須磨曲
【解題】 八橋検校作曲、組歌中組の一曲。源氏物語、古今集、白楽天の詩などから、美しい章句を断片的に引いて並べたもの。曲名は第一歌による。 【解析】 第一歌 ○須磨といふ も浦の名、明石と云ふ も浦の名、 須磨というのも浦の名、明石というのも浦の名、いづれも月の名所である、 ○ 更科の月 ともに、 眺めて いざや| 帰らむ。 同じ月の名所である更科の月とともに、よく観賞して、さあ |都に帰ろう。 第二歌 ○春に寄せし 心も、いつしか | 秋にうつらふ 、黒木赤木の籬(ませ)の内に、 春に寄せた人々の心も、いつの間にか|季節が 秋に変わると 、 |愛着の心も秋に移って行く、黒木赤木の垣根 の中に、 ○よしある|花のいろいろ。 風情ある|花のいろいろ。 第三歌 ○きりぎりす 、夜すがら|何を恨み|すだく ぞ、 きりぎりすよ、夜通し |何を恨み、集まって鳴くのだ、 ○我も 思ひに|耐えかねて、 |いとど心の乱るる に。 私も物思いに|耐えかねて、お前より|もっと心が乱れているのに。 第四歌 ○なかなかに、人をば|恨むまじ や、怨みじ 、とにかくに 、 中途半端に、人を!|恨まないことにしよう!、恨むまい、とにかくにつけて、 ○ 数ならぬ|うき 身のほど ぞ|悲しき 。 物の数でない|いやな自分の身のほどが!|悲しいことだ。 第五歌 ○ 三五 夜中の| 新 月 |くまなき ぞ|おもしろき。 八月十五日の夜 の|今出たばかりの満月は、一点の陰もなく皓皓と地上を照らして!|風情がある。 ○千里(ちさと)のほかの | 人までも、さぞや| |眺め明かさ む。 千里 も離れた所にいる|友人までも、きっと|私と同じようにこの月を|眺め明かしているだろう。 第六歌 ○深更 に月 さえて、 車の音の聞こゆる は、 |五条あたりのあばらやの 、 夜更けに月が冴えて、牛車の音が聞こえるのは、あれは源氏の君が|五条あたりのあばら家の集まった一角の、 ○夕顔を しるべに 。 夕顔の垣根を道しるべに、その宿の女君を訪ねる牛車なのだなあ。 【背景】 須磨 ○月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけりと思(おぼ)し出でて、殿上の御遊び恋しく、所々眺めたまふらむかしと思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。「二千里の外(ほか)の故人の心」と誦(ず)じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧やへだつる」とのたまはせしほど言はむ方なく恋しく、をりをりのこと思ひ出でたまふに、よよと泣かれたまふ。「夜更けはべりぬ」と聞こゆれど、なほ入りたまはず。 ○見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ月の都は遥かなれども (源氏物語・須磨・光源氏二十六歳の秋) 明石 ○月の明かりける頃、明石にまかりて月を見てのぼりたちけるに、都の人々月はいかがなど尋ねけるを聞きて詠める ○有明の月も| |明石の|浦風に |波ばかりこそ|よる| と|見え|しか| | 夜 | |明し |という地名に加えて 有明の月も|夜とは思えないほど|明るい| |明石の|浦風に吹かれて|波だけ が|寄せてくると|見え| た |ことだ。 (金葉集・巻第三・秋・216・平忠盛) 更科の月 ○わが心なぐさめかねつ更科やをばすて山にてる月を見て(古今集・巻第十七・雑上・878・読人知らず) 春に寄せし心も 第二歌は、『源氏物語・野分の巻』(源氏三十六歳の秋八月)の冒頭に次のような一節があるのに拠ったものである。 ○中宮の御前に、秋の花を植ゑさせたまへること、常の年よりも見どころ多く、色種(いろくさ)を尽くし、よしある黒木、赤木の籬を結ひまぜつつ、同じき花の枝ざし、姿、朝夕露の光も世の常ならず、玉かとかかやきて、造りわたせる野辺の色を見るに、はた春の山も忘られて、涼しうおもしろく、心もあくがるるやうなり。春秋のあらそひに、昔より秋に心寄する人は数まさりけるを、名だたる春の御前の花園に心寄せし人々、また引き返し移ろふ気色世のありさまに似たり。 きりぎりす ○きりぎりす | いたく|な鳴きそ |秋の夜の| 長き| 思ひは我 ぞ|まされる きりぎりすよ、そんなにひどく|鳴いてくれるな、秋の夜は| 長い| |その長い|物思いは私の方が!|まさっているのだ。 (古今集・巻第四・秋上・196・藤原忠房) 三五夜中の新月の色 ○八月十五夜禁中独直、対月懐元九 八月十五夜、禁中に独り 直し、月に対して元九を懐(おも)ふ 八月十五夜に宮中で独り宿直し、月を眺めて元九を想いやる。 白居易 ○銀台金闕夕沈沈 銀 台 |金 闕 (きんけつ)、 夕べ | 沈 沈 (ちんちん) 銀で飾られた建物、金で飾られた城門 、宮中に夕暮が|だんだんと深まってゆく。 ○独宿相思在翰林 独り宿 し | 相い|思うて |翰林(かんりん)に|在り 私は独り宿直をして|君の事を |思いながら、 |秘書室 に|いる。 ○三五夜中新月色 三五夜 中の| 新 月の色 十五夜の宵の|今出たばかりの月の色が鮮やかである。 ○二千里外故人心 二(じ)千里 外 の|故人の心 二 千里も離れた所にいる |親友の心を思いやる。 ○渚宮東面煙波冷 渚宮の東面は| 煙 波 |冷ややかにして 元九君のいる江陵の渚宮の東側は|水面に煙る波がこの同じ月の下に|冷たく光っているだろう。 ○浴殿西頭鐘漏深 浴 殿の|西頭 は|鐘 | 漏 |深し 私のいる長安の禁中の浴堂殿の|西側からは|鐘や|水時計の音が|深い夜の中に聞こえてくる。 ○猶恐清光不同見 猶ほ| 恐る | 清 光 | 同じく |見ざらんこと を それでもなお|私は心配だ、この清らかな月の光を|君は私と同じ様に|見ていないのではないか。 ○江陵卑湿足秋陰 江陵は| 卑 |湿 にして |秋 陰 |足る 江陵は|土地が低く、じめじめしていて|秋の曇った日が|多いそうだから。 深更に月さえて 源氏物語夕顔の巻で、光源氏が夕顔の宿の女と知り合ったのは夏だったが、女と死別したのはそのわずか三カ月後、秋八月十六日の深夜のことだった。その前日の明け方の源氏と女の様子が次のように描かれている。 ○八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋残りなく漏り来て、見ならひたまはぬ住まひのさまもめづらしきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々あやしき賤(しづ)の男(を)の声々、目覚まして、「あはれ、いと寒しや」、「今年こそなりはひにも頼むところ少なく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」など言ひかはすも聞こゆ。いとあはれなるおのがじしの営みに、起き出でてそそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。艶だち気色ばまむ人は、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきもうきもかたはらいたきことも思ひ入れたるさまならで、わがもてなしありさまは、いとあてはかに児めかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなることとも聞き知りたるさまならねば、なかなか恥ぢかかやかんよりは罪ゆるされてぞ見えける。 |
作詞:不詳 作曲:八橋検校 【語注】 須磨・明石⇒背景 更科の月⇒背景 春に寄せし心も⇒背景 きりぎりす 今のこおろぎのこと。⇒背景 三五夜 三×五で、十五夜のこと。二十歳を十三、七つなどと言うのと同じ言葉の遊び。 三五夜中の新月⇒背景 深更に月さえて⇒背景 中宮の御前 秋好中宮(六条御息所と前坊の間の遺児)の住む秋の町。 色種 (秋の花の)種類。 黒木、赤木 皮の付いた木と、皮を剥いだ木。 籬 丈の低い目の粗い垣根。庭園用。 朝夕露 朝露夕露。⇒背景。植ゑたてて君がしめゆふ花なれば玉と見えてや露も置くらむ(後撰集・秋中・伊勢) 野辺 中宮方の庭のことを言う歌語。 春の御前 紫の上の御前の庭。この同じ年の春、花の宴が催され、その美しさに人々は心から感動した。 元九 白楽天の親友だったが、告げ口により左遷されて、今は江陵にいる。 銀台 宮殿の門の名。また、翰林院のこと。 金闕 「闕」は宮殿の門。日本の羅城門をもっと大きくしたような城門。 翰林 翰林院のこと。唐の玄宗が738年に設けた翰林学士院がその起源で、翰(ふで)の林の役所の意味。唐中期以降、主に詔書の起草、図書の編さん、天子への進講に当たった。 渚宮(しょきゅう) 戦国時代の楚の国の王が池のほとりに作った宮殿で、江陵にある。 江陵 中国湖北省荊州市江陵県。揚子江の流域で、洞庭湖にも近い。 |