松尽し(まつづくし)(旧松尽くし)

【解題】

 新年の辻芸人が歌っていた伝承的な歌詞を箏曲に作曲したもの。我国で有名な名所旧跡の松や、身近に見る松を次々と挙げて、目出度い数え唄にしたもので、歌詞の面白さに主眼が置かれ、意味のよく繋がらない部分もある。端唄や舞踊、寄席の舞踊芸や曲芸などにもこの歌詞が使われている。生田流には藤永検校作曲の「新松尽くし」があるが、節は同じだが、歌詞は別である。寄席や辻芸向きの歌詞の内容が、高雅で端正な箏曲には合わないという理由で替え歌が作られたらしい。
 
【解析】


○唄ひ囃せや 大黒 。一本目には池の松。二本目には庭の松。三本目には| 下り松。
 唄い囃せよ、大黒舞。一本目には池の松。二本目には庭の松。三本目には|枝垂れ松。

○四本(しほん)目には志賀   の松。五本目には五葉(ごえふ)の松。六つ  昔      は高砂の、
 四本    目には志賀の唐崎の松。五本目には五葉     の松。六つ目、昔から有名なのは高砂の、

○尾上(おのへ)の松や|曾根の松。七本(しちほん)目には姫小松。八本目には浜の松。九つ小松を植ゑ並べ、
 尾上    の松や|曾根の松。七本     目には姫小松。八本目には浜の松。九つ小松を植え並べ、

○十で@豊久野(とよくの) 伊勢  の松。この松はふよう    の松にて  情け | 有  馬の|松が枝に、
 十で@豊久野      の伊勢  の松。この松はふよう    の松 で、人情 の|ある   |
                                         | 有  馬の|松の枝に 
   
A豊受       の伊勢  の松。この松は有情(うじやう)の松にて、
   A豊受神宮     の伊勢神宮の松。この松は人情を解する  松 で、

○口説け   ば|靡(なび)く |      相生(あひおひ)の松       に、
 恋心を訴えれば、それに応える|高砂と住吉の夫婦(めおと)の松のような|
               |男  女  和合     の松    。それに、

○又|いついつ|    の 約束を   |  日を待つ、  時 待つ、   暮れを待つ。
                        
|松|    |松|      |松|
 又、いついつ|逢おうという約束のために、逢う日を待つ、逢う時を待つ、逢う夕暮れを待つ。

○        連理の松    も|   契りを込めて、@福  |大黒をみせいな。
 枝と枝が繋がった連理の松のように 、
 いつまでも仲睦まじくという    |男女の契りを込めて、@福の神|大黒を見なさいな。
                             
A目出度いな  |若戎(わかえびす)
                             A目出度いことよ|若戎の踊りは。

【背景】

 大黒・若戎

 大黒舞や若戎などは、起源は定かではないが、日本の正月に古くから行われている辻芸能である。江戸時代には、街頭で盛んに行われ、庶民を楽しませていた。大黒舞は大黒天のような扮装をして頭巾を被り、木槌を振りながら、「ござったござった大黒天がござった」と、家々の門ごとに福を振りまいて回り、開運や厄除けのお札を配ったりした。若戎も同じようなもので、大黒天と同じく七福神の一つ、恵比寿三郎の格好をしていた。同様のものとしては、万歳(三河万歳のような、いわゆる掛け合い万歳)や、三味線をもった女芸人「鳥追(とりおい)」などがある。正月は人々が笑いや祝福を求める時期で、今日のようにテレビのなかった時代は、辻芸人が大いに活躍して正月の街頭を賑やかにしたのである。

 参考のため、『福井県史 通史編 全6巻』の中の『福井県史 通史編3 近世一』を紐解くと、次のような記事を見掛ける。

 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳・若狭の万歳

 小浜(おばま)の正月にも、節季候・若夷・春駒・大黒舞・万歳が来た(『稚狭考』)。これは越前万歳ではないが、やはり声聞師のものであったろう。このほかにも、延宝(一六七三〜八一)頃、三つ松座の八郎兵衛というものは、上方で芝居を勤めた後、三味線を弾き浄瑠璃を語っていたが、他国の者を集め、五、六人で、春は万歳、秋は在所や町中を廻り、小歌あやとりなどをしていたという。また木崎・・・・・・窓は一五、六歳の頃(一七〇二〜〇三)、東宮前町舞五兵衛が「頼政宇治川の舞」を舞うのを見たというが(『拾椎雑話』)、「頼政宇治川の舞」は幸若舞のレパートリーの中にはない。越前万歳には浄瑠璃の「ひらかな盛衰記」に基づく「宇治川先陣物語」があり、あるいはこれを舞五兵衛がまねて、舞と称していたのかも知れない。
 なお、越前万歳の詞章・芸態については『集注越前萬歳』『福井県史』資料編15に詳しい。

 高砂の松

                   ┌──────────────┐
○  |かく   し  つつ| 世を|や|尽くさ     |  ん|
 私は|このように無為のまま|人生を| |終わってしまうの|だろう|か。

○高砂の尾上に|     立て  る|松  |ならなくに
 高砂の尾上に|何もせずに立っている|松では|あるまいに。(古今集・巻十七・雑上・908・読み人知らず)

                    ┌──────────────────────┐
○             |  |誰をかも|知る人に |せ        |  む|
 こんなに年をとってしまって、一体|誰を !|友達として|話しかけたらよいの|だろう|か。

○      高砂の松も     |昔  の友   |ならなくに
 あの年を経た高砂の松だって、私の|昔からの友達では|ないの に。(古今集・巻十七・雑上・909・藤原興風)

 志賀の松

○夜の雨に|音       を |ゆづりて|
     |音を響かせること は|
 夜の雨に|          |任せ て、

○夕   風を|よそ  に|ぞ|   立て|  る|唐崎の松|
 夕暮れの風を|知らぬげに|!|静かに立っ|ている|唐崎の松|であることよ。

 志賀の唐崎は 古来から有名な歌枕で、大津市の北7kmほどの琵琶湖畔の土地。著名な文人たちが歌や句を残している。唐崎の松は、現在、唐崎神社の境内にある。

○唐崎の松は扇の要にて漕ぎゆく船は墨絵なりけり 伝紀貫之
○唐崎の松は花より朧にて 芭蕉
○短夜や一つあまりて志賀の松 蕪村



 浜の松

 「浜の松」は一般的な名称でもあるが、有名なものとしては「高師の浜の松」がある。

○太上天皇(だいじょうてんのう)難波宮(なにわのみや)に幸(いでま)す時の歌

○大伴の高師(たかし)の浜の松が根(ね)を枕(まくら)き寝(ね)れど家(いへ)し偲(しの)はゆ


○右一首置始東人(おきそめのあづまひと)
              (万葉集・巻第一・66)

 豊久野

 三重県津市安濃町内田の地域に豊久野(とゆけの)の地名が残っている。ここは四日市市から津市に抜ける伊勢街道の支道で、伊勢別街道・伊勢道(いせみち)などと呼ばれる。雄略天皇(21代・五世紀後半)の時、丹波の国より豊受大神を伊勢に遷した、その折、鈴鹿の神戸からこの地に行宮を営まれたと言う。その昔は広大な原野で、街道は松並木で昼でも薄暗かったと言う。『伊勢音頭』の一節に

○伊勢のナ豊久野 銭かけ松は 今は枯れても 名は残る

とある。「銭掛け松」は、伊勢神宮参拝の旅人が、銭に紐を付けて松に掛けたという。現在はその石碑が残っている。

 有馬

 有馬温泉は六甲山の北の麓に位置し、日本で最も由緒ある温泉で、古くは舒明天皇が西暦631年(舒明3年)、三ヶ月も行幸されていたことが古事記に記されており、日本書紀にもその名が登場する。
 また、この温泉の歴史には有名な人物が数多く登場する。
 行基が有馬温泉を再興し、温泉寺を創建した。
 清少納言は枕草子に「湯は七栗の湯(現在の榊原温泉・三重県津市榊原町)、有馬の湯、玉造の湯(島根県松江市玉湯町玉造)」と記した。ただし、この記事があるのは能因本『枕草子』と所謂三巻本の117段だけで、他の校本には無い。
 藤原道長、藤原定家がここで入湯した。
 鎌倉時代に入って、温泉を再興させた仁西上人が十二の宿坊を建て、今日の有馬温泉の基を築いた。
 豊臣秀吉が有馬温泉を修復し、たびたび入湯した。
 江戸時代、徳川家康から三代に仕えた儒学者林羅山が 「草津・有馬・下呂」を三名泉として称えた。

作詞:不詳
作曲:不詳






【語注】


大黒・若戎⇒背景
五葉の松 普通の松は双葉(針葉が二本ずつ枝から出る)だが、五本ずつまとまって出るので五葉と言う。樹皮は赤褐色。山地に自生するが、庭木や盆栽にもされる。
高砂の、尾上の松⇒背景
曽根 曾根天満宮(兵庫県高砂市曾根)の松。菅原道真が無実の罪で九州大宰府に配流された時にここに立ち寄り、日笠山に登って休んだ時「我に罪なくば栄えよ」と小松を手植えしたという言い伝えがある。またその後、播磨に流罪になった道真公の四男淳茂氏が父の形見「曾根の松」の傍らに父を祀って曾根天満宮としたとのことである。
七本目には姫小松 関西訛りなら「ひちほん・ひめこまつ」、江戸訛りなら「しちほん・しめこまつ」で、語呂合わせが成り立つ。
姫小松 女松の丈が低く小さいもの。女松は赤松のこと。黒松は男松。
浜の松⇒背景
豊久野⇒背景
豊受 伊勢神宮の外宮(げくう)豊受大神宮のこと。豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祭る。豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々に奉る食物を司る。
有馬 兵庫県神戸市北区有馬町。有馬温泉で有名。⇒背景
@博信堂。A













@
博信堂。A






















































太上天皇
 「おほきすめらみこと」とも読む。持統天皇(645〜703)のこと。在位686〜697。初めて譲位後に太上天皇を名乗った。難波宮行幸の年月は不詳。
大伴の 「高師」に掛かる枕詞。
高師の浜 大阪府和泉北郡高石町。南海本線羽衣駅で乗り換え、南海高師浜線の終点高師浜駅下車。
枕き 枕にして。マクラクという四段活用動詞の連用形。
置始東人 柿本人麻呂らとともに歌唱の名手として鳴らした舎人であったらしい。
大伴の 高師浜また三津に冠する枕詞。大阪湾に面した高師や三津に古く大伴氏の所領があったところから枕詞として使われたらしい。






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