◎ 「兄弟殺し」解答 平成元年十二月山戸朋盟

◎ パラスと群集

問十一 傍線部E「シュマールは目的を果たせなかった」とはどういうことか。またパラスはなぜ「満足した」のか。

 「シュマールは目的を果たせなかった」というのは、パラスの解釈である。シュマールが殺人という行為によって何らかの現実的な利益を得たと思ったなら、パラスは満足しなかったに違いない。例えば、もしシュマールがウェーゼを殺して金を盗り、逃げようとしたなら、パラスは大声で「シュマールは人殺しだ。捕まえろ!」と叫んだだろう。しかし今の場合、パラスの目から見ると、シュマールは殺人から何の利益も得ていない。凶器も放り出し、逃げる気もない。自分がすべてを見届けた以上、必ず捕まるだろう。だから、パラスは満足したのだ。パラスにとって、殺人そのものが問題なのではなく、殺人者が得をして逃げおおせてしまうことの方が問題なのだ。他人の行為を倫理的な観点から捉えるのではなく、「悪い奴が得することは我慢がならない」という嫉妬の観点からしか捉えていない。犯人が得をして逃げていると許すことが出来ないが、捕まったのをテレビで見ると、「ざまあ見ろ」と言って、満足して忘れてしまう心理と同じである。

問十二 いったいパラスとは何者なのか。その言動の一部始終を貫く行動原理を解説せよ。

 パラスは一言で言えば傍観者で偽善者。その行動原理は、かの芥川龍之介の言葉を借りれば「傍観者の利己主義」。もっと分かりやすく言えば、「やじ馬」である。「近くの三階の窓から」、「厚い寝室着を着込み、襟を高く立てて」という表現は、やじ馬の本質をよく表している。つまり、事件がよく見える。そして、現場から適度の距離があって自分は安全・安楽な立場にいる。「シュマール、シュマール、…」と名前を呼んでいるところから、パラスはシュマールの知り合いであることが分かる。シュマールの刹那的で衝動的な性格は知っていたはずだ。シュマールとウェーゼは友人同士だから、おそらくパラスはウェーゼとも知り合いだろう。「五軒離れた筋向い」という距離はパラスとウェーゼが隣人と他人の中間のような微妙な間柄だったことを想像させる。しかし、いったい隣人とは何だろうか。私たちは遠いアフリカの出来事に胸を痛めることもあるが、すぐ隣の人の不幸を見殺しにして平気なこともある。「人間の本性は、量りがたいものだ!」という言葉は、他人の生活には無関心に生きる現代のすべての「個人主義者」に対する作者の悲痛な告発だろう。

問十三 パラスはその後、この事件の唯一の目撃者として警察で証言したが、その証言の中で、彼は一つだけ嘘をついた。どういう嘘をついたか。簡単に答えよ。

 「あっという間の出来事でした。」または、「止める暇もなかったのです。」

 パラスが目撃したのは殺人の瞬間だけではない。彼は「すべてを黙ってみていた」のだ。シュマールが興奮した様子で短剣を振り回して待ち伏せしている時点から、「頭を振りながらただ見おろしていた」のだ。ウェーゼが向こうの路地から歩いて来て月光の中に立ち止まった時、なぜ「危ない、逃げろ!」と叫ばなかったのだろう。彼は一切を黙認し、事件の目撃者になりたかったのだ。殺人が終わり、自分の身の安全が保証されている事を見届けてから登場し、正義の味方づらをしてシュマールを弾劾したのだ。警察で証言するときは、「止める暇もなかったのです」と言うだろう。表面は正義を装っているが、内面は血に飢えた殺人鬼と変わらない。自分は手を下さず、他人にやらせた惨劇を見ることによって心の中の残酷な衝動を満たしているのだ。

問十四 傍線部Fは、どういうことを表現しているか。

 「恐怖のためにすっかり老けてしまった」ウェーゼ夫人は身も心も死んだ夫に同化している。当事者である二人は見物に集まった群衆とは無縁の、不幸のどん底にいる。しかし、群衆にはウェーゼ夫人の毛皮の外套しか見えない。それは群衆にとっては「墓地の芝生」、つまり一般的で表面的な他人の不幸でしかない。不幸の当事者とそれに同情する群衆は、全く別の世界に住んでいるのだ。

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