御山獅子
【解題】 曲名の「御山」は、神路山、または伊勢神宮そのものを指す。伊勢神宮の神域を中心に、附近の名勝を読み込んで歌詞としたもの。「獅子」は獅子舞風な曲、いわゆる獅子物という意味で、派手で技巧的な手事を持っている。 近世以降、庶民の生活水準が上がると共に、旅行ブームのようなものが生まれたが、それらの旅は、由緒ある神社仏閣に参詣したり、神聖視される山に登るなどの名目で行われた。落語などにもある『大山参り』(箱根の大山阿夫利神社)、清水次郎長の浪曲の森の石松で有名な『金毘羅参り』(四国讃岐の金毘羅大権現)、『富士講』(富士登山)その他沢山あるが、『お伊勢参り』はそのもっとも代表的なもので、「お陰参り」「抜け参り」などとも言われた。この歌詞は、そういう社会現象を背景にして、伊勢神宮の内宮の神々しいたたずまいから説き起こし、近辺の名所旧跡、年中行事などを訪ねながら山を降りて、鳥羽の二見浦に至るまでの道中の景色を綴っている。二見浦近くの宇治山田港は、当時既にお伊勢参りの旅客や貨物を輸送する海運で栄えていた。 【解析】 ○神路山 、昔に変はらぬ杉の枝 、萱(かや)の御屋根に|五色の 玉も、光を照らす|朝日山、 神路山には、昔に変わらぬ杉の枝が繁り、萱葺き の御屋根に|五色の座玉も|光を照らし、朝日に| |光り輝く |朝日山、 ○清き 流れの五十鈴川、 御裳濯川の 干網の、 |宇治の里ぞと |見渡せば、 清らかな流れの五十鈴川、その御裳濯川の川岸に干網が|掛けてある辺りが|宇治の里だと思って|見渡すと、 ○頃は弥生の|賑はしき、 |門に笹 立て、鈴の音も 、獅子の舞 ぞと歌ひ つる。 時は弥生で、賑やかな季節に| |賑やかに飾った|門に笹を立て、鈴の音も鳴らして、獅子の舞ですぞと歌っている。 ○山を越したる| 小田の橋 、岩戸の山に|神楽を奏し、二見の浦の|朝景色 。 山を越えた |所に小田の橋があり、岩戸の山で|神楽を奏し、二見の浦の|朝景色を眺める。 ○ 岩 間 に|淀む 藻塩草 。 夫婦岩(めおといわ)の間の沖合の興玉神石の辺りに|淀む 藻塩草を刈り取り、 | 無垢塩草(むくしおくさ)のお守りを作る。 ○世義寺の夕景色 、野辺の蛍や美女の |遊び 、浮かれて|汲むや |盃の、 世義寺の夕景色を眺め、野辺の蛍や美女が伊勢音頭を|踊る姿を楽しみながら、浮かれて| |盃を |汲みつつ、 ○早や鳥羽 口に もみぢ葉を、染めて 楽しむ老い人の |朝熊山 の 早や鳥羽に着く。 鳥羽からの登り口に、紅葉の葉が 色づく景色を楽しむ老 人たちを眺めながらの登る|朝熊山の山頂の、 ○眺めも勝る 奥の院、晴れ渡りたる |富士の白雪 。 眺望も優れている奥の院、晴れ渡った 空に|富士の白雪が遠望される。 【背景】 神路山 ○物 言は | ば |神路の山の神 杉 に|過ぎ し|神代のこと| ぞ|問は| まし <スギ> <スギ> | もし | 物を言ってくれた|ならば、神路の山の神の杉 に|過ぎ去った|神代のこと|を!|尋ね|たいものだがなあ。 (本居宣長) ○神路山の杉の木にて作れる|しをりに| 。 神路山の杉の木 で 作った| 栞 に|書いた歌。 ○深くとも| | 奥 も|踏み み む 深くても、 | 山 の奥 までも|踏み入ってみよう、 |古代人の心を研究する|国学の奥義までも|踏み入ってみよう、 ○神路山 杉の|しづ枝を| |し をり |にはして 神路山の杉の| 下 枝を| |枝を折った道しるべ|に!して |古代の書に挟む| 栞 |に!して (本居宣長) 神路山は二十年に一度行われる遷宮祭(お宮を建て替えること)の用材を育てる山でもある。 萱の御屋根 伊勢神宮内宮は天照大神を祭り、外宮は豊受大神(とようけのおおみかみ・天照大神の食事を司る神とされる)を祭る。内宮・外宮の正殿の建築様式は「唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)」と言い、出雲大社の「大社造り」に次いで古い形を残している。柱はすべて掘っ立て式丸木で土台がなく、屋根は萱葺きで、切妻屋根の下の横の方向から出入りする。これを平入り造りと言う。棟上に十本の堅魚木(かつおぎ)を置き、屋根の上にV字型に千木(ちぎ)を出している。 五色の玉 青・黄・赤・白・黒の五色の座玉(すえだま)のことで、正殿の高欄上に据え付けられた玉型の飾り。 五十鈴川 神宮内宮の西の周縁を流れる川。伊勢神宮の清浄と永続を象徴する清らかな川であり、参拝者たちが手を清める御手洗(みたらい)の川でもある。 ○ 君が 代は 久しかる | べし |わたらひや|五十鈴の川の| わが君の御代は、末永く続く|に違いない。 渡 会 の|五十鈴の川の| ○流れ |絶え |せ| で| 流れがいつまでも|絶えは|し|ないで|いるように。 (新古今集・巻第七・賀・730・大江匡房) 御裳濯川 垂仁天皇の御世、倭姫命が天照大神の神託によってその鎮座地を求め、この地に斎宮(いわいのみや)を定めた時、五十鈴川で裳裾の汚れを濯いだという伝承から、五十鈴川の別名となった。 ○ 君が 代は 尽き | じ |とぞ思ふ|神風や|御裳濯川の澄ま |ん|かぎりは わが君の御代は、尽きることが|ないだろう|と!思う。 |御裳濯川が澄んでいる| |かぎりは。 (後拾遺集・巻第七・賀・450・源経信) 小田の橋 内宮を出て五十鈴川を渡り、北に歩くと上り坂になり、古市の町に出る。ここは江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町、長崎の丸山と並ぶ五大遊郭の一つといわれ、伊勢参詣の人々で賑わった。山を越えると勢田川に出る。小田橋は勢田川に架かる橋。 岩戸の山 夫婦岩を目の前に見て祀っている二見輿玉神社の表参道の右手にある洞窟。神代の昔、天の岩戸の中に隠れた天照大神を呼び出すため、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が踊りを踊ったことが偲ばれる。 藻塩草 二見浦の夫婦岩の沖合い700m先の海中に沈む岩礁を、興玉神社が猿田彦大神ゆかりの神体として祀っており、興玉神石と言う。その近辺の海中から霊草・無垢塩草(むくしおくさ)を刈り取り、穢れを払うお守りを作る神事が、毎年 5月21日、神職によって行われる。 世義寺 近鉄鳥羽線の宇治山田駅から約1km南にある。天平年間(729−749)に聖武天皇の勅願により行基が開いたとされる真言宗の名刹。 美女の遊び 伊勢参宮をした人々によって、この地方で唄われていた木遣唄、祝儀唄、道中唄、盆踊り唄、座敷唄等が各地に持ちこまれ、伊勢の地名をつけて、「伊勢音頭」と呼ぶようになった。「美女の遊び」はその踊りを指す。 奥の院 朝熊山の山頂近くにある金剛証寺の中の建物。神宮の内宮の奥の院とも言われる。『伊勢を参らば朝熊かけよ、朝熊かけねば片参り』と伊勢音頭に唄われているように、昔は伊勢に参拝した後には必ず立ち寄る寺だったという。 富士の白雪 朝熊山は標高555mで、十八カ国が見えると言われるほど見晴らしがよく、大気が透明な日には、伊良湖水道を隔てた渥美半島の彼方に、150km ほども離れた富士山も遠望される。また、二見浦の夫婦岩の後ろにも、よく晴れた時には富士山が見えることがあり、共に遠くから見える富士の景色として有名である。昔は現代よりもっとよく見えたことが推測される。 ○初富士の|鳥居とも |なる |夫婦岩 |夫婦岩は、沖の海底に鎮座する輿玉神石の| |鳥居であるが、 | 岩の間に遠望される| 初富士の|鳥居とも |なっている。 (山口誓子) |
作詞:竹中墨子 作曲:菊岡検校 箏手付:八重崎検校 【語注】 神路山 伊勢神宮内宮神苑から東南一帯の山地。麓を五十鈴川が流れる。⇒背景 萱の御屋根⇒背景 五色の玉⇒背景 朝日山 内宮周辺の山や森を指すか。 五十鈴川⇒背景 御裳濯川 みもすそがわ。⇒背景 宇治の里 今の三重県宇治山田市の辺り。 弥生 旧暦の三月。現在の四月初旬から五月初旬。 小田の橋⇒背景 岩戸の山⇒背景 藻塩草⇒背景 世義寺⇒背景 美女の遊び⇒背景 鳥羽口 口伝で「はとぐち」と歌う流派もある。 朝熊山 あさまやま。神宮内宮の5km ほど東にある朝熊(あさま)ヶ岳。 奥の院⇒背景 富士の白雪⇒背景 物言はば…まし 反実仮想の構文。 しをり 山道などで、木の枝を折って道しるべにすることが語源。転じて、本の間に挟むものの意になった。 わたらひ 伊勢辺りの古地名。度会郡。 神風や 「伊勢」に掛かる枕詞。ここでは伊勢の御裳濯川に掛けた。 澄まんかぎりは 「ん」は婉曲。 |