七福神

【解題】

 東京の日本橋小網町のさる大商人が隠居所を新築した時、ご隠居自作の歌詞に曲付けを初代中能島松声に依頼した。松声は、歌詞の内容を生かし、山田流箏曲と富本豊前(ぶぜん)の掛け合いとして作曲し、華やかでスケールの大きい曲に仕上げた。前半はこの家の祝賀の宴会を神々のうたげと重ね合わせ、七福神を一人一人登場させてその神徳を称えている。後半は日本橋周辺の地名を織り込んで、当時日本一の繁栄を謳歌した町の華やかな様子を歌い、併せて、この家の末代までの繁盛を祝福している。

【解析】

○八雲立つ、出雲     |八重    垣    神   遊び   、天(あま)の逆矛 手にとりあげて
 八雲立つ|出雲の国を囲む|幾重もの雲の垣根の中、神々のご宴会である。天    の逆矛を手にかざし て、

○四方をきっと|見ひらく    は、これ ぞ |悪魔を|毘沙門天      |  と、威勢を張って
 四方をきっと|睨み付けているのは、 我 こそ|悪魔を|ビシャリと踏みつぶす|
                          |毘沙門天      |だぞと、威勢を張って

○座し|給ふ    。  そばに並びし福禄寿 、長きかしらを|振り立てて、福はこちらへ| 禄 はまた、
   |お     |
 座り|になっている。そのそばに並んだ福禄寿は、長い 頭 を|振り立てて、福はこちらへ、給金はまた|

○       御腹(おはら)のうちへ|たっぷりと   、 寿を 万歳(まんざい)に|千代、八千代  、
 私のこの大きなお腹     の 中 に|たっぷりと貯めて、長寿は一万歳      に、千代に八千代にと、

○団扇を上げて|招き けり。
 団扇を上げて|招いていた。

○やよ|待ち|たまへ、我こそは、混沌 |      | 未    |分   |   の初めより、
 やあ、  | お |
   |待ち|なさい、我こそは、混沌が|天地・陰陽に|まだ   |分かれて|
                          |いなかった|    |この世の初めから、

○何くれとなく|骨 折りて、億万歳を|経たれ ば こそ、今では楽な隠居  株 、
 何くれとなく|骨を折って、億万年を|経た からこそ、今では楽な隠居の立場、

○これ ぞまことの|寿老人   。布袋  は|   腹を|抱へつつ 、高らかにこそ笑ひ|けれ。
 これが 本当 の|寿老人である。布袋和尚は|大きな腹を|抱えながら、高らかに ! 笑っ| た 。

○かかる   所へ|恵比寿三郎 、漁の獲物の生鯛(いけだひ)を|小脇に抱へて|入り|給ふ  。
 こうしている所へ、恵比寿三郎が、漁の獲物の生鯛      を|小脇に抱えて|  |お   |
                                      |入り|になった。

○大黒天 には|息せきと  、小槌 振り振り|米俵   、    御初穂なりと|ささげ つつ  、
 大黒天様 は|息せき切って、小槌を振り振り|米俵に乗り、その米を御初穂ですと|捧げもっていると、

○  後に続いて|弁財天女 、秘蔵の琵琶を|手に持ちて、静々 入り くる|折こそよけれ|       。
 その後に続いて|弁財天女が、秘蔵の琵琶を|手に持って、静々と入ってきて|折 ! よく |七福神が揃った。

○まことに今日は|神   遊び   。粋  も不粋  も、世の中の    |縁を結ぶ    の御酒盛り、
 まことに今日は|神々のご宴会である。粋な人も不粋な人も、世の中の人同士が|縁を結ぶ機会となる御酒盛り、

○酒はさんきう       |松の尾で、 宝の   舟は朝夕に、入り 来る|福は|  小網町、
 酒は 三 久 から取り寄せた|松の尾で、お宝を積んだ舟は朝夕に|入って来て、福も|
                               |入って来る|  |のは小網町、

○その   川 通り |名も高き     、           |きほひ は魚河岸|     四日市、
 その日本橋川の通りは|名 高い日本の中心、商人も魚も生きのよさを| 競 うのは魚河岸、その対岸は四日市、

○      いさむ新場や|茅場町   、鎧の渡し |兜岩      。花の| 江戸橋| 横に見て、
 新興の意気に燃える新場や|茅場町の商人、鎧の渡しと|兜岩の旧跡もある。花の|お江戸の|
                                      | 江戸橋|を横に見て、

○ちょっと小舟   |で      |米河岸の、運は|よし町 |     小上がりも心うれしき|団扇河岸、
     小舟町から|
 ちょっと小舟   |で渡れる対岸の|米河岸 、運は|よくなる|
                          |よし町 |の料理屋の小上がりも気分よい |団扇河岸、

○新  材木の  屋  造り    に|鶴と亀との杯を、すこん|参れ   ば、八百万(やほよろづ)、
 新しい材木で隠居所を新築したお祝いに|鶴と亀との杯を、数 献 |差し上げれば、八百万      の|

○み神 も|ひとしほ機嫌よく   、鈴を振り振り|拍子を揃え、舞を舞い舞い|調子を揃え、
  神々も|ひとしお機嫌よくなられ、鈴を振り振り|拍子を揃え、舞を舞い舞い、調子を揃え、

○手を打ち  締め ます|腹鼓    。その音も冴えて|この家のうち 、幾代変はらぬ繁盛は    、
  《打ち》《締め》   《鼓》
 手を打って 締め ます、腹鼓も打って。その音も冴えて|この家の 中 の、幾代変わらぬ繁盛が続くのは、

○げに|神国の福の種    、目出度く祝ひ納め けり 、目出度く祝ひ納めけり。
 誠に|神国の福の種の御蔭と、目出度く祝い納めたことだ。

【背景】

 七福神信仰

 七福神は室町時代の末期頃、農民や漁民の民間信仰として成立した。七福は「仁王経」の七難七福という言葉が語源と言われ、七つの福徳をそれぞれの神に配している。大黒天、毘沙門天、弁才天は仏教、寿老人、福禄寿、布袋は中国の道教、恵比寿神は日本の神道に由来するとされる。
 七福神信仰は、天下泰平が続いた江戸時代には非常に盛んになり、江戸中期には七福神を祀る神社仏閣が多く建てられるようになった。また、江戸末期には、日本各地に「ご当地七福神」などが定められ、七福神詣でが広く行われるようになった。また、宝船に乗った七福神の絵や神像の陶器や彫刻などが、商売繁盛の縁起物としても尊ばれるようになった。

 毘沙門天

 多聞天とも呼ばれる。本来は憤怒の形相で甲冑を着けた武将の姿で表される。右手に宝棒、または鉾、宝剣など、また左手に宝塔を持つ。右手の鉾は悪霊を退散させ、左手の宝塔は一切経の宝蔵を示し、無量の智慧を授ける。仏教守護・智慧・開運福徳・出世の功徳があるとされる。

 福禄寿

 長い頭が特徴で千五百才の寿命を持つ鹿を伴う像がある。宝珠や長寿の象徴桃を持つ像もある。長寿・富貴繁栄の功徳がある。

 寿老人

 中国道教の仙人で、
南極老人星の化現。白髭で杖か軍配を持つ。福禄寿と異名同神。長寿・諸病平癒・富貴繁栄の神とされる。

 布袋和尚

 七福神の一神であるが、仏教の僧侶でもある。弥勒菩薩の化身といわれ、中国唐末の明州(浙江省)に実在したと言われる禅僧。肥満体で生涯定住せず、子供と戯れたと言う。肩に掛けた大きい袋を堪忍袋と言い、寛容で度量の大きいことを表す。人格形成・富貴繁栄の功徳がある。

 恵比寿三郎

 古事記に書かれている蛭子命(ひるこのみこと)。伊弉諾(イザナギ)・伊弉冊(イザナミ)二神の第一子が天照大御神(あまてらすおおみかみ)、第二子が月讀尊(つきよみのみこと)であり、恵比寿は第三子なので、三郎と言う。風折烏帽子をかぶり、狩衣に指貫という日本風の服装をしている。右手に釣り竿、左手に大きな鯛を持つ。水と縁があって、海上交通安全、漁業、水商売守護。流動的サービス業守護、貿易、商売繁盛を約束する神。

 大黒天

 頭に大黒頭巾をかぶり、右手に小槌、左手に大きい袋を持ち肩に背負っている。米俵に乗るのが一般的。金運良好・資産増加・開運出世・家内安全・子孫繁栄等代表的福の神。本来は仏法守護のインドの神だが、日本の大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合され、同一神と思われている。

 弁財天

 唐服を着て左手に琵琶を持ち右手に持った撥(ばち)で弾く。容姿端麗で二臂像、八臂像の他、鎌倉の江ノ島弁天のような裸体像もある。 芸術・芸能・文学・弁舌・学問の才能と幸運授与、金銀財宝授与を約束する。

 
         七福神を乗せた宝船

 八雲立つ出雲八重垣

 乱暴な振る舞いのために高天原を追われた須佐之男命が、出雲の国の肥の河(現在の斐伊川と言われる)の河上に降り、八俣の大蛇を退治して櫛名田比賣(くしなだひめ)を助け、妻とした。そして比賣を伴って須賀(島根県雲南市大東町須賀)の地に宮を建てた。その時に詠んだのが次の歌である。

○八  雲 立つ     出雲   |八重  垣
 沢山の雲が立ち上ってこの出雲の国に|幾重もの垣根を作り、私達を囲んでくれる。

○妻      籠(ご)み  に|八重垣 作る    |   その八重垣を
 妻と私を一緒に籠もらせるために|八重垣を作ってくれる、ああ、その八重垣よ。(古事記・上巻・須佐之男命)

 天の逆矛

 毘沙門が持っているのは槍(宝棒)であって、天の逆矛ではない。
 ちなみに、「天の逆矛」という言葉は播磨風土記逸文に一例あるだけで、意味ははっきりしないが、降魔の呪術として矛を逆さに立てる風習があったらしい。また、古事記上巻に「天の沼矛」の記事があり、これが後世「天の逆矛」と解釈されるようになったことは事実である。

○ここに|天つ神 諸 (もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命 二柱の神に、
 そこで、天の神一同      がお言葉  によって、伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神に、

○「是のただよへる国を修めつくり|固め  成せ 」と詔りて、天の沼矛を賜ひ て、言依(よ)さし賜ひ き。
 「この漂っている国を修理して 、固めて完成せよ」と仰って、天の沼矛を下さって、ご委任    なさった。

○かれ 、二柱の神 、天の浮橋に 立た し て、その沼矛を|  指し下ろして|かきたまへ ば、
 そこで、二柱の神は、天の浮橋にお立ちになって、その沼矛を|下に差し出し て、掻き回されると、

○塩  |こをろこをろにかきなし て|引き上げたまふ 時、その矛の先よりしたたり落つる|塩  、
 海水を|こ ろこ ろと掻き鳴らして|引き上げなさった時、その矛の先から滴  り落ちる|海水が、

○かさなり積もりて島となりき。これ おのごろ島 な り。その島に天(あま)くだり|まし て、
  重 なり積ってり島となった。これがおのごろ島である。その島に お   降り |になって、

○天の御柱を見   立て、八尋(やひろ)殿を見    立て|たまひ|き。
 天の御柱を見定めて立て、大きな   御殿を見定めてお建て|になっ|た。(伊邪那岐命と伊邪那美命

 混沌未分の初め

○臣安萬侶言(まを)す。夫(そ)れ、混元既に凝(こ)りて、気象未だ効(あら)はれず。名も無く為(わざ)も無し。誰れか其の形を知らむ。然れども、乾坤初めて分れて、参神造化の首(はじめ)と作(な)り、陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品の祖(おや)と為(な)りき。(古事記・序・冒頭)

○古(いにしへ)に|天 地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽 分れず、   |混沌にして
 昔       、天と地     がまだ分    れず、陰陽も分れず、世界が|混沌として、まるで|

○鶏 子(とりのこ)の如く 、溟A(めいけい) にして |       牙(きざし)を|含め り 。
 鶏の卵      のようで、ほの暗く見分けにくいけれど、物事が生まれる兆     を|含んでいた。

                                 (日本書紀・巻第一・神代上・冒頭)

 宝の舟 

 諸国の産物を載せて日本橋川に入って来る荷揚げ舟を七福神が乗った宝船に喩えた。当時の物資の輸送は水運が主で、諸国の回船が隅田川の河口の鉄砲洲沖に停泊し、小型の高瀬舟に荷を積み替えて川を遡って市中に運び込んだ。江戸が急激に消費地として発達したため、江戸周辺の産物だけでは生活物資の供給が間に合わなかった。特に高級品は上方(京都・大阪)からのものが「下りもの」と呼ばれて珍重され、江戸周辺で作られる粗悪なものは「下らぬもの」と呼ばれたと言う。

 その川

 日本橋川のこと。日本橋川は水道橋(白山通り)の上流で神田川(三鷹市の井の頭池を源とし、御茶ノ水、神田の北を流れ、両国橋の北側で隅田川に注ぐ全長25.48kmの川)から分派し、九段、一ツ橋、神田、日本橋、小舟町、兜町、茅場町、小網町、箱崎町を流れ、永代橋の北側で隅田川と合流する延長約4.8キロメートルの都市河川で、江戸の水陸の物流の中心地帯を形成した。その川の名となっている日本橋は、慶長八(1603)年、江戸が幕府の所在となったとき、城郭の建築とともに、付近の湿地帯を埋めて堀や運河に整備する大規模な土木工事が行われ、架けられた橋である。また幕府は、このお江戸日本橋を諸街道の里程の元標として一里ごとに一里塚を築き、全国の街道を整備した。

 小網町

 鎧の渡し(現在は鎧橋が掛かっている)の北詰から、小網神社を中心に日本橋川の北岸に張り付くように位置している町。名称の由来はよく分からないが、その名が示すように、川や入江、水運と深い関連をもっていた。末広河岸、西方河岸、貝杓子店、鎧河岸、行徳河岸などの地名があった。また、人々の交通も盛んで大きな商家が立ち並んでいた。

 魚河岸

 日本橋川の日本橋から江戸橋にかけての北岸は魚市場が並び、ここに房総や相模の浦々から鮮魚を積んだ船が集まり、魚河岸として賑わった。関東大震災後、魚市場が築地に移るまで、江戸・東京の魚河岸といえば日本橋であった。

 四日市 

 日本橋川の南岸、魚河岸の対岸一帯の地名。地名は、江戸開府のずっと以前から、ここで四の付く日に市が開かれたことに由来するらしい。江戸開府後は、四日市蔵地などと呼ばれ、河岸に沿って白壁の蔵が立ち並んでいた。現在の江戸橋の南詰めにある日本橋郵便局の記念碑によると、明治4年、郵政省の前身である『駅逓司』と最初の郵便局である『四日市郵便役所』がここに建てられたとある。

 新場

 江戸橋のすぐ下流から南に入る堀割りがあり、楓川と言った。現在は埋め立てられ、首都高速道路が走っている。この川の西岸一帯を本材木町と言い、江戸中期にここに新しい魚の市場が出来たので、ここを新場、または新肴場と呼んだ。この新しい魚市場を作る中心となって動いたのは、相模・三浦近辺の漁師達で、旧魚河岸で、江戸前や房総の魚より鮮度が落ちるとしてとして差別されていたのに反発して、新しい魚市場の創設を幕府に願い出て許可されたものである。その背後には本材木町の旦那衆の経済的援助があったと言われる。新場の漁師たちは、旧来の魚河岸を「古場」、自分たちの魚市場を「新場」と呼んで意気盛んだった。「いさむ新場」という歌詞も、そういう事情が反映しているのだろう。現在、埋め立てた楓川の上を走る高速道路を渡るための橋として「新場橋」が名残を留めているが、明治期までは現在の位置より少し北側にあり、「中の橋」「楓橋」の別称があった。

 茅場町

 鎧橋から下流の霊岸橋までの川岸を茅場河岸と呼び、下り酒の酒造問屋、酒蔵が並んでいた。古くは茅職人がいて町名の由来となったともいうが、江戸末期ごろには傘がつくられ付近の門前市で売られたようだ。『江戸名所図会』の『永田馬場山王御旅所・茅場町薬師堂』の画中に、「此辺傘屋多し」とあり何軒かの傘屋が描かれている。組屋敷(与力・同心などに与えられた屋敷)に近かったためか、幕末期の八丁堀細見絵図には大番屋(番人の詰め所)も見受けられる。

 鎧の渡し

 江戸橋の200メートルほど下流に、現在鎧橋が小網町と兜町を結んでいるが、橋が架けられたのは明治5年で、それ以前は鎧の渡しと言って、渡し舟が行き来していた。平安時代、源義家がここから舟で下総の国に向かおうとしたが、風雨が強く舟が出せなかったので、自分の着ていた鎧を脱いで神に祈ったところ、風波が収まり、無事に下総に着いたという伝説がある。

 兜岩

 兜町の東京証券取引所の斜め向かいに兜神社という神社があり、境内には兜岩なる石がある。これについては以下の三つの伝承が伝えられている。。

1.源義家が奥州の安倍氏の反乱を抑えて凱旋する際に、東国の反乱鎮定のため兜を楓川のほとりに埋めて塚を築いた。
2.前九年の役の頃、源義家が東征する際に、兜をこの岩にかけて戦勝を祈願した。
3.藤原秀郷(俵藤太)が将門の首を打ち兜と共に持って来たが、ここに兜を埋めて塚を築いた。

 小舟

 小舟町の名を掛けている。小舟町は西堀留川の東岸一帯に南北に細長く伸びていて、米河岸の対岸にあたる。江戸時代の中心的な河岸であり、荷揚げ場として盛んで、船積み問屋が集まり、中でも鰹節や塩干肴問屋が多く、別名「鰹河岸」とも呼ばれていた。西堀留川は現在は埋め立てられ、その上を首都高速道路が走っている。現在の正式の読み方は「こぶなちょう」。

 米河岸

 江戸橋の北詰から西堀留川の西岸の伊勢町河岸一帯は、米河岸と呼ばれ、諸国から廻船で運ばれた米が荷揚げされる船着場が川岸を埋め尽くすように設けられ、それに沿って米蔵が立ち並んでいた。また、西堀留川は現在の堀留で西に折れ、その南北両岸は塩河岸と呼ばれた。

 よし町

 葭町。現在の人形町のあたりで、1618年に遊郭が開業した。これが元吉原で、1657年に新吉原(千束)に移転した後も、花柳街があった。現在でも、大門通りの名が残っている。

 団扇河岸

 日本橋堀江町は東堀留川の西岸に南北に延び、団扇や千代紙、紙製品の問屋が多く、「団扇河岸」ともいわれていた。団扇は、当時は、呉服屋とタイアップして、流行らせたい着物の柄を団扇にして庶民に配るなど、宣伝媒体として使われた。東堀留川は現在は埋め立てられてなくなっている。

 新材木

 新材木町の名を掛けている。東堀留川の東岸、現在、
椙森神社があるあたりを、昔は新材木町と言った。

 すこん

 数献。客を酒食でもてなす時、杯・銚子・肴を膳に載せて出し、酒三杯を勧めてから膳を下げるのを一献と数えた。徒然草第二百十六段に次の記事がある。これは、当時新興の勢力であった関東武士たちの、虚飾や形式に捉われない質素で実質的な生活態度に、兼好法師が着目していたことを示す話である。

○最明寺 入道 、鶴岡   の社参のついでに、足利左馬入道  の許へ、先づ使ひを遣はして  、
 最明寺の入道が、鶴岡八幡宮に参拝した時 に、足利左馬入道義氏の所へ、先に使いを送っ てから、

○立ち入られたりける に 、      |あるじまうけ|られ たりける|やう 、一献に打ち鮑、二献に海老、
 立ち寄られた  のだが、義氏が時頼を|接待    |なさった   |内容は、一献にのし鮑、二献に海老、

○三献にかいもちひ  にて止み  ぬ   。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正   、主   方の人に て
 三献にぼたもち だけ で 終わってしまった。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正だけが、接待する側の人として

○座せられ  けり。さ     て、   「年毎に給はる  足利の染物 、心もとなく候ふ  」と
 陪席なさっていた。食事が終わって、時頼が「毎年 戴いている足利の染物が|待ち遠しいですなあ」と

○   申されけれ ば 、「用意し 候ふ   」と  て、色々  の染物 三十 、       前にて、
 義氏に申し上げたところ、「用意してございます」と言って、様々な色の染物を三十反、時頼が見ている前 で 、

○女房どもに   |小袖に調ぜ させて、      後に| 遣はさ れ   けり  。
 侍女たちに命じて|小袖に仕立てさせて、時頼が帰った後で、お届け になったという話だ。

○    |その時見たる人の、近くまで|侍り    し が、語り侍りし   なり 。
 この話は、その時見た 人で、最近まで|生きていました人が、語りましたことである。

作詞:不詳
作曲:初代中能島松声(明治27年1月2日、57歳で没)




【語注】


八雲立つ 出雲に掛かる枕詞。
天の逆矛⇒背景















混沌未分の初め⇒背景














大黒天には 「には」は尊敬表現。







さんきう 三河屋久兵衛など、酒屋の屋号だろう。
松の尾 酒の銘柄だろう。
宝の舟⇒背景
小網町⇒背景
その川⇒背景
魚河岸⇒背景
四日市⇒背景
新場⇒背景
茅場町⇒背景
鎧の渡し⇒背景
兜岩⇒背景
小舟⇒背景
米河岸⇒背景
よし町⇒背景
小上がり 小料理屋などで客が気軽に上がれるように、簡単に土間と仕切られた座敷。
団扇河岸⇒背景
新材木⇒背景
すこん⇒背景
手を打ち締めます 祝賀や成功祈願のため、一同がシャンシャンと拍子を揃えて手を打ち、掛け声を掛けること。
打ち締めは縁語。



























南極老人星 西洋名をカノープスと言う。竜骨座の首星で、大犬座のシリウスに次いで全天で2番目に明るい恒星だが、日本や中国の主要部からは南の水平線上すれすれにしか見えない。めったに見られないので、これを見た人は長生きするという伝説がある。南極星・老人星などの名もある。























































天つ神 天地開闢の時、初めに生まれた五柱の神。










おのごろ島 
自凝島の意で、ひとりでに固まって出来た島。どこの島かは不明。





混元 原初の混沌の気配。
参神 三柱の神。天之御中主神、高御産巣日神、神御巣日神。
二霊 伊邪那岐命と伊邪那美命。





































































































椙森神社 椙森稲荷。日本橋掘留町1-10-2






最明寺入道 北条時頼。鎌倉幕府五代目の執権。出家して伊豆の最明寺に住んだ。
足利左馬入道 足利義氏。幕府の高官。




足利の染物 栃木県足利市は昔から絹織物の名産地だった。義氏が、自領の名産物を執権に献上していたのである。


               江戸時代後期の日本橋周辺の地図(赤字は現在の地名、建物)



                                米河岸の風景



 画像の中央から左よりに「米河岸」、右端に「塩河岸」、左端の橋に「中の橋」、右側の橋に「道じやう橋」(道場橋)の表記がある。中央の川が西堀留川、米河岸の手前側の対岸が小舟町の河岸である。

                                鎧の渡し



 手前が西岸の兜町、蔵が立ち並ぶ対岸が東岸の小網町。

                                  目次へ