子(ね)の日の遊

【解題】

 正月の初音の日に野に出て、小松を根ごと引き抜いてきて庭に植え、御代を祝う行事は、既に平安時代の文献に書かれている。松竹梅を吉兆とする習慣は中国に始まり、日本では近世以降に一般に広まった。この曲は短い歌詞の中に新年の喜びと目出度い動植物を配し、また未来への祈願をこめている。手事も短いながら格調が高く、山田流の代表的な祝儀曲として、よく演奏される。

【解析】

○初春の、初子  の野辺に|皆人の、いざ      とし言へば |諸共に|我も| 雪 間 の小松 原 、
                                             《松》

 初春の、初子の日の野辺に、皆 が、さあ行きましょうと!誘うので、一緒に、私も|行きます       |
                                       | 雪 間 の小松の原へ、

○  二葉に|千代          を|ひき添へて、まとゐしつつも盃に、汲むや霞のそなたなる|
                    《引き》

 松の二葉に|千年の長寿にあやかる願いを|  添えて、団欒しながら 盃に|汲む!酒      、
                                       |霞の向こう の |

○岡辺の梅も|新しき、年の|栄えを見せ  がほに|花のひもとき |をちかたの   、ひとむら 竹に|
 岡辺の梅も、新しい|年の|繁栄を約束するように|花をほころばせ、遠く  に見える| 一 叢 の竹に|

○鶯の|もも 喜びは今日より   と、  声 |立て初め |つ。のどかなる|   御 代の春と  て|
 鶯が、沢山の喜びは今日から始まると、鳴き声を|  初めて|
                       |上げ   |た。 長閑 な |大君の御治世の春を祝って、

○老い ぬる も、若き も|ともに|かく   しつつ、心ゆく  野を|とふ    が|嬉しさ
 年取った 人も、若い人も|ともに|このようにし て 、心ゆくまで野を|訪問して遊ぶ |嬉しさであることよ。

【背景】

 子の日

○今日は子の日なり けり 。げに  |千年の春を|かけて|   |祝はむ に|ことわりなる日 な り。
 今日は子の日なのであった。なるほど|千年の春を|託して|長寿を|祝う のに|ふさわしい 日である。

○   姫君の御方に渡りたまへれば、女童(めのわらは)、下仕へ  など 、御 前の 山の|小松 引き |
 源氏が玉鬘の御方にお越しになると、女童       や下仕えの女などが、お庭先の築山の|小松を引いて|

○遊ぶ   。若き人 びとの心地ども、            |おきどころ   なく|見ゆ   。

 遊んでいる。若い女房たちの気持ちも、自分たちも引いてみたくて、じっとしていられない|ようである。

                            (源氏物語・初音)

○子の日に、男のもとより「今日は小松 引きになん|まかり|出づる」と|言へりけれ ば 、
            「今日は小松を引きに ! |   |出かけ|
                        |ます |   」と|言ってきたので、

       ┌────────────────┐
○君  のみ|や |野辺に小松を引きに行く   |我も      |かたみに|摘ま   む|若菜を
                        ↓         
| 筐  |
 あなただけ| が|野辺に小松を引きに行くのですか。私も一緒に行って、お互いに|
                                  |竹の籠に|摘みましょう、若菜を。

                                (後撰集・巻第一・春上・7・読人知らず)

○          宇多院に|子の日    せ むと     ありければ、式部卿の親王を誘ふ と て、
 父宇多天皇にゆかりの宇多院で|子の日の宴会をしようということになったので、式部卿の親王を誘おうとして、

○  ふるさと  の|野辺 |見に行くといふめる を |いざ|諸共に   |若菜 摘み| て |   む
 父にゆかりの場所の|野原を|見にゆくと言うようなので、さあ、一緒に行って|     |ぜひ|
                                     |若菜を摘み|  |ましょう。

                                (後撰集・巻第一・春上・10・
行明親王

 村田春海(はるみ)

 延享3年(1746)〜文化8年(1811)2月13日。江戸の人。先祖は伊勢国白子。通称平四郎、治平衛。号、錦織斎、琴後翁。干鰯(ホシカ・肥料)問屋を営むが遊びが過ぎて倒産する。服部仲英に詩文を習い、また、父春道、兄春郷と共に賀茂真淵門に入り、和歌や国語学を学ぶ。同じ真淵門人である加藤千蔭と宣長の資質が合うのに対し、春海とはどうもうまくあわなかったようだ。天明8年3月10日夜、鈴屋来訪。著書は『和学大概』、『歌かたり』、『琴後集』等。墓は深川本誓寺にある。

作詞:村田春海
作曲:二世山木太賀





【語注】


引きは縁語。




まとゐ 「まと」は円、「ゐ」は座ることで、つまり車座に座ること。団欒。
汲むや霞 酒を飲むことを「霞を汲む」と洒落て言った。














今日は子の日なりけり
 光源氏36歳の正月、源氏は冷泉帝の太政大臣。舞台は六条院。



















宇多院 宇多天皇。第59代天皇。醍醐天皇の父。
式部卿の 宇多天皇の皇子敦実親王(寛平五年 (893)〜 康保四年(967))。
ふるさと 古いなじみのある土地。
行明親王 宇多天皇の皇子(延長四年(925)〜天暦二年(948))。敦実親王の弟。

目次へ