今月の言葉 記録と寸評


2007年
11月
 アー、ユウ・アー・Aランチ、ソー、アイ・アム・カレーライス。(同僚の英語の先生が、いつも食堂で私に話しかけた言葉)

 学校に勤めていると、先生同士の会話というものは大変楽しいものです。特に他教科の先生と話すと、お互いに知的に刺激し合う点があります。ある時、この英語の先生と日本語の文法の話になり、「象は鼻が長い。」「春は曙。」などの中の主語や副助詞「は」などは英語に訳すとどうなるとか、Spring is dawn. と言うのか、などと大いに話が弾みました。それから、この先生は食堂に来ると、周囲にも聞こえるように大声でこう言うようになりました。「アー、君はAランチか、それじゃ、僕はカレーライスだ。」
2007年
10月

 人間の遺伝というのは、研究が難しいんです。動物と違って、自由に交配できませんから。(都立西高の生物の先生、篠崎先生の言葉)


 高校一年の時だったが、篠崎先生という方に生物を習いました。初めの授業のとき、先生が黒板に座席表を書いて、その通りに座るよう指示なさったのですが、男子・女子を表すために、♂と♀の記号をお使いになったので、さすが生物の先生だなあと感心したことを憶えています。
2007年
9月

 ブドウの種を飲み込んでも、頭からブドウの木が生えて来るなんてことはないよ。だって、お腹(なか)の中には土なんかないからだよ。


 「ブドウの種を飲み込むと、頭からブドウの木が生えてくるよ」というのは、昔、大人が子供に注意する言葉でした。私も初めはそれを何となく信じていましたが、小学生の頃だったか、それ以前だったか、ある時、友達にこう言われて、なるほどと思いました。やはり、「ブドウの種は消化が悪いから、飲み込んではいけない」と注意するべきなのでしょう。
2007年
8月

 李斯(りし)は、郡の下っぱ役人だった。役所の厠(かわや)で見かける鼠は汚物を食らい、人や犬が近づくたびに、びくびくしていた。それに対し倉庫の鼠は、大きな屋根の下で、人や犬におびやかされることなく、おいしい穀物を食べている。それを見て李斯は歎息した。「人間の賢と愚は鼠と同じだ。居場所によって決まるのだ」(人の賢不肖は譬えば鼠のごとく、自ら処るところにあるのみ。)
 秦の始皇帝の片腕となって中国を統一国家に導いた李斯(前271頃〜前208)の言葉です。数十年前、漢文の問題集を読んでいてこの言葉を見つけました。人が大志を立て、一念発起して新しい世界に身を投じる時の、非情なまでに透徹した現実認識に驚かされました。
2007年
7月

 羊頭狗肉 ようとうくにく。〔無門関〕(羊の頭を看板に出しながら、実際には狗(いぬ)の肉を売ることから)見かけが立派で実質がこれに伴わないこと。羊頭を懸(かか)げて狗肉を売る。(広辞苑)(今話題の偽牛肉事件をテレビで見ながら、ふと思い出して広辞苑で確認した言葉)



「ミートホープ」の社長は、「食べると頭がよくなる牛肉」と称して、馬の肉と鹿の肉を混ぜて売っていたという話もあります。彼の一族の間には、肉親間の「骨肉の争い」が演じられており、互いに相手を偽者呼ばわりし、「どこの馬や豚の骨か肉か分からない」とか罵っているそうです。
2007年
6月

 こんな小さな2つの舟が人間を乗せて水の上に浮かぶはずがない。そんなことがもし起きたら、アルキメデスの原理に反している。(1960年頃、甲賀だか伊賀だかの忍者屋敷で、「水の上を歩くための下駄」を見て、一人のアメリカ人の観光客が言った言葉。)


 忍者がフロートの付いた下駄のようなものを履いて水の上を歩くのは、小学生の頃、漫画で見ていました。この話を、確か、友達から聞いた時、私は中学生か高校生でしたが、自分の中の知識の体系が変わるような驚きを感じました。「見世物小屋の口上だから、話半分に聞いていればよい」というのと、「アルキメデスの原理に反している」というのでは、思考の原理がまったく違う。科学的知識というものは威大な力があるのだ、とその時感じました。
2007年
5月

 次の患者さん、どうぞ。何、病気ではなく、長生きするための相談だって? あなたは長生きしたいのですね? では、あなたは酒は飲みますか? 飲まない! 煙草は? 吸わない! ご婦人に興味はおありですか? ない! では、あなたは長生きする必要がありません。(どこかで読んだか、聞いた話)


 私に関して言えば、煙草は33歳のときに止めました。それ以外はコメントしませんが、最近、尺八のために、出来るだけ長く生きていたいと思っています。
2007年
4月

 機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反復運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械はなすところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。(小林秀雄『考えるヒント・常識』昭和34年6月)


 戦後という時代は、ある意味で、新しいものに浮かれ続けた時代でした。民主主義も、共産主義も、平和主義も、科学万能主義もそうです。そういう時代風潮の中で、小林秀雄、河上徹太郎、三島由紀夫、福田恒存などの人々が、頑固に分からず屋を演じ続けてくれ、日本人の中に流れている伝統的な感性と価値観の存在を教えてくれました。保守主義が日本人の背骨を支えてくれたのです。
2007年
3月

 身障者はいつもにこにこして、大人しく、周りのひとの好意に感謝して生きなければいけないなんて、差別ではないか。身障者だって、健常者と同じように、悪いこともしたいし、喧嘩もしたいし、時には犯罪を犯したいと思うこともある。(20年くらい前、テレビで、ある身障者が話していた言葉)


 私は、自分に特に関係ないことでも、テレビなどでふと耳にした言葉に、なるほどと肯くことがあります。これもそういう言葉の一つです。それからしばらくして、私はヨーロッパのどこかの国で、車椅子に乗っている黒人と普通の白人が、駅前で、口論しながら小突き合って喧嘩をしている光景を見て、この国は平等な国なんだなあと、妙に感心しました。
2007年
2月

 お母さんがお父さんに何か言っているとき、お父さんが、「それが、ぼくのシュギだから」と言うと、お母さんは黙ってしまいます。言っても、お父さんはもう、お母さんの言うことを聞かないからです。(ノンちゃん雲に乗る(おとうさん))


 この本を読んだのは、小学校低学年の頃(1952〜3年)の気がします。全体の虚構的構成はよく分からなかったが、個々のエピソードは何となく分かって、まあ、面白い話が多かった。そして、この部分で、私は、この世の中に『主義』というものがあって、それが何かとても大切で力あるものだということを感じました。また、かすかに疑問も感じました。どんな変なことでも、「主義だ」と言われたら、黙って引き下がらなくてはならないのか…?とか。お父さんがお母さんに、自分のことを「ぼく」と言っているのも、新鮮というか、妙と言うか、ともかく印象に残りました。
2007年
1月

 岡本太郎の個展を見に行ったら、岡本太郎の作った椅子というのが置いてあった。普通の椅子と違って、座るところが、デコボコになっている。横に解説が書いてある。この椅子は、座るための椅子ではない、立ち上がるための椅子だと言うんですよ。(西高時代、社会科の尾形先生から聞いた話)



 年をとってみると、学校の先生の言葉というのは、色々と心に残る話が多いという事に気付きます。これも面白い話。岡本太郎という人も、私の前半生といつも共にあった、どこか面白い、親近感のある人でした。
2006年
12月

 我々は、我々の作る自動車に、日々、工夫と改良を加え、常に最新のものに作り変えている。我々の自動車の設計図を盗んだ者が、その自動車を作った頃には、それは既に旧式のものになっているだろう。(トヨタ自動車の社長、豊田喜一郎が、自動車の設計図を盗まれた時、社員に言った言葉)


 一月ほど前、テレビの特集番組で、ふと耳にした言葉です。製管師でもある私は、製管の知識をどこまで社会に公表すべきか考えています。封建社会では、職人の技術は秘伝、口伝として師から弟子に伝授された。しかし、現代では、科学的知識として一般に公表すべきでしょう。
2006年
11月

 山戸さんは、食堂のおばさんやお掃除のおばさんには、態度がつっけんどんだね。ああいう人たちだって、家に帰れば立派な主婦で、立派なお母さんなんだよ。(高校の教師をしていた頃、同僚の先生から言われた言葉)


 食堂のおばさんだけではなく、私は、特に親しくない人には、誰に対してもつっけんどんだったかも知れない。今でもそうかも知れない。しかし、私のことをよく見ていて、自然に、当たり前に、しかもこういう言い方で注意してくれたこの友人を、私は貴重で大切な存在だと思いました。
2006年
10月

 そのバイオリニストが、一番低い開放弦のGの音を長く延ばして弾いているとき、Dの弦の第四ポジションに人差し指、Aの弦の第八ポジションに小指を置いて、ビブラートをかけているのには驚いた。(藤井凡大先生の言葉)


 藤井凡大先生は、私がNHKの邦楽技能者育成会に通っていた時の恩師の一人。現代邦楽の作曲家で、「日本(音楽)合奏団」の指揮者でした。有名なメンデルスゾーンの『バイオリンコンチェルト』の第一楽章に、ソロのバイオリンが、一番低いGの音を長く延ばして弾くところがあります。しかし、一番低い弦の開放弦なので、ビブラートが掛けられないのです。そこで、オクターブ上と二オクターブ上の音をハーモニックスさせ、それにビブラートを掛けていたのです。プロは、どんな工夫でもするものだ、という教えでした。その後、この話は案外有名な話だということを知りましたが。
2006年
9月

 夏と秋と行き交ふ空のかよひ路は片方(かたへ)涼しき風や吹くらむ(古今和歌集 夏の歌 水無月の晦日(つごもり)の日、詠める 凡河内躬恒)


 ある夜、目を覚ますと、今までの蒸し暑かった夜はどこかへ行って、涼しい風が吹いている。それは空をいっぱいに満たして溢れ、惜しみなく吹いてくる。天の高みで、夏が秋と入れ替わろうとしているのだ。そう実感する夜が必ずあります。そんな時、いつもこの歌を思い出すのです。
2006年
8月

 ワシが完璧に構成して作り上げたこのピアノ協奏曲第五番に、他人が勝手にカデンツアなどをチャラチャラ入れるのは、許さん。(ベートーベン)


 私が昔見た、全音発行のベートーベンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』のスコアの、確か、第一楽章の再現部の直前に、「ソリストはここにカデンツアを入れず、楽譜どおりに先に進め」とかいう指示が書いてありました。しかし、最近、確認の為に買ったスコアには、何故か書いてありません。上の言葉は、その指示に込められたベートーベンの気持ちを、私が勝手に分かりやすい表現に直したものです。
2006年
7月

 宇宙から見ると、地球がとてもいとおしく見え、かけがえのないものと感じる宇宙飛行士が多いそうです。また彼らの目から見ると地上で争いなどしていることがばからしく思えてくるらしいのです。(「宇宙からの帰還」立花隆編著)


 立花隆と言う人は、深いことを言っているようで、その実、よく考えると、無意味なことを大げさに騒いでいることが多い、まあ、ニセ文化人でしょう。この言葉もその一つ。宇宙から見れば国境など見えないから気にするな、なんてことに人が皆同意するなら、戦争などとっくになくなっているでしょう。100万円の借金を踏み倒されても、宇宙からは見えないから気にするな、で通るでしょうか。
2006年
6月

 「あなた、不幸せ?」「うん、完全にね!」(悪魔の夫婦の会話。アメリカの週刊誌に載せられていたのが、日本の週刊誌に紹介されたもの)



 私の記憶に残る、最高のギャグの一つ。1970年代頃、日本の週刊誌で読みました。教師の老婆心で、一応説明しておきます。アメリカ映画などで、夫婦の会話の一つの典型として、「あなた、(私と一緒に生活していて)幸せ?」と妻が甘えるように尋問、いや、質問すると、夫が変ににこにこして、「うん、完全にね!(完全に幸せだよ)」と答える場面があります。ところがこの場合は、人間ではなく悪魔の夫婦なので、反対でなくてはならないのです。この時の悪魔の妻と夫の表情や目つきを想像すると、おかしいですね。
2006年
5月

 僕のこの家の隣の家は、尺八の先生が住んでるんだよ。庭の向こうから、しょっちゅう尺八の音が聞こえて来て、ものすごく風流なんだよ。(私が中学2年生の時、世田谷代田のお屋敷に住んでいた、友達の日置君の言葉)


 日置君のお屋敷も広く、隣のお屋敷も広かったようです。この話を聞いて、私は隣り合った二つのお屋敷の広い庭を、尺八の音が飄々と響く様子を想像し、尺八というものが「風流」なもので、すごく良いものなのだと好感を持ちました。これが、後に尺八を始める遠因になったかも知れません。このお屋敷は、今考えると、都山流の磯野茶山先生のお宅だったのです。
2006年
4月

 先日、中曽根さんの奥さんに、「主人はもう年寄なので、テレビに出て政治の話などする仕事は止める様に言ってくれませんか」と頼まれたが、私は「中曽根さんは、今の日本に必要な人なので、奥さん、それだけはお引き受けできません」と断りました。(竹村健一氏の話。2004年頃)


 中曽根康弘元総理は、戦後の歴代総理の中でも傑出した存在だと私は思います。アメリカのレーガン大統領と組んで、「日本列島を、共産主義に対抗する不沈空母にする」と発言した時、マスコミは、彼を軍国主義者であるかのように叩きました。しかし、この日米プラス西欧諸国の足並みの揃った軍拡強硬ポーズが、1989年にはソ連・東欧共産圏を崩壊させ、『冷たい戦争』を西側の勝利で終結させました。何はともあれ、世界全面核戦争による『核の冬』に脅かされる状態から人類を救い出したのです。
2006年
3月

 人に恩を施すときは、小川に花を流すように施すべきで、施されたほうも、淡々と忘れるべきである。これこそ君子の交わりというものだ。(三島由紀夫『不道徳教育講座』)


 三島由紀夫のあらゆる著作が人類から忘れ去られても、この『不道徳教育講座』の一節一節は、警句として残るでしょう。『不道徳教育講座』を読むと、その後の三島由紀夫の思想的言動のすべてが予告されているかのようです。「作家は、処女作に向かって成熟する」という亀井勝一郎の警抜な言葉がありますが、「不道徳教育講座」を三島の処女作と考えても、そう間違いではないでしょう。
2006年
2月

 自分が死ぬ時、依頼者の秘密をあの世まで持ってゆくのが弁護士の最後の仕事で、それが出来なければ弁護士ではないのだ。(私の先輩の弁護士の言葉)



 この言葉を聞いた時は非常に感動したが、よく考えると、若い私は先輩から職業人の倫理を教わったに過ぎなかったのでしょう。当時、世界は『冷たい戦争』の真っ最中で、「米ソどちらかの親玉が、自分が癌であることを知り、自棄(やけ)になって核のボタンを押したら、人類は滅びるではないか。」というような言説がまことしやかに流布していました。先輩のこの言葉を聞いて、私はそういう事は起こらないと確信しました。
2006年
1月

 交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が有能ならば何一つ与えず返せ。交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が無能ならば大いに与え、歓待せよ。そうすれば、隣国では無能な者が重用され、有能な者が失脚する。そしてやがては滅ぶ。(六韜)



 『六韜』は、今から2300年ほど昔、中国の戦略家太公望呂尚が書いたとされる兵法書で、いくつかの巻に分かれ、その一つが『虎の巻』です。『あんちょこ』の意味の虎の巻はここから来ました。ともかく中国は油断がならない。また、大陸の国は油断がならない。アメリカ・イギリス・日本・オーストラリアなどは島国なので、どこか単純で馬鹿正直な所があるような気がします。
 小野妹子が隋の煬帝に歓迎されたのも、実は無能だったからなのだろうか???!
2005年
12月

 必要ないものは買わない、では金は残らない。必要なものは買わない、でなくては金は残らない。(誰かが言った言葉 )


 金を残すため、というより、無駄遣いをしないために有効な言葉です。何か新しいものを買わなければならないという時、よく考えてみると、買わなくて済むということが、非常にしばしばあるということに最近気が付きました。
2005年
11月

 変化の遅い社会では老人の智恵が重んぜられ、変化の早い社会では、若者の知識が幅を利かす。(誰かが言った言葉)


 そう言われてみれば当たり前のことですが、初めて聞いたときは、なるほどと感心しました。江戸時代に横丁のご隠居さんが一目置かれ、現代では老人が携帯電話を買うかどうか悩んでいるのも、うなづけます。小林圭樹の携帯電話のコマーシャルは、新しい機械に尻込みする老人の気持ちをうまく描いていて、私などは共感しますが、若い人には理解できないでしょうね。
2005年
10月

 男は少年になるために旅に出る。少年は男になるために旅に出る。



 試験監督をしながらふと見た、教室の後ろの掲示板に貼ってあった小さな紙に書いてあった言葉です。私のクラスの生徒が貼ったのでしょう。高校生もなかなかのことをするなあと、密かに感心しました。おじさんも少年になるために旅に出る。「おじさんは男になるために旅に出る」これは少し変ですね。
2005年
09月

 諫早湾の埋め立てで殺されるムツゴロウが可愛そうだと言うなら、東京湾や瀬戸内海で、いつも殺されている鯛や平目はどうなのか。(自民党の政治家・梶山静六)


 センチメンタリズムを政治や社会の問題に持ち込むなという主張でしょう。諫早湾埋め立ての是非は、それ自体で検討すべきであり、ムツゴロウなど持ち出す必要はない。この問題が話題になっていたころ、朝日新聞の一面だったか、諫早湾の泥の上にジャンプするムツゴロウの写真が載り、「ムツゴロウ、命のジャンプ」という見出しが出ていました。あのジャンプは、やらせじゃないかなあ。
2005年
08月

 月は真ん丸、真菰(まこも)を照らす。大利根川の川面(かわづら)に、なぜか今宵は波騒ぐ。あれは千鳥か、櫓櫂(ろかい)の音か。喧嘩修羅場に出かける舟の、櫓臍(ろべそ)折れよと双腕(もろうで)掛けりゃ、上がるしぶきに心は躍る。…(浪曲『天保水滸伝』正岡容作)


 玉川勝太郎が口演した『天保水滸伝』という浪曲は、利根川の下流の水郷を舞台に、飯岡助五郎、笹川繁蔵のやくざ同士の喧嘩を描いたもので、日本の庶民文芸としてはスケールが大きく、劇的な一つの歴史の流れの中に、人生の裏街道を行く者たちの悲哀を描き込んでいて、たいへん聴き応えがあります。勝太郎の節回しもすばらしいが、台本を書いた正岡容(いるる)という人もたいへん面白い人です。若くして芥川竜之介に激賞された天才だったが、酒癖が悪いなど欠点が多く、世に容れられなかったそうです。金子光晴の書いた本の中にも登場していました。
2005年
07月

 オレは飛行機には、ぜってー乗らねーよ。何故って、あんな鉄の塊が空を飛ぶはずがねー。野郎、どっかで無理してる。


 林家彦六師匠だったか、ある落語家が言ったと別の落語家が落語の中で話した言葉です。昔の人の言ったことは味がありますね。飛行機を「鉄の塊」というのも実感がこもっているが、「野郎」と擬人化しているのも面白い。「無理してる」、まさにその通り、飛行機だけでなく、皆、いろいろ無理をしているのです。別の話。飛行機に乗るときはいつも酔っ払っている人がいた。理由を聞いたら、「酔っていれば、落ちたとき痛くないから」と言ったとか。本当に痛くないかな?
2005年
06月

ハムレット:誰のために墓を掘っているのだ? 墓堀:男じゃない。 ハムレット:女か。 墓堀:女でもない。 ハムレット:誰を埋める墓なんだ? 墓堀:その人は、生きている時は女だったが、ナムアミダブ、今は死人だ。(シェークスピア『ハムレット』5幕1場)


 シェークスピアともなると、ブラックユーモアも超一流です。参考のため、英語の原文を示します。man という単語が、「人」と「男」の両方の意味に使われ、更に死人はすでに女でも男でもないという、警抜な生死の認識の世界に引きずり込まれます。

Hamlet: What man dost thou (do you) dig it for?
Clown: For no man, sir.
Hamlet: What woman, then?
Clown: For none neither.
Hamlet: Who is to be buried in't?
Clown: One that was a woman, sir; but, rest her soul, she's dead.
2005年
05月

 見知らぬものとしてこの村にやってきた私は やはり見知らぬものとしてこの村を去ってゆく 五月はあふれ咲く花々の季節 娘達は恋を語り 親達は婚礼のうわさ…(ウィルヘルム・ミュラー作詞、シューベルト作曲)


 歌曲集『冬の旅』の第一曲目、『Gute Nacht(おやすみ)』の冒頭の歌詞です。ドイツ語は普通に話されると、石や岩のようにゴツゴツしていますが、シューベルトの作ったメロディーに乗せて歌われると、ダイヤモンドのように輝き出します。1963年だったか、ハンス・ホッターが来日して、上野の文化会館のリサイタルで歌ったこの曲を聴いたことが、忘れられません。
2005年
04月

 会社から帰ってきたお父さんに、お母さんが、まな板に穴が開いた話をすると、お父さんは「ふうん」と深く考える顔をして、墨と硯を用意し、その穴の開いたまな板に、「刻苦二十年」と書いて、欄干に飾りました。お母さんは泣いていました。…(少年劇画雑誌の中の投書の記事・1965年頃)


 大学生だった私が本屋で立ち読みしていた少年雑誌の中にあった投書のような記事です。ある日、お勝手で料理をしていたお母さんが、「あっ」と言った。台所に行ってみると、お母さんは、穴の開いたまな板を見せてくれた。板の切れ端をまな板にして、二十年使っているうちに、両側から擦り減ってきて、とうとう真ん中に穴が開いてしまったのだ。夕方、帰ってきたお父さんがその話を聞いて、そのまな板に「刻苦二十年」と書いて欄干に飾ったという話です。「刻苦」には、もちろん、「コック」が掛けられています。雑誌には、その飾られたまな板の写真も出ていました。みかん箱のふたのような粗末なまな板を、戦後二十年間使い続けてきたその一家の歴史が想像されました。
2005年
03月

 四千年前のメソポタミアの遺跡、考古学者が楔形(くさびがた)文字の文書を発掘した。どんな神秘的なことが書いてあるか、解読したところ、「近頃の若者はなっとらん。昔はよかった。」と書いてあった。(どこかで読んだ話)


 「長らへば又このごろや偲ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」「順繰りに昔のことを恋しがり」こういう言説は、人情の自然と、笑って共感出来る。しかし、昔は良かったという言説の中に、要注意のものがあります。もしあなたの知り合いの中に、社長(校長でも理事長でも総理大臣でも、ともかく上に立つ人)が交代するたびに、「前の社長は最高だったが、今度の社長は最悪だよ」といつも言っている人がいたら、…。
2005年
02月

 警官が我々を殴れば公務執行だが、我々が警官を殴れば公務執行妨害ということになるだけの話ですよ。(学生活動家のオルグの言葉・1965年4月)


 大学に入って初めて授業に出た教室で、休み時間に革マルだか中核だかの活動家が来て、新入生の私達に組織への加入を訴えた演説の中の言葉。こういう言葉に共感して、日韓基本条約締結(1965年)反対のデモに参加した学生も、私の周りにずいぶんいました。今でも同じようなことを言う人がいますね。「アメリカは、ならず者国家が核を持つのはけしからんと言うが、世界で一番多く核を持っているのは、アメリカ自身じゃないか。」
2005年
01月

 マッチ擦る束の間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや(1975年頃・寺山修司)



 第二次大戦が終わったのが1945年、東西ベルリンの分断が1961年、ベルリンの壁崩壊が1989年。私の高校・大学時代(1962年〜1973年)は、まさに冷たい戦争の真っ最中でした。「日本の国は、命を捨てて守るほどの価値があるのか」という問いは、当時、多くの若者・インテリに左翼から突きつけられた、いわば共通問題のようなものでした。しかし、冷たい戦争はアメリカがソ連に勝ち、世界は、テロリズム対国家イズムという、まったく新しい状況に突入しました。寺山修司の深刻ぶったポーズも、やがて、歴史の彼方に忘れ去られるでしょう。
2004年
12月

 ある日、詩人の西条八十が歌手の村田英雄に声を掛けた。「君の歌の作詞を頼まれていたけれど、出来たよ。」村田が西条から渡されたメモを見ると、「吹けば飛ぶような 将棋の駒に 賭けた命を 笑わば笑え」と書いてある。「先生、出来たよとおっしゃるけれど、これはたったの一行じゃないですか。」西条「なあに、初めの一行さえよくできれば後はすぐ出来るんだ。もう、全部出来たようなもんだよ。」


 歌謡曲は五万とあるが、この歌詞はあらゆる歌謡曲の歌詞の中でも最高の部類に入るでしょう。将棋の歩の駒を目に浮かべて、勝負師の心と生活を想像する時、この歌詞は、すごみと実感を持って胸を揺さぶります。「吹けば飛ぶような 将棋の駒」この言葉は西条八十が作ったのでしょうか。それとも、昔からあったのでしょうか。初めの一行しか出来ていない時点で村田に見せたというのも、その一行がよほど気に入っていたからでしょう。また、一行出来れば全部出来ると言った西条の言葉も、詩人の創作の秘密の一端を明かすような、面白い話だと思います。初めの一行だけでなく、歌詞全体も素晴らしいですよ。
2004年
11月

 スイスのバーゼルの町の小さな公園。ある日、一人の外国人らしい男がベロンベロンに酔っ払ってうろついていた。地元のスイス人が、その男に英語で話しかけた。"Are you drunken?”するとその男が答えた。"No, I am Scotch."


 1972年、私がスイス人の友人のフーゲンシュミット氏と一緒にバーゼルの町を散歩しながら、聞かされた笑い話です。ヨーロッパには、こういう、近隣の外国人をからかって笑いのタネにした小話が多いようです。
2004年
10月

 彼方へ   私は行くことを欲する。かくてわたしはつねに わたしみずからとわたしの舵とを恃(たの)む。海はひろびろと横たわり、遠い青みのなかへ わたしのジェノバの船は走り入る。(ニーチェ『
新しき海へ向かって』) 


 ドストエフスキー・ニーチェ・カフカ・カミュ・サルトル… こういう思想家達が、私の青春と共にいました。虚無の未来へ向かって、ただ自分だけをたよりに、不条理への戦いを挑む、青春の本質はまさにそういうものでしょう。ありがたいことにと言うか、呪うべきことにと言うか、現在の自分も、そんな生き方から、いまだに完全に抜け出せないのです。
2004年
09月

 This is one small step for (a) man, a giant leap for mankind.

一人の男にとっては小さな一歩だが、人類にとっては巨大な飛躍だ。(アームストロング船長)


 もちろん、1969年7月20日、アポロ十一号が月面に着陸した時、アームストロング船長が言った言葉です。同時通訳者の西山千氏が、man を「人類」と誤訳したエピソードが、とても面白いですね。不定冠詞の a が聞き取りにくかったとか、いろいろ言われていますが、私は詳しくは分かりません。私も高校時代、英語の予習をしていて、man という単語で始まる文を、「一人の男が、…」と訳そうとしたが、二時間考えても意味が分からず、翌日の授業で、先生が、「人間というものは、…」と訳すのを聞いて、ものすごく悔やしかった思い出があります。
2004年
08月

 私がいちばん悲しみにうちひしがれている時に作った歌が、なぜこんなにも人々の心を慰めるのだろうか(シューベルト)



 1964年ごろだったか、私はシューベルトを主人公にした映画を見ました。私はその時、高校生か、大学生でした。題も忘れてしまいましたが、主役を演じているのが、当時、世界的な指揮者だったカール・ベームの息子だという話を友達から聞いたことを覚えています。しかし、それが本当かどうかは今でも分かりません。その映画の始まるとき、こんな言葉が画面に流された記憶があります。それ以後、出典を探していますが、未だに見つかりません。根拠の無い創作かもしれませんが、ともかくシューベルトらしい言葉だと思います。
2004年
07月

 我こそは新島守(にいじまもり)よ隠岐の海の荒き波風心して吹け(後鳥羽上皇・増鏡)



 後鳥羽上皇は、日本の歴代天皇の中でも、もっとも傑出した天皇の一人です。『新古今和歌集』選者の一人で、大歌人としても知られ、また、俗謡を収集し、『梁塵秘抄』を編纂しました。北条政権の打倒と天皇親政の復活を画策し、1221年、承久の乱を起こしましたが失敗し、隠岐に配流となりました。この歌はその時の作で、島流しにされても、波風に「心して吹け」と命令しているところが、何とも奮っています。
2004年
06月

  ちょうど私が、ある部屋の陳列棚の前に立って、古めかしい木彫の菩薩像の、夢のようなエロティックに見入っていた時、うしろに、忍ばせた足音と、かすかな絹ずれの音がして、誰かが私の方へ近づいてくるのが感じられた。
 私は何かしらゾッとして、前のガラスに映る人の姿を見た。そこには、今の菩薩像と影を重ねて、黄八丈のような柄(がら)の袷(あわせ)を着た、品のいい丸髷(まるまげ)姿の女が立っていた。(江戸川乱歩『陰獣』)


 エドガー・アラン・ポーの次は江戸川乱歩。『陰獣』は、乱歩の最高傑作と言って間違いないでしょう。発表されたとき、ライバルだった横溝正史が絶賛し、自分が編集長をしていた雑誌に掲載したなどの話も聞いたことがあります。ここに引用した冒頭近くの文章も、いかにも通俗的な場面設定と人物描写を装いながら、実は、読者を一気に猟奇の世界に引き込む狙いがこめられています。香山美子とあおい照彦が主演で映画化もされましたが、とてもよく出来ています。それから、江戸川乱歩というペンネームの、何と魅力的なこと。
2004年
05月
 私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。……だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。しかしあす私は死ぬべき身だ。で、今日のうちに自分の魂の重荷をおろしておきたいのだ。私の第一の目的は、一連の単なる家庭の出来事を、はっきりと、簡潔に、注釈抜きで、世の人々に示すことである。それらの出来事は、その結果として、私を恐れさせ――苦しめ――そして破滅させた。(エドガー・アラン・ポー『黒猫』)

 中学一年生の時、友達から偶然借りて読んだこの小説が、私が文学的な感動を味わった最初の体験かもしれません。それまでに読んだ本は、『少年ケニア』、『十五少年漂流記』、『ノンちゃん雲に乗る』のようなものばかりでしたから、人間の心の暗部を照らし出す文学というものがあることを、ポーの小説で初めて知りました。
2004年
04月
 学校の休みを増やせば「ゆとり」が生まれるなんて、とんでもない大嘘だよ。働く時間を減らせば、生活のゆとりはなくなってしまうではないか。農業だって漁業だって工業だってそうだ。勉強も同じだよ。勉強する時間を減らせば、「ゆとり」なんてなくなってしまう。沢山勉強すればこそ、「ゆとり」が生まれるのではないか。

 何の変哲もない、私が自分の授業中に、高校生達によく話す言葉です。良い学校を作る第一の秘訣は、文部省の言うことを聞かないことです。
2004年
03月
 フーゲンシュミット氏(スイス人)「日本の憲法は、日本が軍隊を持つことを禁止していると聞いたが、本当か。」…私「本当だ。」…フ氏「ふーん。で、日本は軍隊を持っていないのか。」…私「Yes, 我々は軍隊を持っている。国を守るためには軍隊が必要だ。」…フ氏「What? おかしいじゃないか。それは憲法が禁止しているのではないのか。」…私「だから、我々は、それを『軍隊』と呼ばないのだ。」…フ氏「Oh! That's a good idea.」

 1972年に私がスイスを旅行して友人のフーゲンシュミット氏を訪ねたときの会話です。あれから30年以上の間、この状況はまったく変わっていません。軍隊を自衛隊と言い換え、戦争を紛争と言い換え、今、戦争行為を国際貢献と言い換えています。
2004年
02月
 長らへば また牛丼や 偲ばれむ うしと見し世ぞ 今は恋しき(朋盟)

 牛丼の最期も近いある日、何かで怒って牛丼屋の店員に牛丼を投げつけた男がいて、日本中の大ニュースになりました。その男を非難して、「くい改めよ」と言った人がいたとか。そこで私も一つ腰折れの狂歌を作りました。牛丼最期の日はきょうか。
2004年
02月
 かくて時過ぎ、頃去れば、かくて時過ぎ、頃去れば、五十年の栄華も尽きて、まことは夢の内なれば、皆消え消えと、失せ果てて、ありつる邯鄲の、枕の上に、眠りの夢は覚めにけり。(能『邯鄲』)

 人生の意味を掴めず悩む青年盧生が、邯鄲の宿で枕を借り、粟(あわ)のおかゆが炊けるまでのひと時、うたた寝をします。夢の中で皇帝となり、五十年の栄耀栄華を尽くします。私は、能を見ていて、この夢が覚める瞬間の演出に仰天しました。宮殿楼閣も百官も佳麗も瞬時に消え去るや、盧生はあわててガランとした舞台や橋掛かりを探し回り、突然、舞台の中央から大きく跳躍してベッドの中に飛び込む。その瞬間、うるさいほどだった音楽がピタッと止まります。静寂の中で目覚めた盧生は呆然と夢を振り返り、人生のはかなさを悟るのです。この時、藤田大五郎という名人の吹いていた笛は、今でも耳に残っています。
2004年
01月
 おい、竹男、何で食事中に薬を飲んでるんだ? 何、食間に飲めと袋に書いてある? 馬鹿! 食間とは食事中という意味じゃない。食事と食事の間のことだよ。……食事中に飲む薬なら、「ふりかけ」って書いてある筈だよ。(私の父親の言葉 1955年頃)

 私の父は戦前、朝鮮鉄道に勤め、終戦で本土に帰って、東京急行電鉄に勤め、大きな仕事としては伊豆急行・新玉川線・田園都市線などを作りました。1988(昭和63)年に70歳でなくなりました。私の人生の節目節目の選択において、何度も深刻な対立がありましたが、私はほとんど自分の意志を通したような気がします。後に、石川淳の『尭舜』という小説の中に「たれでもよくよくこまったときでもなければ、めったにおやじのことなんぞをおもい出さないのが人情の自然だろう」という一節を見つけて、父との関係がまともだったと安心しました。今となっては、一番思い出に残っているのはこのセリフです。この頃、私は小学生だったと思います。
2003年
12月
 ヤクザの抗争で兄貴分が死に、その葬式の帰りに二人の若いヤクザがしんみりと話をしている。「人間、死んだらどこに行くのかな」「さあ、俺達の場合はヤクザだから、まあ、天国じゃあないだろう」(1975年頃のヤクザ映画)

 映画の題も筋も配役も、皆忘れてしまいましたが、このやりとりだけは妙に記憶に残っています。確か、松方弘樹が主役の一人だったような気もするが… 最近、テレビなどで、『天国』という言葉が安売りされていると思いませんか。映画監督が死ぬと、「天国でも映画を作っていることでしょう。」漫才師が死ぬと「天国でも漫才をしていることでしょう。」…。何となく、マイホームならぬ『マイ天国』という言葉を思い浮かべます。2DKくらいの広さしかない、自己満足だけの安っぽい天国。
 そんな天国より、地獄で映画を作った方が迫力のある映像が撮れるのではないか。地獄で漫才をやった方が、ギャグに凄みが増すのではないか。
2003年
11月
 さてそも五条あたりにて、夕顔の宿を訪ねしは、日陰の糸の冠(かむり)着し、それは名高き人やらん、加茂の御生(みあれ)に飾りしは、糸毛の車とこそ聞け、糸桜、色も盛りに咲く頃は、来る人多き春の暮れ、穂に出づる秋の糸薄(いとすすき)、月に夜をや待ちぬらん、今はた賤(しず)が繰る糸の、長き命のつれなさを、長き命のつれなさを、思ひ明石の浦千鳥、音をのみひとり泣き明かす、音をのみひとり泣き明かす。(謡曲『黒塚』)

 内に鬼女の本性を隠した里の女が、夜通し糸車を回しながら歌う『糸尽くし』の歌。『糸』と『繰(く)る』の縁語が繰り返しリフレインされ、掛詞も多く絡まっています。「夕顔の宿」を訪ねた「名高き人」とは、光源氏のこと。都の高貴な人々の織り成す華やかな恋の世界に憧れながら、現実には味気ない下賎の世界に甘んじ、夜通し糸を紡いで暮らす人生。糸のように綿々と、切なさ、悔やしさ、恥ずかしさ、もどかしさが歌われます。
2003年
10月
 「はい、紅茶」
 とうしろに立ったまま登が、竜二の頬のわきへ、褐色のプラスチックのコップをさし出した。竜二はぼんやりとそれを受けとった。登の手が、おそらく寒さのために、心もち慄(ふる)えているのを彼はみとめた。
 竜二はなお、夢想に涵(ひた)りながら、熱からぬ紅茶を、ぞんざいに一息に飲んだ。飲んでから、ひどく苦かったような気がした。誰も知るように、栄光の味は苦い。(三島由紀夫『午後の曳航』)

 三島の小説は、結末の一句にしゃれた言葉が使われていることが多いですが、これもその一つです。しかもこの警句は、彼が文字通り死ぬほど忌み嫌った『戦後の日本社会』に向けられているかというと、そうではなく、逆に、そのような性向から逃れられない自分自身への痛烈な皮肉なのです。この、自己相対化の厳しさが、三島文学の客観性と普遍性を背後から支えているのでしょう。
2003年
09月
 雲はもっとも夢幻的な《詩の対象》のひとつに数えられる。それは白昼の夢幻状態の対象である。それは気楽に束の間の夢想を誘いだす。人はしばし《雲の中に》いるが、実際的な連中にやんわりひやかされて地上に帰ってくる。どんな夢想家も雲に空の他の《徴候》のように重大な意味づけをするものはない。一言でいうなら、雲の夢想には特殊な心理的性格が認められる。すなわちそれは責任のない夢想である(ガストン・バシュラール著『空と夢』 第八章『雲』)

 空、風、雲、日光、高山、飛行、墜落、上昇、下降…、我々の心象風景の中で、空間はいかに形象化され、いかに意味づけられているか。こんな魅力的なテーマで、古今東西の詩や小説を次々と分析した本、それがガストン・バシュラールの名著『空と夢』です。私も時々「空を飛ぶ夢」を見ます。平泳ぎの体勢で空に浮かび、ゆっくりと空気を掻き分けて進む時、こんな簡単なことが何故今までできなかったのかと不思議に思うほど、楽々と、軽々と、伸びやかに、自由に、…
2003年
08月
 ジュリエット:「あの高い石垣を、どうして越えてきたのですか。」ロミオ:「恋の軽い翼で、超えてきました。石の衝立で恋は遮れない。恋のなし得ることなら、恋は何でもたくらむ。」… ジュリエット:「どなたの手引きで、ここへ?」ロミオ:「恋の手引きで。まず恋が探せと命じたのです。恋が智慧を貸してくれ、私は恋に目を貸しました。私は水先案内ではないが、あなたがたとえ最果ての海に洗われる渚であろうと、必ずそこに漕ぎつけます。これほどの宝を手に入れるためなら。」…(シェークスピア『ロミオとジュリエット』第二幕第二場)

 シェークスピアのセリフは、質、量ともに人間の想像力の極限に達するかと思われるほど素晴らしい。「恋に目を貸す」というのは、恋は盲目だからです。英語研究室に『ロミオとジュリエット』のビデオを借りにいったら、ある老先生が「この棚の中にあるので、すぐ探してさし上げます。ちょっと待ってください。今、眼鏡を持ってきますから」とおっしゃるので、私は思わず、「目は、私が貸しましょう」と言ってしまいました。
2003年
07月
 どうだ、君。これは「PCM」と言って、日本コロンビアしか持っていない最新式の録音装置だ。この上野学院のメモリアルホールで、「鹿の遠音」を録音するために、わざわざ本社から運んで来たんだ。すごい機械だろう。君も山口五郎先生と初めての録音で、緊張しているようだね。なあに、安心しなさい。この機械を使えば、君の音はどうにでも出来る、…… 消すことも出来るんだよ。(杵屋正邦 現代邦楽の作曲家。1996/2/16没。81歳)

 私が杵屋正邦先生の存在を初めて知ったのは、1968(昭和43)年でした。正邦先生が作曲した尺八三重奏『風動』をラジオで聞いて感動し、先生のお宅に楽譜を借りに行ったのです。NHKの邦楽技能者育成会でもお世話になりました。この話は1975年のことです。大変な皮肉屋で、「消すことも出来るんだよ」と言いながら、まだ学生で、緊張している私の顔を横目で見て、にやっと笑ったうれしそうな顔が、今でも忘れられません。
2003年
06月
 人間は、平和の可能性を意識した瞬間に物凄く臆病になる生き物です。ある神風特攻隊員などは、八月十五日の翌日からは万が一の事故を考えると心配だから自転車にも乗れなくなったという手記を残しています。(中西輝政・京都大学教授・『諸君』2003年3月号)

 平和の美味を一度でも味わった人間にとって、平和ほど掛け替えのないものはない。だから、平和を守るためにはどんな代償を払ってもかまわない。これが平和主義の論理です。しかし人間は、必ず論理の裏を思いつく。平和を希求する相手に、平和を破壊するぞという脅しをかければ、どんな無理な要求でも認めさせることができる。これがテロリストの論理です。かくて、我々は、永遠の平和を維持するために、永遠にテロと戦争し続ける準備と実行を必要とするのです。核廃絶や軍備全廃による平和なんて、怠け者の平和主義に過ぎません。折り紙や、散歩や、合唱や、サインや、ごろ寝、そんな安上がりなことで世界が平和になるなら、命がけで不審船をパトロールする警官や軍人は必要ありませんよ。
2003年
05月
 乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。(カミュ『異邦人』)

 孤独な単独者としての人間は、いかにあるべきか。カミュは、西欧の哲学を背後から支えていたキリスト教の倫理を完全に否定し、一旦すべての倫理・道徳を破壊し、ゼロの地点から、再構築しようとしました。神を持たない人間達のための新しい哲学、実存主義の出発が、この小説のこの殺人の場面に語られていると言ってよいでしょう。
2003年
04月
 アフリカに雨季が近づいていた。風が湿気を帯び、ときどき雷鳴が走る。ときにスコールがきて、ガラスが割れるかと思うほどの激しい雨滴が窓を叩く。と、たちまち雨があがり、再び痛いほどの陽が射し、草花が生き返ったように鮮やかさを増す。  激しい雨も、眩しいほどの光も、原色の草花もいまの英世には厳しすぎた。英世はアメリカへ戻ることを考えていた。(渡辺淳一『遠き落日』)

 渡辺淳一の書いたものというと、何か「いやらしい」ものばかりのような印象がありますが、この本は、そうではなく、野口英世の本格的な伝記です。偉人として美化されることの多い英世の、その常識はずれな人格と行動、類い稀な才能と努力。日本人で最初のノーベル賞受賞者になる可能性さえあったこの明治の日本人の実像を描いた本を読み始めると、徹夜をしても一気に最後まで読まずにはいられません。
2003年
03月
 「人間は万物の霊長だ」なんて言うが、犬や猫が人間に向かって「お前さんは万物の霊長です」なんて言ったわけじゃない。ただ人間が勝手に言っているだけだ。「オレが一番偉いんだ」と自分で言ってるのだから、まったく信用できないよ。(世田谷区立山崎中学校の社会科の市川先生の言葉)

 先生が授業中にこの話をしたのは、私が山崎中学の一年生の時ですから、計算すると1959年です。どういう文脈の中でこう言ったのかは忘れましたが、子供ながらに、もっともだと思いました。
2003年
02月
 「大阪の呉服屋まで使いに出すのに、誰か、東海道の長旅も苦にしない健脚なものはいないか」「それなら百足(むかで)が適任でしょう。何しろ足が百本もありますから」「成る程、では百足を呼べ。百足、ご苦労だが頼んだよ」「承知しました」…一月ほどして、木戸口で、「どっこいしょ」という百足の声がした。「さすがは百足だ。もう大阪へ行って帰ってきたか」「いえ、今、草鞋(わらじ)を履き終わった所です」(出典不明。落語)

 何でも沢山あればいいというものではない。私の友人で、肺活量が6000ccもあるが、普通のサラリーマンで、風船を膨らますぐらいしか役に立ったことがないという人がいます。
2003年
01月
 都会ではたえて見られない豪奢な星空だった。星は夜空を豹の毛皮の斑紋のように埋めていた。異様なほどに大気が澄んでいるので、遠い星近い星が夜空の奥行きをはっきりと見せる筈なのが、光の集積があたかも靄のようで、そのために星あかりに霧(きら)う空は、見る人の目に投網を投げかけて来るかのようである。うるさいほどの星の数だ、と暁子は思った。天のどの一隅にも、まだ夜明けの兆(きざし)はあらわれず、天の川は地平と垂直に交わり、ペガススの大方形はすでに地平に沈みかかっていた。そして夥(おびただ)しい星のたえまのない燦(きら)めきは、夜空を過度に敏感な、弦楽器の弾かれたあとの弦のわななきのようなもので充たしていた。(三島由紀夫『美しい星』)

 危険なまでに美しい文章というのは、こういうのを言うのでしょう。何が危険なのか。言葉が、究極的には、言葉のみによる世界の創出を望むとしたら、それはまた、世界の消滅を望むとしても不思議ではない。つまり、「滅びよ」と言えば、何の原因も、理由もなく、世界が滅びなければならない。それは、この小説の主題でもあるのです。
2002年
12月
 蒔(ま)かなくに何を種とて浮き草の波のうねうね生ひ茂るらむ(能『草子洗い』)

 小野小町が詠んだという歌です。自分が望んで種を蒔いたわけでもないのに、恋の悩みは浮き草のように次々と湧きだして、悟りの世界に入ろうとする心を妨げる。小町が悩んだのは恋の煩悩でしょうが、私たちの日々の生活を悩ませるものは、煩わしい雑用、手続き、準備、後始末、生活の不安、健康の不安、気配り、挨拶、病気、事件、事故、……。頼んだわけでもないのに、波に乗った浮き草のように、後から後から、際限もなく打ち寄せてくるのです。
2002年
11月
 私は自分の心の内から、いつも智恵を生み出しています。自己の本性を隔てないで、そっくり福徳の田地です。いったい先生は私にどういう畑仕事をさせようとするのですか。(慧能『六祖大師宝壇経』)

 慧能が師の弘忍大師から「畑を耕していろ」と命ぜられたとき、即座に投げ返した言葉です。真に大切なものは、外に作るのではなく、自己の内部から生み出すものである。そして、その大切なものは、もともと自己の内部にあるのだ。それに気づかず、何をきょろきょろと外を探し回っているのか。慧能はそう言っているのでしょう。
2002年
10月
 信玄はまじろぎもせず前方の霧の中を凝視していたが、やがて、おぼえず、「あっ!」と声を出そうとして、危うくのみこんだ。 それと同時であった。本陣にい合わせた武者らが、大将分の者も兵も、一様に、「あっ!」といって、総立ちになった。 霧の薄れるに従って、半町ほど前にかまえている味方の五隊が影絵のように見えて来たが、それが次第に影を濃くするとともに、その向こうに乳の中におとした墨汁がにじみひろがっているように、あるいはまた薄墨色の煙が渦を巻いているように、人馬の群の影が見えて来たのだ。おびただしい人数だ。(自分がさわいでは、全軍がうろたえる)咄嗟に考えて、わざとふかぶかと床几に腰をおろし、右手をわきに出した。「よこせ」 低く言った。一人の侍臣が心得て、あずかっていた軍配団扇をわたした。(海音寺潮五郎『天と地と』)

 川中島の合戦を描いた文章は沢山あるでしょうが、この文章はたぶんその中で最も魅力のあるものの一つです。謙信を欺いて待ち伏せしているつもりの信玄の陣地に、謙信が霧を利用して忍び寄り、不意打ちを仕掛ける。天才的な戦術家同士が、互いに相手を欺こうと駆け引きの限りを尽くす。その情景が、劇的に、詩的に描かれています。
2002年
09月
 人の田を論ずる者、訴(うつた)へに負けて、ねたさに、「その田を刈りて取れ」とて、人を遣(つかは)しけるに、先づ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事(ひがこと)せんとて罷(まか)る者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。(兼好法師『徒然草』二百九段)

 他人の田を自分の田と主張して訴訟に負けた人が、相手を憎んで、人に頼んでその田の稲を刈りに行かせた。頼まれた人は、目的の田に行く途中の田まで刈りながら行った。田の持ち主、「これはあなた方が所有権を争った田ではありません。なぜこんな筋の通らぬことをするのですか。」その人は答えた。「もともと筋の通らぬことをしに行くのだから、どこの田だって刈ってやるのだ」
 兼好法師は、論理の面白さについて考えた数少ない日本人の一人でしょう。

 こんな段もあります。ある人が、小野道風の書いた和漢朗詠集というものを持っていた。「四条大納言(藤原公任・平安中期の人)が編纂した和漢朗詠集を、小野道風(平安初期の人)が書いたというのは、時代が違うのではないか」と指摘されて、「だからこそ、珍しいのだ」とますます秘蔵したそうだ。(八十八段)
2002年
08月
 張柏端の沓は、…美しい黒の繻子(しゅす)で出来ていて、裏は銀盤のように白く光っている。それを履いて飛ぶと、飛ぶひとの姿は消えて、沓だけが宙にひるがえり、地上からはあたかも二羽の燕が舞って行くとしか見えない。…他の品を代用したとすれば、たとえば革靴では南京虫が空を這うように見えるだろう。木靴では兜虫のように見えるだろう。草履(ぞうり)ではムカデのように見えるだろう。それではたれも感心してくれそうもない。…はだしで地べたを駆け回っている人間どもには推量しかねるところの、飛仙の苦衷である。(石川淳『張柏端』)

 空を飛ぶ仙人を地上の人が見て、あんな風に自由自在になれたらどんなに楽しいだろうと羨ましがる。しかし、その仙人にも実は悩みがある。この上もなく美しく飛ぶのでなければ、生きている甲斐もない。ハイレベルな存在は、悩みもハイレベルなのだ。俗人には想像も出来ない、空を飛ぶ仙人のハイレベルな悩み、これを『飛仙の苦衷(くちゅう)』と言うのだそうです。
2002年
07月
 夜道の街灯の下で、物を探している人がいる。通りかかった人が尋ねた。「どうしたのですか。何か探しているのですか。」「はい、大切なものを落としたので、探しているのです。」「ここに落としたのですか。」「いいえ、向こうの木の陰の、暗い所に落としたのです。」「では、ここを探してもだめです。向こうの木の陰を探さなければ見つからないでしょう。」すると、その人は答えた。「でも、向こうは、暗くて探しにくいんですよ」(出典不詳)

 いつか誰かから聞かされた、人間は結局はものぐさだという例えです。朝永振一郎博士だったか、テレビで、この話を例にして、科学研究の世界でも、大切な仕事でも難しい分野は敬遠されがちであるという話をされていたのを聞いたことがあります。有名な話なのかも知れません。何か歴とした出典があるのか、調べてみようか。面倒だからやめておこう。
2002年
06月
 ABC大学には、偏差値嫌いの学長がいます。偏差値が嫌いな諸君、ケン玉でも腕立て伏せでも、一芸に秀でた人は大歓迎です。ぜひABC大学を目指してください。(某ABC大学がマスコミに流した宣伝文句。1985年頃。さて、その結果は?)

 マスコミがこの『ケン玉入試』を誉めそやしてくれたお陰で、ABC大学は人気が上がり、受験生の数も増え、偏差値は上がりました。それはそうでしょう。マスコミをただで宣伝に利用したのだから。実は、この学長は偏差値が大好きで、これは大学の偏差値を上げるための巧妙な作戦だったそうです。

 その後聞いた話では、腕立て伏せで入学した学生は、教授から、「あなたの学力では私のゼミに出ると邪魔になるので、教室の外で腕立て伏せをしていて下さい」と言われたそうです。

 
昔中国でこれと似た話がありました。ある王様が千両の予算で名馬を探してくるように家来に命じた。ところが家来は、死んだ名馬の骨を五百両で買って帰ってきた。王様は怒ったが、家来は涼しい顔で、名馬は今すぐやって来ますと言う。

 それから数ヶ月、この話は国中の評判になり、馬を売ろうとする人が、我も我もと王宮に押し寄せた。そうしたら、今度は死んだ馬や並みの馬は買わず、生きた名馬に限り一頭百六十両で買った。

 「死馬の骨でさえ五百両でお買いになったのなら、ましてやこの名馬、千両で買ってくださいませんか。」「百六十両でいやなら、馬を連れて砂漠の田舎に帰ったらどう。馬を売りに来る人は、他にも沢山いるんだよ」「え、いえ、売らせていただきます。」

 こうして、この家来は、一頭分の予算で名馬を三頭も手に入れた。しかも、旅費や人件費、万一の場合の保険料は全部売り手の負担。買う方は座っていて、名馬が来るのを待っているだけ。ウマいことをやったものだ。160両×3=480両、残りの二十両は何に使ったか。死馬の骨を探した時の旅費にしておきましょう。

 死馬の骨を買ったのは一回だけの無料キャンペーン、いや、売る側ではなく買う側の五百両キャンペーンだったのです。もしこのキャンペーンをしないで、家来が名馬を探して国中を旅行したら、その出張費、日当、旅費、宿泊費、食費、また旅行中の安全を保つために現地のガードマンに払う金などは八百両を超え、名馬は一頭しか買えなかったかもしれません。今から二千年以上も昔の中国人が、コマーシャリズムの重要さや、需要と供給の法則を知っていたのですね。

 腕立て伏せで大学に受かった受験生も死馬の骨と同じで、大学が学生を集めるためにマスコミを利用した、その宣伝の道具にされたのです。

 私もそろそろ定年ですが、もし死馬の骨の仲間入りをさせてもらえれば幸いです。
2002年
05月
 先日、手品はタネがあるからつまらないとおっしゃるお客さんがいましたが、冗談言っちゃいけません、世の中にタネのないものなんて、ありませんよ。(寄席で手品を演じながら、今は亡き老手品師、アダチ龍光の言。)

 超能力などという胡散臭いものが社会を惑わせることは、いつの世にもあることでしょう。小林秀雄の言い草ではないが、私たちはいつも健全な常識に立ち戻ってものを考える必要がありそうです。アダチ龍光さんがなくなったのは、たぶん昭和の終わり頃だと思います。品格のある顔立ちと話術は、当時最高でした。品のある手品師というのは、昔も今もほとんどいませんね。
2002年
04月
 粘土を捏ねて器物を作るが、その器物が役に立つのは、その器物の中が空虚になっているからである。戸や窓を開けて部屋を作るが、その部屋が役に立つのは、戸や窓の空虚の所から出入りが出来るからである。(『老子』十一章)

 先月は荘子、今月は老子です。存在するもの、つまり「有」が意味を持つのは、存在しないもの、つまり「無」があるからである。「上」が意味を持つのは、「下」があるからであり、「光」があるのは「闇」があるからであり、「男」があるのは「女」があるからであり、……。存在するということは、何かに対立して存在することであり、ものごとは互いに対立しあって存在するからこそ互いに意味を持つ。これを、存在の相補性と言い、現代物理学などでも着目されている存在原理なのだそうです。では、音楽は何に対立して存在するのか。それは、『静寂』でしょう。音は静寂と対比されるから意味を持つ。音の背後に静寂を感じ取り、静寂の中に音を聞くこと、それが音楽することだろうと思います。
2002年
03月
 南海の帝・倏(しゅく)と、北海の帝・忽(こつ)は、ある時、中央の帝・渾沌(こんとん)の地を訪れた。渾沌はこの二人を大変よくもてなした。倏と忽は、渾沌の恩恵に報いようと相談した。「人は皆七つの穴(眼・耳・口・鼻)があり、それで視、聴き、食べ、息をする。それなのに渾沌にはそれがない。試みに、渾沌にこの七つの穴をプレゼントしよう」一日に一つずつ穴を開けていったところ、七日にして渾沌は死んだ。(荘子『応帝王編』)

 今から二千三百年も昔に、中国人の考えた寓話です。秩序のない偉大な生命体『渾沌』。それに人間の浅はかな知恵で秩序を与えると、無為自然の無限の生命力は失われるというのです。尺八についても同じようなことを言う人がいます。自然のままの音こそが本当の音だ。だから、尺八は作ってはいけない。そこら辺に落ちている竹筒を、そのまま吹けば、本当の音が出る。しかし、私はそうは考えない。数十分の一ミリまで計測し、時にはコンピュータ、レントゲン、周波数測定器なども使い、音と形の関係を合理的に認識することを追求しているのです。

 渾沌(カオス)なす真竹に七つ穴を穿(うが)ち死すやいなやは我試みん

2002年
02月
 ニーチェ曰く、神はすでに無し。神に見放されたものは、自らの手で運をつかめ。君は人類の未来を握っている。(東大教養学部のトイレの落書き。昭和40年頃)

 東大に入って、トイレにも入って、「神はすでに無し」この落書きを見た時、「あれ、『神は死んだ。』じゃなかったかな…」。その下に書いてあった「神に見放されたものは、自らの手で運をつかめ」を読んで、「ニーチェがそんなことを言ったかな…」。さて、用が終わって拭こうとしたら、紙はすでに無かった。「君は人類の未来を握っている」は、小の方のトイレの落書きでした。
2002年
01月
 人非人にとって、一等つまらねえものは理想なんだ。理想は悲劇なんだ。人間はあの、いい人じゃあなくて、ほんとうは人非人が多いんだよ。だから大きな理想に向かっていく人間はひどいことになる。名誉とか、人の鏡とか、そういったものはイカサマですよ。極端な言い方かもしれないが、そういうもんはね、人間を毒してるんだね。

 人間は手だとかね、足だとか足の裏だとか、そういうもんからは離れられないんだ。そういう具体的なものから始まってくの。うん、そうすれば悪人も善人もないでしょう。(金子光晴著『人非人伝』大光社、1971年6月25日刊)


 ただ自己の感性だけに忠実に、放蕩の限りを尽くし、アジアとヨーロッパをさまよった放浪の詩人、金子光晴。彼は、詩人としての資質以外は何も持ち合わせなかった、また、持とうとしなかった、そういう意味で純粋・無垢の詩人と言えるでしょう。彼を軍国主義に対する抵抗の詩人と呼ぶ人もいるが、軍国主義だろうが民主主義だろうが、およそ思想・モラル・社会制度など、感性を外から規制するもの一切は、彼にとって抵抗の対象だったのでしょう。
2001年
12月
 先立つ不幸をお許し下さい。(ある高校生の遺書です。間違いを直して下さい。)

 これは、20年ほど昔に私が実際に週刊誌の記事の中に発見した間違いです。「不幸」ではなく、「不孝」が正しい。この問題に、現代の大部分の高校生は正解できません。「先立つ」は、親よりも先にあの世に旅立つこと。親よりも先に死ぬのは親不孝なのです。人間は、親の死を看取って、子供があれば、子供に死を看取られて死ぬのが当たり前の順序なのでしょう。病気など、不可抗力の場合もあるが、自ら死を選ぶのは論外なのです。だから、「不孝をお許し下さい」となる訳です。親よりも先に死んで「私は不幸だ」というのでは、「お許し下さい」につながらないではないか。
2001年
11月
 グスタフ・ヤヌホ「それほどあなたは孤独なのですか? 流浪の廃太子、カスパル・ハウザーのように?」 フランツ・カフカ「カスパル・ハウザーよりはるかに惨めです。私は孤独です−−フランツ・カフカのように。」(『カフカとの対話』G・ヤノーホ著。筑摩叢書101)

 カフカは、孤独の本質を誰よりも深く探り当てたと言えるでしょう。カフカは確かな拠り所となる超越者を持っていなかった、というか、持っていると信じることが出来なかったのです。神や仏を失ってしまえば、人間は皆、孤独になります。そして孤独である限り、皆、自分自身のように孤独であることしか出来ないのでしょう。そこに実存の本質がある。カミュのように、孤独な人間の連帯ということを考え出さない限り。
2001年
10月
 もし彼(バートランド・ラッセル)の呼びかけが功を奏すれば、自由主義陣営の「良心的」な科学者と労働者とは核兵器製造から手を引くことにならう。それからどうなるか。言ふまでもない、「良心的」ならざる科学者と労働者が彼らに代わって、その製造に携わることにならう。事態は少しも変らぬどころか、かへつて悪くならう。(福田恒存『現代の悪魔』新潮社・昭和37年5月刊)

 私は、私が授業をもっている高校生達に、『核を廃絶すれば、核戦争が起こる』という考え方があることを話しています。

 核を廃絶すれば、誰も核を持たない世界が出来る。アメリカも、フランスも、中国も、ロシアも、…誰も核を持たない世界。すると、その核廃絶条約を破って、秘密裏に核を作った国、あるいは集団は、世界中を核で脅迫できます。さらに、実際に使うことも出来ます。なぜなら、無法な核の使用を抑止するための核は、既に廃絶してしまったからです。

 あらゆる武器、例えば、核も軍艦も戦車も大砲も機関銃も、そしてピストルさえ廃絶した世界を考えてみましょう。すると、ピストルを密造した個人または集団は、あらゆる人を支配できます。なぜなら、警官も既にピストルを持っていないからです。悪人はピストルを密造できますが、警察は法律に縛られます。国会が「ピストル廃絶法」を廃止するまでは警察はピストルを作れない。その前に、ピストルを持った悪人達は、国家を乗っ取ってしまうかもしれないのです。

 テロに報復すれば、報復の連鎖になる、報復の連鎖はいけないという意見があるが、報復を廃絶すれば、世界中のテロリストは、安心して先制攻撃のやりたい放題になるでしょう。だって、何をやっても報復されないのだから。

2001年
09月
 天にまします天使よ、守らせ給え。良き霊でも悪しき霊でもよい。天国から舞い下ったか、地獄から抜け出してきたか。そのように現われたのは吉兆か、不吉の前触れか。その物言いたげな姿に話し掛けずにはいられない。その姿こそ、ハムレット王、国王、父上、デンマーク王! 訳を知らずにいてはこの胸が張り裂けてしまう。なぜ手厚く葬られた棺(ひつぎ)から死装束(しにしょうぞく)を破り、出てきたのか? 安らかに眠られよと冥福を祈りつつ閉ざした墓が、なぜ重い大理石の口を開いて死人(しにびと)を再び外へ出したのか? これはどういう訳だ? 死人が全身くまなく再び甲冑に身を固め、漏れいづる月影に姿を見せるとは? 夜をおぞましくするためか? 人の心では推し量られぬ思惑で、浮世の枷(かせ)に縛られた我々を脅かそうというのか? 言え、何故なのか。何のためだ?(シェークスピア『ハムレット』第一幕第四場。ハムレットが父王の亡霊に問いかける言葉)

 シェークスピアを誉めるというのは至難の業。なぜならその誉めゼリフはシェークスピアのセリフに匹敵する名セリフでなければならないでしょう。しかし、一つだけ言わせて下さい。亡き父王を、四通りの呼び方をするところが、何とも素晴らしいです。私は演劇の単なるファンに過ぎませんが、こういうセリフを舞台の上で思う存分にしゃべれる役者という職業を、しばしばものすごく羨ましく思います。
2001年
08月
 敵の剣が切り付けてきた時、二尺も三尺も飛びのく必要はない。ただ、敵の切っ先から、一厘だけ離れよ。我が身を守るにはそれで十分である。それどころか、次に相手の懐(ふところ)に踏み込む距離を最短に出来る。(石見水影流『免許皆伝書』第三節より)

 無駄な動きをするな、という教えです。楽器を演奏する時も、この言葉は貴重な助言です。尺八を吹く時も、尺八を握り締める必要はない。たった350グラムほどの竹の筒、ただ持てばよいのです。穴はただ塞げばよい。力を入れれば、指の動きは鈍くなり、疲れる。息を強く吹き込むことはない。ただ普通に話をするように呼吸すればよい。難しい指使いで、力(りき)むことはない。指先に神経を集め、指が譜面通りに動くように、脳から指令を送ればよいのです。
2001年
07月
 進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか。(昭和二十年四月、沖縄特攻に赴く戦艦大和艦上での臼淵磐大尉の言葉。吉田満著『戦艦大和ノ最期』より)

 日清・日露戦争に勝って以来、軍国主義は日本人の中に血肉化しました。しかし、昭和十六年から 足掛け五年間、太平洋戦争で日本が戦った相手は、民主主義と合理主義に支えられたアメリカの巨大な力でした。この戦争を全力で戦い、完膚なき敗北を自認した時、日本人は初めて軍国主義を否定し、民主主義を受け容れる契機を得たのです。真剣に戦ったからこそ、挫折した。だからこそ、新生できた。あの戦争を回避したら、軍国主義は滅びなかったでしょう。逆に、もっと徹底した民主主義を手に入れるには、ドイツのように本土決戦をしなければならなかったでしょう。もう一つ、この戦争で、日本は、他の国ではなく、アメリカに負けたのだという事実をゆるがせにできない。だからこそ、今、アメリカの同盟国になっているのです。
2001年
06月
 奴隷の王よ、この棒がお前の王笏、この砂漠がお前の王国だ。サソリとコブラとトカゲを家来にしろ、ヘブライ人どもは私が家来にする。一日分の水と食料をやる。名もないヘブライの神にすがれ。お前が死ねば、それは神意、私のせいではない。…さらば、私の一時の弟よ。(映画『十戒』より。モーセをエジプトから追放するファラオの言葉。)

 エジプトの王子として育てられたモーセ(チャールトン・ヘストン)は、後にファラオ・ラメシス二世になる義兄(ユル・ブリンナ)に反逆罪の咎(とが)で捕えられ、追放されることになります。ラメシス二世はモーセを国境の砂漠の入り口に連行し、両腕を縛(いまし)める枷(かせ)として背中に横に渡していた棒をはずします。そして、憎まれ口をききながら、その棒をモーセに投げ与えます。モーセはそれを杖に、砂漠に脚を踏み出し、数日後、奇跡的にミデアンにたどり着くのです。

 映画『十戒』は、シェークスピアばりの格調高いセリフが魅力ですが、それ以上に私がこの場面に魅せられる理由は、この杖の『格好よさ』です。とにかく、ものすごく『かっこいい』杖なのです。撮影する時、どこからあの杖を探してきたんでしょうか。それとも、作ったのでしょうか。スタッフが別の杖を持ってきた時、監督は、「こんなのではだめだ。もっと格好いい杖を探してこい」と怒ったのでしょうか。あの杖を使うと決まるまでに、どんなエピソードがあったのでしょうか? あと2ミリ細く作り直そうとか。まあ、映画というものは、何度か見ると、ディテイルが気になるものですね。

 そして、モーセはその杖を最後まで持っている。あの、紅海を割って道を開いた時振った杖も、あの杖なのです。
2001年
05月
 アインシュタイン「この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も、所詮は科学者の見方に過ぎません。しかし真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか。例えば、私が見ていなくても、月は確かにあるのです。」

 タゴール「それはその通りです。しかし、月はあなたの意識になくても、ほかの人の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月が存在しないことは、同じです。」

 アインシュタイン「私は人間を超えた客観性が存在すると信じます。ピタゴラスの定理は、人間とは関係なく存在する真実です。」

 タゴール「しかし科学は、月も無数の原子の描く現象であることを証明したではありませんか。あの天体に光と闇の神秘を見るか、それとも無数の原子を見るのか…、もし人間の意識が月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。」

(1930年、アインシュタインの別荘にて。NHK放送『アインシュタインロマン』第二回より)


 私はクリスチャンではないせいか、タゴールの東洋的な世界観に共感します。人間が存在しなくなれば、この世界のすべてのものは存在しなくなってしまう。万物は人間が意識するからこそ存在する、ということは、人間の意識の中にのみ存在するということでしょう。さらに突き詰めると、存在するものは、人間の意識だけであるとなる。これを唯識論と言います。それにしても、科学であるはずの物理学が、その科学的な方法で物質を研究した結果、唯識論と紙一重の所にまでたどり着くなんて!
2001年
04月
 飛光よ 飛光よ 爾(なんじ)に一杯の酒を勧めん 吾は識らず 青天の高きを 黄地の厚きを 唯だ見る 月は寒く日は暖かく 来(きた)って 人寿を煎(い)るを 熊を食えば則ち肥え 蛙を食えば則ち痩(や)す 神君 何(いず)くにか在る 太一(たいいつ) 安(いず)くにか在る…… 李賀(791〜817)『昼の短きを苦しむ』
 「飛光」とは、時間のことであろう。時間と空間は、時空という一つのものの二つの側面であることが最近の物理学で明らかにされてきた。時の経過の中でなければ空間を経験することは出来ず、また、空間の変化を感知しなければ時の経過を認識することは出来ない。中国人の言葉で言えば、時空は則ち宇宙である。「宇」は空間、「宙」は時間。我々の生は、時空つまり宇宙という入れ物にすっぽりと包み込まれている。そして、その宇宙の内か外に創造主がいるのか、いないのか…。人間の魯鈍な問いかけをよそに、時間はすごい速さで駆け抜けて行くばかり。
2001年
03月
 イタチが河を渡ろうとしていると、サソリがやってきた。「イタチさん、私をあなたの背中に乗せて、向こう岸に運んでくれないか」イタチは言った。「サソリさん、それは簡単なことだが、あなたは私を毒針で刺すのではないか」サソリ「そんなことをすれば、私も溺れ死んでしまう。だから、するはずがありません」イタチは成る程と思い、サソリを背中に乗せて河を渡り始めた。河の中ほどで、サソリはイタチを刺した。イタチは叫んだ。「これで私もあなたも死んでしまう。それが分かっていながら、なぜこんなことをしたのか。」サソリは答えた。「それは私がサソリだからだ。」(出典不明。『イソップ』?)

 サソリが命を惜しんで他人(ひと)を刺さなくなってしまえば、ザリガニの出来損ないになってしまうよ。
2001年
02月
 (昭和48年当時、作詞家の喜多條忠からの電話で、)レポート用紙を前において書き始めたんですね。「あなたはもう忘れたかしら……ただ、あなたの優しさが、恐かった」書き終わった時にね、もう、…メロディーが、一緒に出来て、…「♪あなたはア〜〜、もおオ、忘れたかしらア〜〜〜、赤い、手ぬぐい、マフラーフフフ、二人で、 フフフ、横丁の風呂屋、…… わーかーかーあーったー、あの頃〜〜〜、」一緒に歌ってるんですね。ですから、同時に出来た、メモするのと同時にっていうのが正確、……これ、3分も掛からずに出来たってあらゆる所で言ってるんですよ。だってね、同時ですから、一秒も掛かってないんですね。喜多條さんの、詩の中に、もうメロディーがあったんですね−−−南こうせつ(『そして歌は誕生した』平成12年4月22日、NHKで放送)

 天才モーツアルトも同じようなことを言っていますね。つまり、自分にとって、音楽は作るものではなかった。音楽は頭の中に突然鳴り響くもので、自分はそれを聴き、記憶し、楽譜に記録するだけだと。南こうせつさん、この時は、いや、この時だけは天才だった。いやいや、たった5分だけでも天才だったということは、つまり天才だということですよ。
2001年
01月
 白花カスミ草。学名、ギブソフィラ……毛の如き茎の先に白色五瓣(べん)の小輪を多数に叢(むらが)り咲かせ、遠くから見れば置き忘れし女神のヴェールか羽衣か、カスミの掛かったように見えるのでカスミ草といいます。最も作りよい一年草で切り花として他の花の添え花に多く使われ、投入盛花(なげいれもりばな)の分野においては艶麗誇るダリアも一歩を譲る風情です……吉行淳之介『砂の上の植物群』四十八

 『砂の上の植物群』は全編これセックス描写のような小説です。誇張して言うと、その中で一ヶ所だけそうではない部分がこの部分。主人公の伊木一郎が、花屋の店先でふと眼を止めた花の種の袋、その裏に書かれた花の解説文です。俗の極みと雅の極みが、究極の点で合致したような、不思議な魅力を持った一節です。この文章は、作者が書いたのでしょうか、それとも、本当に市販の花の袋に印刷されていたのでしょうか。
2000年
12月
 真実とは何でしょう。−−−−すべての人間が生活のために必要としていても、しかし何人からも貰ったり買ったりできないもの、それが真実です。人間は、一人一人が、自らの内部から真実を絶えず生み出さねばならない。さもなければ、死滅するのです。真実なき生活は不可能です。おそらく、真実とは生活そのものかもしれません。−−−フランツ・カフカ (『カフカとの対話』G・ヤノーホ著。筑摩叢書101)

 カフカは、深く、透明だ。人間存在を深い所まで見通すという意味で。我々はみな、自分のものは自分自身で作り出さねばならない。
2000年
11月
 牛が窓の前を通って行く。頭も角も脚も胴体も通り過ぎてしまった。それなのに、なぜ尻尾だけが通り過ぎないのか。−−−法演(『無門関』第三十八)

 人間は、完成、完全、完結を目指して努力する。しかし現実の結果は、必ず未完成の部分、不完全な部分、完結しきれない部分が残るのです。「完全」なものは、形而上の世界には存在するが、感覚世界には存在し得ない。だからこそ、人間は、「完全」に憧れる。中国の禅僧法演も、ギリシャの哲学者プラトンと同じことを考えたようです。
2000年
10月
 どうだ、君、この地面に突き出た杭が仏か凡夫か、君の考えを言って見ろ。何だ、何も言えないのか。自分の意見は無しか。それでは君の手に掛かればこれはただの棒杭、それだけのものでしかないのだ。−−−臨済(『臨済録』勘弁)

 使いようで価値が決まるものは、馬鹿と鋏だけではない。すべてものが、使い方によって価値が決まる。外界に働きかける人間の主体性、能動性こそがこの世に存在するすべての意味を決めるのだ。
2000年
09月
 この上もない悟りを学ぼうとするなら、初歩の修行者を見くびってはならない。最低の人にも最上の智恵があり、最上の人にも智恵の盲点がある。−−−慧能(『六祖大師宝壇経』)

 慧能は、無学文盲の薪売りの少年だった。異民族出身なので、言葉も訛っていた。外見はまさに「最低の人」だったでしょう。その「最低の人」から、突然こんな警句を聞かされた「最上の人」弘忍大師は、さぞかし驚いたでしょう。
2000年
08月
 仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず透脱自在なり。−−−臨済(『臨済録』示衆)

 私は、理想の楽器を壊すことこそ、理想の楽器を作ることだと心得ている。実際、昔の名人の作った名管を壊したことが、自分が吹く尺八を自分で作るきっかけとなったのです。それ以来、自作の尺八、それも、その時点における最高の楽器で、舞台で演奏する時に使う楽器を、何度も何度も壊してきました。自分が演奏用に使っている尺八に鋸を入れる時の、まさに我が身を切り刻むほどの辛さは、経験のない人には分からないでしょう。新しい演奏を実現することは、今の演奏を壊すことだ。新しい生活を築くことは、今の生活を壊すことだ。新しい自分を作ることは、今の自分を壊すことだ。全てを否定し尽くして、最後に否定できないものが残った時、確かな何かを得る。理屈ではなく、生まれつきそういう傾向を持っている私にとって、臨済の言葉は救いでした。