三つの船(みつのふね)

【解題】

 明治十二(1879)年、明治政府は音楽教育の調査と研究のため音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)を開設し、日本における音楽教育の基本方針を西洋音楽と東洋音楽の折衷とした。明治二十(1887)年に、音楽取調掛が東京藝術大学の前身である東京音楽学校に改組され、その開校式に山勢松韻作曲の『都の春』などが演奏され、この年に日本音楽の教科書の第一輯(集)が発行された。『三つの船』はその翌年の明治二十一(1888)年に発行された第二輯の日本音楽教科書に掲載されたものである。この曲は、もとは『今様朝妻舟』だったが、遊女の心情を唄った歌詞は学校教育には不適当とし、その替え歌を作り、『三つの船』となった。曲の節は同じである。

【解析】

○花の都の大堰川(おおゐがは)、       | 遊びも        |         三つの
 花の都の大堰川      で、道長公の催した|船遊びも、それに相応しく、和歌・漢詩・管絃の三つの道の

○   友を分け 、船のよそひは|  唐錦 、綾(あや)おる      波の   |河よどに、遅れ て|
 同好の士を分けて、船の 装飾 は|  唐錦 、
                |その唐錦が|綾を   織るような美しい波が寄せる|河よどに、遅参して|

○  乗れる|みやびを|  は、 歌にも| 詩にも|調べにも、かねて |心を 筑紫 琴       、
                              《兼ねて》
  <ツクシ>
 船に乗った| 風雅 人|公任は、和歌にも|漢詩にも|管絃にも、三つとも|
                              |以前から|心を尽くして打ち込んできた。

○      尽くしし|   わざは|    白浪に、        |今も響く     や、
      <ツクシ>

 この時|窮め尽くした|和歌の妙技は、大堰川の白浪に、優れた逸話として|今も響き伝えている!

○今も|響く     や|大堰川    。
 今も|        |大堰川の白浪に|
   |響き伝えている!|

【背景】

 この歌詞の原典は『大鏡・頼忠伝』にある藤原公任の『三船の才』の逸話である。大鏡は歴史物語で、ある寺で、大宅世継(190歳)・夏山繁樹(180歳)と名乗る二人の老人が若侍に平安時代前期から中期にかけての出来事を話して聞かせるという体裁で書かれている。

○ひととせ、入道殿の大井川に|逍遥  せさせ給ひし に、作文  の船・管絃    の船・和歌  の船と|
 ある 年 、入道殿が大井川で|舟遊びをなさっ  た時に、漢詩を作る船・音楽を演奏する船・和歌を詠む船と|

○  |分かた|せ給ひ |て、そ   の| 道 に|たへ たる人々を|乗せ|させ給ひ|し|に、この大納言の
 船を|区別 |なさって|て、それぞれの|方面に|優れている人々を|  | お  |
                                 |乗せ|になっ |た|が、この大納言が

                              ┌────────────┐
○参り|給へ る を 、入道殿 、「かの大納言 、いづれの船にか|乗ら| る |べき  |」と、
 参上|なさったので、入道殿が、「あの大納言は、 ど の船に |  | お |    ↓
                               |乗り|になる|のだろうか」と|

○のたまはすれ| ば 、「和歌の船に乗り侍ら む」と宣ひて、     |詠み|給へ |る| ぞ かし。
 おっしゃった|ところ、「和歌の船に乗りましょう」と仰って、船に乗って、  |お  |
                                   |詠み|になっ|た|のです よ 。

○小倉山 |嵐の風の     |寒けれ| ば |もみぢ           の錦   着ぬ 人ぞ|なき
 小倉山や|嵐山から吹き下ろす|
     |強い風が     |寒い |ので、 紅葉 のように美しく刺繍された錦の衣を着ない人は|いない事よ。

○             |   申しうけ|給へ る|かひ ありて|   |あそばしたり   な。
 和歌の船に乗りたいと、自ら|お願い申し上げ|なさった|甲斐があって、立派に|お詠みになりましたね。

○   御みづからも|宣ふ |なる  は、「作文の にぞ乗る べかり ける。
 後で|ご自分で も|仰った|そうですが、「漢詩の船に!乗ればよかったなあ。

○さ  て|かばかりの| 詩を  作り  たらましかば、名 の|あがらむことも  まさり  な|まし。
 そうして|これほどの|漢詩をもし作っていた なら ば、名声の|上がる ことも一層まさっていた|だろうに。

                                ┌──────―─┐
○口惜しかり|ける|わざかな。さ   ても、  殿の、『いづれにか    と|思ふ』と|
 残念だっ |た |こと よ 。それにしても、道長公が、『どの船に 乗りたいと|思うか』と|

○宣はせ|し| |になむ、われながら|心おごり   |せ  られ し」と|宣ふ | なる   。
 仰っ |た|時|に は 、われながら|得意な気持ちに|なってしまった」と|仰った|という話です。

○一事の|すぐるる   |だに|ある  に、かく   |いづれの 道  も|ぬけ出で|給ひ   けむ   は、
 一事が|優れていること|さえ|珍しいのに、このように|ど  の方面にも|傑出  |なさっていたような人は、

○いにしへも    |侍ら   |ぬ |こと なり。
  昔  もめったに|     |ない|こと で |
          |ございます|  |     。

作詞:不詳
作曲:山田検校







【語注】


大堰川 大井川。現在の桂川の渡月橋より上流の名称。渡月橋は、「嵯峨誌、京の橋物語」などによれば 740年に元明天皇または秦氏によって架けられたとされる。
河よど 河の流れが淀んでいる所。そういう所に船着場を作る。

















入道殿 藤原道長(康保三(966)年〜万寿四(1027)年)。別称、御堂関白、法成寺入道前関白太政大臣。
逍遥 気ままにぶらぶら遊ぶこと。散歩。ハイキング。ここは「舟遊び」のこと。
この大納言 藤原公任(康保三(966)年〜長久二(1041)年)。廉義公・太政大臣・藤原頼忠の子で権大納言、正二位。四条大納言とも呼ばれた。和漢の学に精通し、『和漢朗詠集』を編集し、『新撰髄脳』『和歌九品』などの歌論書を著して、当時最高の学者として認められていた

小倉山 大堰川(桂川)の渡月橋の上流の北岸にある。紅葉の名所。
 嵐山は大堰川の南岸に小倉山と向かい合うようにある。紅葉の名所。










心おごりせられし 「られ」は自発。
宣ふなる 「なる」は伝聞の助動詞「なり」の連体形。前に係助詞の「なむ」があるので連体形で結んでいる。



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