◎ 「兄弟殺し」解答 平成元年十二月山戸朋盟

◎ 真実の探求

問十五 傍線部Aで、作者はこの小説の内容についてどのようなことを暗示しようとしているのか。

 この事件を単に下界つまり人間界の出来事として考えるだけでなく、天上つまり宗教・神・形而上の問題としても考えるべきだと言っている。つまり、この地上の出来事に対して神はいかに関わったか、そもそも神は存在するのか。カフカには常にこの視点がある。

問十六 傍線部Bで、作者はどういうことが言いたいのか。

 人間は自然の有り様や変化の様子などに自分の運命を暗示するものを感じ、それを「予感」と名付けている。星の瞬き、流れ星、風の吹き方、日差しの感じ、虹、木々のたたずまい、そういうものから人間は幸福や不幸の「予感」を受け取ろうとする。が、よく考えれば、それはただの気休めではないか。それらは単なる物理現象であり、個人の運命と関係があるはずもない。人間は本当は自分の未来を知ることは出来ない。しかし、それを認めることはあまりに恐ろしいので、予感や前兆の存在を信じたいのではないか。宇宙に存在する一切のものは、「無意味な、究明することのできない位置に存在する」、つまり偶然そこにあるに過ぎない。ウェーゼが「立ち止まったのは、気まぐれ」であり、「夜空の紺色と金色が彼を誘った」、つまり美しい夜空に魅せられたからである。ウェーゼはこの時、死の一歩手前にいながら、むしろいい気分だったに違いない。その時、シュマールの剣が待ち受けていたとしても、夜空の何かがウェーゼに救いの信号を送ることは有り得ないのだ。

問十七 殺人の動機は何か。

 「幸福の夢がすべて実を結ぶなんてことはない」というシュマールの思想がウェーゼの身の上にも当てはまることを、疑いようのない形で実証したい。「幸福の夢がすべて実を結ぶ」というウェーゼの思想が間違いだということを、いやと言うほどウェーゼに思い知らせてやりたい。それがこの殺人の動機であり、目的である。

 このように、神の存在を否定し、その思想の正しさを証明するために殺人を犯すという、いわば「思想的殺人」というテーマは、西洋文学の中に脈々と流れている。代表的なものはドストエフスキーの『罪と罰』や、カミュの『異邦人』である。

問十八 題に「兄弟殺し」とあるが、ウェーゼとシュマールは兄弟なのか。もし兄弟なら、その理由を述べよ。また、兄弟でないなら、「兄弟殺し」とはどういう意味なのか説明せよ。

 「兄弟殺し(英語:fratricide,ドイツ語:brudermord)」という言葉は、日本人にはあまり身近ではないが、欧米人には身近な言葉である。旧約聖書創世記にあって、誰でも知っている話だからである。この話は旧約聖書の「カインとアベル」の話の現代的パロディーである。 カインとアベルはアダムとイブの子。アベルは勤勉で信仰深く、神に愛された。カインは信仰がうすく、神に顧みられなかった。カインは神を恨み、弟に嫉妬して、ある日弟を野原に呼び出して殺してしまった。神はカインを追放し、カインは荒野をさまよって街を立てた。人類は今でもカインと同じことを繰り返しているのである。

問十九 この小説の主題を解説せよ。

 現代人の心の問題が主題である。昔の人々は、人間は神や仏によって支えられていると考えていたが、現代ではその観念が薄れてきた。その結果として人間は、自己・世界・他者などについて宗教のフィルターを通さずにありのままの姿を直視せざるを得なくなった。人間は孤独な存在だ。自分の心の痛みを他人に代わってもらうことはできず、自分の死を他人に代わってもらうこともできない。隣人愛の存在をどこまで信じたらいいのだろうか。人間はまた、偶然に支配された存在でもある。なぜ、今ここにこうして存在しているのか。なぜこの様な運命を課せられたのか、すべて偶然と考える以外に説明のしようがない。しかし、人間はどんな孤独の中でも、またどんな過酷な運命の中でも、やはり生きなくてはならない。この様な困難な思想的状況の中で、いかに生きるべきかを探るのが、ユダヤ教とキリスト教の狭間で悩む求道者、フランツ=カフカの一生の課題だったのだろう。

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