◎ 尺八製作師 朋盟の自画像

1.製管師未生以前

 私が尺八を作り始めたのは、誇張して言えば、私が尺八を吹き始めたのと同時でした。私は1964(昭和40)年に東大に入って、すぐ東大尺八部に入りました。そして、駒場の教養学部の同窓会館の和室という集会場のような所で、初めて買った尺八(一万五千円だった)を持って、先輩の指導で練習を始めました。一週間ほどで一通りの音の出し方をマスターすると、私は、ツのメリがもっと出しやすくならないかと考え、第一孔の下側の表、つまり、ツのメリを出すために隙間を空ける所を、ナイフで斜めに削りました。先輩がそれを見て、驚いたような、心配するような顔つきをして、勝手に尺八をいじらない(加工しない)方がよいというようなことを言ったことを憶えています。

 私は中学・高校時代にはバイオリンを習っていたのですが、バイオリンを加工したことはありませんでした。その理由を今から考えてみると、バイオリンは、演奏する人にとって、隅々まで完成した近寄りがたい姿かたちをしていたからでしょう。バイオリンは素晴らしい楽器で、その音楽も素晴らしいですが、私には、何かよそよそしいものが感じられました。自分の感性を作り変えなければ、名演奏に至らない感じがした、とでも言うか。それに対して、尺八は、自分の感性を素直に生かして努力すれば、それがそのまま名演奏につながる気がしました。しかも、私の目の前に、世界一の名人である山口五郎先生という人物が存在し、先生の尺八の音色をいつも直接聴くことができたのです。尺八を吹くことによって、私は、生まれて初めて、現在の自分の音楽に安住しながら、理想の音楽に向かって努力するという幸福な音楽生活を経験することができました。また、尺八は、楽器の構造も素朴で、自分が使いやすいように加工することを私に誘いかけるような、色っぽいというか、蠱惑的というか、何というか、「今日から、私はあなたのものです。どうにでもしてください」と私を誘うような…、まあ、普通の言葉で言えば、親しみやすい趣を私に感じさせました。私は子供の頃から、物を分解したり加工したりするのが好きでした。フルートを買って、独学で吹いてみたこともありますが、その時も、フルートを分解してしまいました。私は尺八の演奏を始めると同時に、尺八を作ることを運命付けられていたのだと思います。

 また、バイオリンを習った経験が、音楽をする者にとって、よい楽器を手に入れることがきわめて大切だという考えを私に植え付けたようです。私のバイオリンは、とても安く、キーキーとした音しか出ませんでした。ところが、私の友達の家に、非常によいバイオリンがありました。それは、友達のお姉さんが昔弾いていたが、今は弾いていないというのです。私は時々そのバイオリンを借してもらい、それで練習しました。すると、同じように弾いても、比べ物にならないようないい音がする、それだけではない、ものすごく弾きやすいのです。つまり、いいバイオリンで弾くと、それだけでいい演奏ができるのです。私が、よい楽器でなければよい演奏は出来ないという観念を身に着けたのは、この時の実際の経験があるからに違いありません。それにしても、もし尺八ではなくバイオリンを弾いていたら、ストラディバリウスとか、一億円もする名器にはとても手が出ず、今頃はくやしい思いをしていたに違いありません。尺八を選んだからこそ、自分の作った楽器を、自分で作り直しながら、自分の演奏を向上させてゆくという、いわば、苦労のしがいのある生き方ができたと言えるでしょう。

 そもそも、私が管楽器に興味を持ったのは、幼い頃、NHKラジオで、『新諸国物語』の『紅孔雀』という連続ドラマに聞き入ったのが遠い原因だと思います。その中に『浮寝丸』という盲目の剣士が登場し、不思議な神通力を持つ横笛を吹いていたのです。そして、浮寝丸は愛用の笛を悪者によって壊されてしまい、神通力が利かなくなるのですが、自分で新しい笛を作ることで、また神通力を取り戻すというようなエピソードがありました。私が大学で尺八を吹き始めた頃、すでに私の意識の中に、笛を吹くということは、バイオリンやピアノを演奏することと違って、自分で楽器を作ったり、壊したり、神通力を得たり、失ったりすることだという観念が、抜きがたく植え付けられていたのです。まったくの余談ですが、当時作られた東映映画の『紅孔雀』で、浮寝丸を演じたのは東千代之介、主役の那智の小四郎を演じたのは中村、後の萬屋錦之介でした。

 そんなわけで、私は尺八を始めて四年もすると、今までの練習管では満足できず、家庭教師のアルバイトで金を貯めて、山口四郎作の尺八を買いました。ちなみに、山口四郎先生は山口五郎先生の父君で、私が尺八を始めた時はすでに故人になられていたので、お会いしたことはありません。山口四郎先生は、演奏と製管の名人で、先生作の尺八は「四郎管」と呼ばれて、今でも名管として貴ばれています。もちろん、山口五郎先生の吹いていらっしゃった尺八も四郎管です。しかし、私はその名管をすぐに中をいじって壊してしまい、また、さらに高価な四郎管を買いましたが、それも壊してしまいました。なぜそんなことをしたのか。当時の私も四郎管の価値はよく分かっていたのですが、名管を直せば、もっと名管になるだろうと考えた、とでも説明するしかありません。これは、私が23歳から26歳くらいのことですが、考えてみると、自分の吹き料の尺八はいつも壊れた状態で、かといって、それ以外に名管を手に入れる手段などなく、にも拘らず、NHKの邦楽技能者育成会に通ったり、芸大邦楽科の友人達と合奏の練習やら学校巡回の演奏会やらをやっていたわけです。どこでどう辻褄をあわせていたのか、今でもよく分かりません。むしろ、辻褄の合わないことばかりやっていたのでしょうが、ともかく、若い頃は無我夢中でいろいろ無理なこともやっていたわけです。

 この頃、一つ思い出があります。私は尺八部の先輩の紹介で、山田流の今井派の大里華勢井先生(二代目)に合奏を教えていただいていたのですが、先生のお宅に伺って、今は故人になられた初代の華勢井先生(当時は、富基井先生)にご挨拶したついでに、「実は最近、自分の尺八が気に入らなくて、直そうとしたが、壊してしまい、困っています」と、自分の悩みを打ち明けたところ、「楽器が壊れたのは、芸の道が開けたのですよ」と言われました。私は学校でいろいろの哲学者や文学者の言葉や思想を勉強したつもりでしたが、デカルトとかカントとかの西洋思想とは一味違う、芸の道の実践的な考え方を教えられた気がして、慰められ、また励まされました。しかし、考えてみると、この老大家の「慰め」は、甘いものではなかったです。あれから四十年も経ちますが、私は今でも、あのご隠居の富基井先生から、「芸の道を開く努力は、永遠に続けるものですよ」と励まされているような気がします。

 私が『臨済禄』『碧巌禄』『無門関』などの禅関係の本に興味を持ったのも、こういう音楽上の問題に悩んだことが大きな理由でした。こういう本には、もちろん、修行と悟りの関係について、古人が考察したことが書かれているのですが、それはまた、音楽と楽器の関係、演奏と練習の関係などの比喩として読むことが出来るのです。日本の古典芸能や伝統的な武術などは、禅の思想を拠り所にしていることが多いですが、それは禅が非常に実践的な宗教だからだと思います。禅は、音楽上の悩みを解決する直接的な答えは与えてくれませんが、問題を解決するためには何をなすべきかについて、暗示的なヒントを与えてくれたことがよくありました。

 私に芸にとって有益なことを教えてくれた大先輩と言えば、もう一人、皆川稀盟先生という方がいます。皆川先生は、山口四郎先生の弟子で、私より四十歳くらい年上で、お会いしたときは七十歳近くだったです。その方が山口五郎先生の代稽古で、私に教えてくださったことがありました。確か、私が尺八を始めて3〜4年目くらいのときでした。

 「山戸君、君はよく吹くね。しかし、先生(山口五郎先生のこと)と一緒に吹いている時に、楽譜を追って指の練習をしているような稽古の受け方はだめだよ。先生はただ黙って弟子と一緒に吹いて、終わると、ただ『結構です』とおっしゃるだけと君は思っているかもしれないが、それは、それでよいという意味じゃない。それは実は『芸は盗め』という意味なんだ。稽古の前に自分で徹底的に練習して、ここは先生はどう吹いているのか、盗む準備を十分に調えてから稽古を受けなさい。そして、自分の音の向こうから聞こえてくる先生の音をよく聞いて、その音を盗みなさい。」

 こういう考え方は、伝統芸能の世界では常識で、よくご存知の人も多いでしょうが、当時大学生の私にとっては、新鮮な驚きでした。私は、尺八を始めるまでは、こういう世界とはまったく無縁でした。それまで私が受けてきた学校教育では、先生というものは、あれも憶えろ、これも理解しろと、こちらが頼みもしないのにやたらに知識を押し付け、その上、定期的に試験をして、あんなに教えたのに、君はまだこれが出来ていないぞ、君は 400人中 300番だぞなどと、余計なことまで指摘してくれる存在でした。私は、皆川先生から「芸は盗むものだ」という話を聞いて、なるほど、そうなのか!とすごくうれしくなったことをよく憶えています。私は、自分が一人前の自由で主体的な人間であるべきだということに気付かされたのです。それから、私の稽古に対する気構えは変わりました。製管に関しても同じです。

 その後、私は禅の語録や荘子・老子などを読んで、「芸は盗め」という考え方は、東洋の伝統的な教育思想であることを知りました。面白いことに、逆説など売り物にしない、正攻法の、あの孔子までもが同じことを言っています。ご存知の人も多いでしょうが、一応ここに書いておきましょう。子曰はく、

 憤せずんば、啓せず。
 「ヒ」せずんば、発せず。(「ヒ」はりっしん偏に「非」)
 一隅を挙げて三隅を以つて反(かへ)らざれば、則ち復(ま)たせざるなり。(『論語』)

 弟子が、表現したいことが心の中から沸きあがってくるようでなければ、ヒントを言ってやらない。
 弟子が、感じていることが言葉にならず、いらだつくらいでなければ、示唆し導いてやらない。
 こちらが一例を挙げて説明したら、弟子が三例を挙げて質問してくるようでなければ、もう一度説明などしてやらない。
 (ここから「啓発」という熟語が出来た。)

 私は今教師をしていますが、この言葉を教えるときは、皆川先生と山口先生の話をして、今後私は学校に来ないので、自主的に勉強しろ、分からないことがあったら、私のお屋敷に忍び込んできて、私の独り言を盗聴するように、などと冗談を言うことにしています。

 1968年4月から一年間、NHK邦楽技能者育成会第14期生として、渋谷のNHK放送センターに通いました。ところが、その頃から大学紛争が激化、ストライキが始まりました。大学の授業が長い休みのような形が公然化され、尺八の活動に集中できて、私には好都合でした。


○ 1969年 1月18日 東大安田講堂攻防戦。自宅のテレビで観戦。1月20日、東大入試中止が正式に決定。
○ 1969年 3月 私の属していた文学部は、学生が一年以上ストを続けたため、全員留年。ただし、全員留年が決まる半年前に、私の留年だけは決まっていた。

 この頃の私は、大学紛争にも、大学そのものにも、まったく無関心でした。東大入試中止が決まっても、このまま東大がなくなったら面白いだろうなどと考える程度でした。以後、紛争は次第に収束に向かったが、紛争が終わっても、私は卒業とか就職には興味がなく、強いて言えば、あの浮寝丸の神通力のようなものを夢見て、文学と音楽の世界をさまよっていたのです。尺八の演奏をしたり、作ったり、三島由紀夫やカフカの小説、日本の古典や禅や哲学の本を読み漁ったり、まさにあの時代は、自分の興味のあることだけを徹底的に追求できる、とてもよい時代でした。私を、あきれた奴だと言う人がいたら、逆にこう尋ねたいです。神通力を夢見ない芸術家なんて、この世にいるでしょうか。

2.苦闘

 1969年の夏、たまたま知り合った当時尺八学生の郡川直樹氏に連れられて、東京都文京区の白山通りの駒込富士前交差点の脇にあった、製管師初代海老沼竹揚師の工房を訪問、その場で、製管の弟子として入門しました。念願だった尺八作りの修行ができるようになり、私は気分的に落ち着きました。今までは、尺八をいじるということは、名人の作った高価な名管を壊すことであり、音楽的にも、経済的にも奈落の底へ落ちる危険を伴うような行為だったのですが、それからは、少なくとも名管を目指して、自分で尺八を作ることになったからです。破壊から創造へと立場が変わったと、一応は言えます。しかし、本当の苦労はここから始まったのです。海老沼先生は、私が入門して数年で亡くなってしまいました。私は海老沼先生からは、下作りは習いましたが、調律は習いませんでした。そもそも、調律というものは、製管師は人に教えないし、また、習って出来るものでもないのです。理想の尺八とは、理想の演奏が出来る尺八という意味だとすれば、理想の演奏は、人によって違うからで、だから、理想の尺八は人によって違うのです。私は、一人で、尺八を作る研究を続けました。尺八を作るという仕事は、とてつもなく難しく、また、面倒な仕事でした。
『石の上にも三年』などと言うが、製管にはそれは当てはまりません。たった三年では、尺八はウンともスンとも鳴りませんでした。私はそれから長く、自分は、所詮は不可能なことに労力と知力と時間を費やして、自分の人生を無駄にしているのではないかという懐疑に苦しめられました。

 後のことですが、私は四十歳頃から、必要あってコンピュータのプログラミングを急に勉強し始めました。文系人間の私にとって、ものすごく難しい勉強でしたが、私は、これは製管に比べれば千倍も易しいと思いました。なぜなら、プログラミングのことは全部本に書いてあるし、詳しい人に質問すれば、すぐ親切に教えてくれます。製管のように、秘伝だとか口伝だとか、または秘伝であること自体が秘密だとか、あるいは、本当に教えたいと思っても教えること自体が不可能で、結局本人が体験を通じて会得するしかない、などというようなことは、プログラミングの勉強にはほとんどないのです。『荘子』の中に、車大工の輪篇という男が、聖人の言葉を書物から学ぼうとする王様をあざ笑った話がありますが、製管の世界は、まさにそういう世界でした。

○ 1970年 3月 二回目の留年。理由は、2月21日(土)だった大学院入試の期日を、手帳の3月21日(土)の欄に書いてしまったため。2月と3月は、手帳のページがそっくりなのです。一年やり過ごして、翌年、卒業、大学院に進学。
○ 1970年 3月31日 赤軍派による日航機「よど号」ハイジャック事件。
○ 1970年11月25日 三島由紀夫、自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺。
○ 1972年 2月28日 連合赤軍が人質を取って立てこもる「浅間山荘」に警官隊が突入。
○ 1972年夏 東京ユースシンフォニーオーケストラと共に、スイス・フランス各地を演奏旅行、尺八でソリストを務める。
○ 1973年 3月 東大文学部大学院修士課程終了。4月、就職。

 この頃、社会的にも個人的にも、青春時代の私にとって衝撃的な事件が、立て続けに起きました。「よど号」や「浅間山荘」の連中は、たいがい私と同年代でした。高校時代の同級生で、赤軍派に入って活動していた人もいたし、そのシンパも沢山いました。当時、大学生といえば大部分は心情左翼で、浅間山荘事件の直後までは、そういう連中は元気でした。ある友人は、「テレビは、警官隊の側から赤軍派を映している。赤軍派の銃弾がこちらに向けて発射されるのが見えるのだから、彼らが殺人集団に見えるのは当たり前だよ。もし、逆に、山荘の中にテレビカメラを置いて警官隊を写せば、警官隊が殺人集団に見えるはずだ」などと暢気なことを言っていました。しかし、その後、集団リンチ殺人の死体が妙義山中の雪の中から続々と発掘されると、そんなことを言う人はいなくなりました。

 また、私は、三島由紀夫とは戦後体制を憎悪する情念を共有していたので、その自殺には大きなショックを受けました。三島は、「戦後」という時代の「鬼っ子」でした。その「鬼っ子」が、生みの親の「戦後」に無理心中(今の言葉で言えば、自爆テロ)を仕掛け、自分の命と引き換えに「戦後」を葬ってしまったのです。私は三島の死を、そのように位置づけました。また、学園紛争、つまり全共闘運動の高揚と惨めな衰退も、私に日本社会の「戦後の終わり」を告げました。

 「これで戦後は終わった。しかし、戦後という愚劣な時代を言葉では否定しながら、現実にはそれに甘えてぬくぬくと遊んできた生き方はもう許されない。戦後の終わりと共に、私の青春も終わった。いつまでも大学に留まってはいられない。今までの生活に見切りをつけて、次の時代に生き延びなければ」という気持ちになったのです。国文科の追い出しコンパで、「今までは学問という水を飲んできたが、これからは実生活という酒を飲みたいのだ。」と迷セリフの捨てゼリフ、つまり、迷捨てゼリフを残して、私は八年間在籍した大学を離れ、高校教師になりました。(2004.02.11)

3.さらなる苦闘と研究

 私は 1973年4月から現在まで、30年間高校教師の職務を誠実に果たして来たつもりですが、その一方で、尺八演奏家としての活動を続けて来ました。リサイタルを三回開き、その他、多くの演奏会に出演しました。それと同時に、自分で名管を作らない限り名演奏家にはなれないという私の根本思想に従って、製管の研究を続けました。これには、努力しなければという義務感はまったくありませんでした。なぜなら、演奏活動をすれば、必ず尺八を直したいという衝動に駆られ、それを実行せざるを得ないからです。演奏をすれば尺八に不満を感じる。不満を感じれば、尺八を直す。直して演奏すれば、また別の不満が生まれる。この繰り返しですから、永遠に抜け出せない螺旋の中で回転し続けるようなものです。

 自分が演奏に使う尺八を「吹き料」と言います。自分が作った尺八の中で、一番気に入ったものを吹き料にする。もっと良いものが出来ると、吹き料をそれに替える。前の吹き料は、万一の場合の予備に取っておく。なぜなら、吹き料の尺八さえ、常に改作し続けているのだから、いつ壊れないとも限らないからです。しかし、予備の尺八が何本かになると、人に頼まれれば、譲ってしまうこともありました。こうして、製管は私の仕事の一部にもなりました。尺八部の先輩や後輩の中には、私の尺八(朋盟管と呼んでいます)を使っている人が何人もいます。私から借りて吹いたり、中には、15年以上も借りっぱなしで、まったく連絡してこない人もいます。また、私の身近な人の中には、他の製管師の尺八や、壊れた尺八などを持ってきて私に改作を頼む人もいました。私は改作しながら、他の製管師の尺八の内部の空洞を計測し、見えない部分の構造を学びました。「芸は盗め。」という教えは、こういう所でも役に立ったのです。

 そういう製管の研究に当たって、何が頼りになったか。まず第一は自分の演奏のセンスです。自作管で「八重衣」なり「巣鶴鈴慕」なりを演奏していて、このフレーズはこういう音でこう表現したいのだが、どうしてもそれが出来ない、もしかすると、自分の演奏技術のせいではなく、楽器に問題があるのではないかと考えることがしばしばあります。楽器を直せば、自分の気に入った音が出るようになるのではないか。そう思った瞬間、私は自分の吹き料を直し始めていました。そして、何か新しいことが分かったと思うと、吹き料以外の尺八も全部そのように直しました。そうすると、また別の問題が起こってくる、と言うか、見えてくる。その繰り返しです。

 思い通りの音が出ないのは、自分の演奏技術の不足のせいか、それとも、楽器が悪いせいか。自分の腕の悪さを棚に上げて、楽器のせいにしているということはないのか。竹をいじることなどに血道を上げないで、昔の名人の作った竹を信じ、練習に専念するほうが名演奏への近道なのではないか。様々な疑問があり、様々な言説がある。本当の答はどうなのか。この問題には、理論では答を出せません。ただ経験の積み重ねだけが答を出せます。尺八に、考えられる限りの改善を加えてみる。初めは、99パーセントは失敗でした。しかし、1パーセントでも成功例があれば、それが一つの有益な経験になり、製管の知識になるわけです。今では、楽器の形態と性能の関係について、また、楽器と演奏技術の関係について、大体のことは分かる、と言ってもよいと思います。(2004.03.28)

 よい尺八が出来たと思った時、また、どうしても欠点が直せない時、自作の尺八を山口五郎先生に吹いていただいたことも、何度もありました。そういう時、先生は普段の温和な態度とは少し違う、真剣な、宙を見つめるような目つきになって、私の尺八を何度も、いろいろの吹き方をして調べて下さいました。この音が出にくいのは、どこかが狭いからではないか。この竹は、息を少し右側に吹き込むと良い音がするなどと指摘して下さいました。しかし私はそんなことより、自分の作った尺八を先生が吹くと、どういう音が出るのか、その音は先生の吹き料の、山口五郎のほとんど全ての名演奏を生んだ、あの曲った茶色い竹の音とどう違うのかということばかりが気になりました。当時は無意識でしたが、今、それを思い返して、なぜかと考えてみると、その理由が分かる気がします。先生が私の竹を吹く時、先生と私は、向かい合って尺八を吹くのとは別の形で向かい合っていたのです。私は、自作の竹を先生に吹かせて、先生の楽器の秘密と、演奏の秘密を必死で盗もうとしていたのでしょう。目の前に先生がいらっしゃるということは、私にとって、絶対的な規準が存在するということでした。自分の演奏のセンスだけでなく、先生の楽器と先生の演奏という、もう一つの頼りになる手がかりがあり、先生に私の自作管を
吹いていただいてその音を確かめることが出来たということは、私にとって大いなる恩恵でした。

 製管に科学的方法を持ち込むことに協力してくれる多くの友人がいたことも、私にとって、恩恵の一つでした。私の大学時代の友人で、精密機械工学を専門にしている大学の先生は、周波数測定器で私の尺八の音と、山口先生の尺八の音の違いを科学的に分析してくれました。また、尺八の空洞の中心線の曲がり具合を計算するコンピュータのプログラムを組んでくれました。高校の教え子で、獣医をやっている人は、クリニックのレントゲンの機械を使わせてくれて、私は管内の空洞の曲がり具合、直径の変化の様子などを全部撮影し、視覚的に認識できるようになりました。また、高校の同僚の理科の先生達から、様々の特殊な工作器具をこちらの注文どおりに作ってくれる優秀な工房の存在を教えてもらいました。後に、私はパソコンを覚え、自分で管内工作の規準となるガイド板を作りましたが、その図面を書くソフトの使い方を教えてくれたのは、私の学園の大学工学部の先生でした。(続く)