただ同然で貸したのだろう。これは勝手な推測ではなく、そもそも水車小屋が自宅であるなどということは、いくら田舎でも常識的にあり得ない。田舎には、人が住むための家や小屋を建てる土地はどこにでもある。水車小屋というものは、人間が日常生活を送るために作られているものではないし、また、そこに住んでいるのがゴーシュ一人だけで、彼の両親や兄弟などの家族がいないことからもそれが想像できる。ゴーシュは猫に対して、「おれの畑のトマトだ」と言っているが、周りの畑も法的にはゴーシュの所有ではないが、田舎なので、持ち主から「周りの畑でトマトやキャベツなどできるから、自由に食べていいよ」ぐらいのことを言われたのだろう。

 活動写真館つまり映画館は、普通、町の中心にあるものだ。そこに通勤するには町の中心に住むのが一番便利に違いないが、こんな町はずれの、しかも壊れた水車小屋を借りて住んでいるというのは、ゴーシュはよほど貧乏なのだろう。きっと、ゴーシュの本当の家、つまり両親の家は、どこかの山奥にあるのだろう。

 友人は「ホーシュ」一人しかいない。この人はゴーシュと名前が似ているが、ゴーシュよりは少し柔らかい音の響きなので、似たような不器用な性格だが少し優しく、同じように貧しい生活をしているのだろう。夜、「うしろの扉をとんとんとたたくものがありました」という時、「ホーシュ君か」と言っているのは、その人くらいしか訪ねてくる人がいないことを示している。もちろん、ガールフレンドもいない。ガールフレンドがいれば、ゴーシュは、扉を叩く音を聞いた時、「よし子ちゃんか」とか言うはずだ。

問三 猫が来たことのゴーシュにとっての意味は? なぜ猫は「トロメライ」をリクエストしたのか。

 「トロメライ」は、正しくは「トロイメライ」で、「小さな夢」または「可愛い夢」という意味。皆さんご存知だろうが、穏やかで感情のこもった曲で、曲想も題名も眠る時のバックミュージックにふさわしい。猫は、近所に住んでいて、いつもゴーシュの音楽を聴いていたが、ゴーシュの演奏に表情が欠けていることを知っていて、今夜はそれを直す目的で来たのだろう。「トロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」というところから想像すると、今までに何回かゴーシュがトロイメライを弾くのを聞いたことがあるのだろう。そして、自分がそれを聞きながら眠るためということもあるが、ゴーシュに静かに感情を込めた演奏をしてほしいと思って来たことが推測できる。ゴーシュは猫の態度に怒ったが、結果として、「印度の虎狩」を弾くことで、怒りの感情を込めて弾くことを学んだ。また、猫が苦しむ様子を観察しながら、猫を脅かすために、虎狩りの勇ましい様子を生き生きと表現して弾くことを学んだ。猫は虎の一族なので、さぞかし怖かっただろう。
 この猫は、ゴーシュの演奏を直すために楽長が差し向けたのだ、という意見が時々ある。そのように想像するなら、どこにどう書いてあるから、そのように推測できるという根拠を示すべきだ。

問四 ゴーシュが猫の舌でマッチを擦ったら猫はものすごくおどろいた。なぜそんなに驚いたのか。

 猫は猫舌だから、ものすごく熱かったから。

問五 かっこうが来たことのゴーシュにとっての意味は?

 かっこうはゴーシュが人間の音楽家なので自分より偉いと思い、音程を教わりに来た。それは、かっこうがそう言っている。しかし、結果としてゴーシュに自分の音程の悪さを気づかせた。「何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました」、「どうも弾けば弾くほどかっこうのほうがいいような気がするのでした」というところまで行くが、すぐそのあとで「えいこんなばかなことをしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか」と増上慢の心が打ち勝ってしまう。

問六 たぬきが来たことのゴーシュにとっての意味は? 二番目の糸がおかしいのを指摘されて、セロを買い換えたわけでもないのに、なぜ上手になったのか。

 たぬきもゴーシュに合奏してもらうために来たのだろうが、結果としてゴーシュにリズムの練習をさせて上達させた。また、二番目の弦を弾く時に遅れることを教えた。楽器の欠点に気づけば、それを補って弾くことができるので、結果としてゴーシュのリズムはよくなった。「いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ。」…前の晩のかっこうの時と違い、ゴーシュが素直に自分の欠点を認めている点に注意。初めの場面で楽長が指摘したゴーシュの欠点三点と、猫・かっこう・たぬきとの交流でゴーシュが学んだことは一致している点にも注意。

問七 ねずみの親子が来たことのゴーシュにとっての意味は?

 自分の存在が他人の役に立っていることを知って、自信を持った。一晩ごとにゴーシュが優しく素直になり、他者に思いやり深くなってゆく点に注意。ねずみに対してはそうとうやさしくなっているが、子ねずみをいきなりセロの穴から中へ入れてしまい、心配している母ねずみの様子も気にせず「ラプソディー」(「狂騒曲」などと訳す、賑やかな曲)をゴーゴー弾いたなどというところには、ゴーシュの無神経さがまだ残っているが。子ねずみがセロの中に入ってセロを直す目的で来たというようには読み取れない。そう読み取れると言うなら、文中にこう書いてあるから読み取れるという根拠を示すべきだ。

問八 「あんないじわるなみみずくまでなおしていただいたのに」とあるが、みみづくがなぜ意地悪なのか。

 みみづくはネズミの夜の天敵である。みみづくは夜行性の目を持ち、夜、風切り音もたてずに空中から闇の中を下降し、ねずみを捕食する。余談だが、ネズミの昼の天敵は鷹である。

問九 「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院でもそうですから。」という母ネズミの言葉から、このネズミの親子がどういう生活をしていることが想像されるか。

 この子供のねずみは体が弱く、いつも病気をしている。しかもいろいろな種類の病気をして、その度に母ネズミがいろいろな病院に連れて行っている。「どこの病院でもそうですから」というセリフでそれが分かる。また、後でゴーシュからパンをもらって、「もうまるでばかのようになって、ないたりわらったりおじぎをしたりして」のような態度をとることからも分かるように、誰にも親切にされず、貧乏な生活をしている哀れな親子である。たぶん「母子家庭」だろう。お父さんは猫にやられたのかも知れない。

問十 「おっかさんの野ねずみはきちがいのようになって」とあるが、なぜ「きちがいのようになっ」たのか、また、「いかにも心配そうにその音のぐあいを聞いていましたが、とうとうこらえきれなくなったふうで、「もうたくさんです。どうか出してやってください。」といいました。」とあるが、この辺のねずみのおっかさんの気持ちを説明せよ。

 ネズミのおっかさんは、ゴーシュが話を聞いて、「分かった。ではセロを弾いてやろう。そのねずみの子供を床下に入れなさい」と言うなどの筋書きを予想していたのだろうが、ゴーシュがねずみの子供をセロの中に入れてしまったので、そんな「強力な治療」を予想していなかったので慌てた。しかし、治療をお願いしている、つまり患者の弱い立場なので、お医者様には注文が付けられず、ただおろおろ心配することしか出来なかった。

問十一 「ゴーシュは何がなかあいそうになって、『おい、おまえたちはパンは食べるのか』と聞きました。すると野鼠はびっくりしたようにきょろきょろ…」とあるが、なぜびっくりしたのか。

 ゴーシュはパンをやろうと思って「パンは食べるか」と聞いただけなのに、ねずみは自分たちがパンを盗んでいるのがばれたと思った。「びっくりしたようにきょろきょろあたりを見まわし…」は、誰かが告げ口したかな、とか、どこかに証拠物件を落としたかな、のような気持ちの表れ。ねずみがパンを盗んでいたことは、その後のネズミの言葉で分かる。

十二  「いえ、もうおパンというものは、」以下のネズミのセリフから、ネズミがゴーシュのパンを盗んでいるのが分かる。どのような点から分かるか。三点答えよ。

 1.「ふくふくふくらんでいておいしいものなそうでございますが」と伝聞のような言い方をしているが、そんなに具体的にパンのおいしさを知っているということは、パンを盗んでいたからだろう。このあたりでパンのある所はゴーシュの小屋しかないのだから、ゴーシュのパンを盗んだのだろう。
 
 2.「おうちの戸だなへなど参ったこともございませんし、」と言っているのは、戸棚の中にパンがあることを知っている証拠で、盗んだことを自ら白状している。

 3.「ましてこれ位お世話になりながらどうしてそれを運びになんど参れましょう。」というのは、「お世話になったので、今後は盗みません。」という意味で、今までは盗んでいたのである。

問十三 ゴーシュが「いや、そのことではないんだ」と言っているのはどういう意味か。

 ゴーシュもネズミが自分のパンを盗んでいるのは知っているが、ネズミがパンを盗むというのはいわば自然のことなので問題にしていない。「そのことではなくて、パンを食べるのなら、やるぞ」という意味で言った。

十四 なぜ楽長はアンコールに一番下手なゴーシュを指名したのか、他の団員も、「君だ、君だ。」と言ったのか。

 指揮者やコンサートマスターは、一人一人の団員がその時点、時点でどんな演奏をしているか分かっていなければちゃんと仕事をしているとは言えない。楽長もヴァイオリンの一番の人(コンサートマスター)も、ゴーシュが日毎に腕を上げてゆくことをよく知っていた。ものすごく下手な人が一人でもいれば、オーケストラの演奏はその人のレベルに引きずられてしまう。ゴーシュが仮に「並み」のレベルまでしか上がらなかったにせよ、オーケストラの演奏は前とは比べ物にならないほどよいものになる。今日の演奏が成功した一番の功労者はゴーシュである。ゴーシュをアンコールに出したのは、その超人的な努力に対する褒美である。しかしゴーシュはそれに気づかず、相変わらず自分がいじめられていると思っている。演奏が終わって皆に誉められても、ゴーシュはよく理解できず、家に帰ってかっこうのことを思い出したとき、それが動物たちのおかげであることに何となく気づくのである。

問十五 なぜゴーシュは「印度の虎狩」を弾いたのか。

 ゴーシュは楽長にアンコールの演奏を命じられて、猫に「トロイメライ」を弾けといわれてむっとした時と同じ気分になったのだろう。ゴーシュは、この時、楽長だけでなく、他の団員達や観客からも馬鹿にされたと思った。だから、それへの仕返しとしてインドの虎狩りを弾いたのだ。猫が現れた場面で、「セロ弾きはしゃくにさわってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考えました」とあるが、これはゴーシュがアンコールに立った舞台で、「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。印度の虎狩をひいてやるから」と考えた気持ちと似ている。ゴーシュは猫の時と同じように、みんなを苦しめようと思って弾いたのだろう。

問十六 ゴーシュのアンコールの演奏が名演奏になったのはなぜか。

 「ゴーシュがその孔のあいたセロをもってじつに困ってしまって舞台へ出るとみんなはそら見ろというように一そうひどく手を叩きました。わあと叫んだものもあるようでした。ゴーシュはすっかり落ちついて舞台のまん中へ出ました。」

 ゴーシュが、自分を賞賛してアンコールを託した楽長や楽団員の意図だけでなく、自分を大歓迎して騒いでいる聴衆の意図まで誤解し、「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。印度の虎狩をひいてやるから。」と、敵意を持ち、「すっかり落ち着いて舞台へ出ました」とある点に注意。この心理は、猫を苦しめようとして同じ「インドの虎狩り」を弾いた時の心理と共通である。ゴーシュは、猫が苦しんだ姿を思い出しながら、猫を苦しめたのと同じ効果を楽長や楽団員、聴衆などに与えようと考えながら演奏した。また、避けられない役回りに対する居直りから、猫を相手にした時と同じように非常に冷静に聴衆の反応を意識しながら演奏した。それが、上達した技術と相俟って、感情のこもった、また、虎狩りの勇ましい雰囲気が出た演奏になったのだろう。演奏家の間でよく言われる「舞台で上がらないためには、客をカボチャと思えばよい」というのと共通したものがあるかも知れない。

問十七 最後にゴーシュがかっこうに謝ったのはなぜか。また、かっこうには謝ったのに猫には謝らなかったのはなぜか。略。

問十八 この話全体を通じて、対立する二つのものは何と何か。

 「粗暴で意地悪で無神経でセロの下手なゴーシュ」と、「思いやりが深く優しくセロの上手なゴーシュ」

問十九 前問に関連して、この話全体を通じて、作者が読者に突きつけている謎は、どういう謎か。

 「粗暴で意地悪で無神経で、セロの下手なゴーシュ」が、なぜ十日のうちに「思いやりが深く優しくセロの上手なゴーシュ」に変わったのか。

問二十 その謎を解くと、この話の主題が明らかになる。その主題を述べよ。

 「孤独で粗暴で意地悪で無神経で、セロの下手なゴーシュ」が、夜毎に訪れる動物たちと交流するうちに、知らず知らずのうちに動物たちから音楽の基礎や表現を学ぶとともに、他者への「思いやり・優しさ」に目覚めることが出来た。この話は、他者との交流、つまり友達の存在によって人間性と音楽に目覚めた男の、魂の救済の物語である。

問二十一 ところで、『第六交響曲』とは、どんな曲?

 これはベートーベンの第六交響曲『田園』と考えてまず間違いありません。賢治はレコードでクラシック音楽を聴くのが大好きで、特にこの『田園』に憧れていて、また、実際にチェロを習っていたが、あまり上達しなかったそうです。そのことはいろいろな本に出ているが、詳しい紹介は後ほど。

問二十二 ゴーシュはこんなにセロが下手だったのに、なぜ金星音楽団に採用してもらえたのか。

 答一 採用されなければ、この物語が出来なかったじゃないか。こういうのを愚問と言うのです。

 答二 非常にいい質問です。これは小説とは何かを考えるきっかけになります。文学とは、ありのままに事実を書くものだという考えがあるが、反対に、現実にあり得ないことを書いてもよいという考えがあります。小説には、ウソが書いてあってもよい。この文学上のウソのことを「虚構」、英語でfiction と言います。作者は、自分の言いたいこと、つまり問二十の「主題」を読者に訴えるために、読者の興味を引くような舞台設定を工夫します。その舞台設定がフィクションです。現実にはあり得ない設定の中で、現実にはあり得ない事件が起きる。この場合の事件とは、ゴーシュがたった十日間でセロの演奏が上手になったことです。読者は、そのあり得ないことがどうして起きたのだろうかと考え、謎解きを積み重ねて、作者の言いたいこと、つまり主題を探り当てることができるのです。