鉢の木

【解題】

 能の『鉢木』に取材して、高橋義雄が作詞し、今井慶松が作曲した作品。作曲時期は大正末から昭和初年かと考えられる。作詞者は、東明一舟の芸名を持つ東明流の名取りで、実業家としても名をなし、また、箒(そう)庵という号で作詞も数多く行っている。

【解析】


○あづま路の、佐野のわたりの|雪の 暮れ、 行 方も知ら ぬ |旅 僧の、埴生の小屋に|立ち寄りて、
 東国  の、佐野の渡し場の|雪の夕暮れに、行く先も分からない|旅の僧が、粗末な小屋に|立ち寄って、

○一夜(いちや)の宿を|かり衣、   更けて寒さの増すほどに、    主(あるじ)は|秘蔵の鉢の木を、
           |狩り衣|
 一夜     の宿を|借りたが、夜が更けて寒さが増すうちに、その家の主人    は、秘蔵の鉢の木を

                                  ┌───────┐
○薪に充て   て  |もてなさんと  、   取り出し 見れば、いかに|せ| む|、雪      |
 薪の代わりにして客を|もてなそうとして、奥から取り出してみると、どう |し|よう|か、雪が北側の枝を|

○封じ  て寒き にも、異 木より  まづ|  咲き初むる、梅  を薪になすべしと|かねて|
 閉じ込めて寒い中でも、他の木より早くまず|花が咲き初める|梅の木を薪にしよう と|前から|

○思ひ|  き|   や、                。桜は花   の 遅ければ、心を尽し 育てし に、
 思っ|ていた|だろうか、いや、そう思って育てた訳ではない。桜は花が咲くのが遅いので、心を込めて育てたのに、

○    時をも待た|  で|伐り   くべて、ひざくら   |となす   侘しさよ。さて|松は、
 花が咲く時をも待た|ないで、伐り、火にくべて、緋 桜 ならぬ|
                       |火 桜    |にしてしまう寂しさよ。さて、松は、

○さしも    |げ に|枝を矯(た)め、葉を透かして植ゑ おきし、その甲斐もなく|御   垣 守る  、
 これほどまで |本当に|枝を矯め直し 、葉を剪定して植えておいた、そのかいもなく、皇居の諸門を警護する|

○衛士の焚く火            と|なしぬれ ば 、よく| 寄りて|あたり|たまへ|や 、
 兵士の焚く火のような赤々と燃える焚火と|してしまうので、よく|近寄って|   |お  |
                                    |あたり|なさい|!と、
                                         |親切にもてなした。

○人の情けの|温かき  |焚火にあたりて|旅 僧は、いつか寒さを忘れつつ、主 に名字を|問ひけれ ば 、
 人の情けが|温かい上に|
      |温かい  |焚火にあたって、旅の僧は|いつか寒さを忘れ  、主人に名字を|聞い た ところ、

      ┌─────────┐
○今は何を|か|包む|べき  |
、        |吾こそ|佐野の源左衛門の尉(じょう)常世が
 今は何を| |隠し|ましょう|か、いえ、隠しません、私こそ|佐野の源左衛門の尉     常世の

○なれ  る果て  |にて|候へ   と|過ぎ来し方 を物語り、すでにその夜も明けぬれば、
 落ちぶれた果ての姿| で|ございますと、今までのことを物語り、すでにその夜も明けたので、

○名残 惜しみて旅 僧は、いづく  ともなく 別れ 行 く。
 名残を惜しんで旅の僧は、どこへ行くとも知らず別れて行った。

○さ    るほどに、最明寺殿の御沙汰により、諸国の軍勢 |早打ちに  て、鎌倉山に集まれ |ば 、
 そうしているうちに、最明寺殿の御命令により、諸国の軍勢が|早馬を走らせて、鎌倉山に集まった|ので、

○常世も急ぎ馳せ参じ 、    御前に罷り出でける に 、過ぎにし|佐野の大雪  に、一夜宿りし旅 僧は、
 常世も急ぎ馳せ参じて、鎌倉殿の御前に罷り出 た ところ、あの時の|佐野の大雪の晩に、一夜泊った旅の僧は、

○思ひもよらぬ   鎌倉の|おん主にて、かの折の|常世が|なさけに|報い んと、薪になせし|鉢の木の
 思いもよらぬことに鎌倉の|御統領 で、あの時の|常世の|温情 に|報いようと、薪に し た|鉢の木の

○名に因みたる|三箇(が) の庄  、ならびに本領 佐野の庄 、併せて賜ひけるほどに、常世は|   御教書 |
 名に因んだ |三箇所   の荘園を、ならびに本領の佐野の庄を|一緒に下さったので 、常世は|土地の権利書を|

○いただきて、喜びの眉  |開きつつ、枯木に花                の梅 櫻、
 いただいて、喜びを表情に|表わして、枯木に花が咲くように老いた身に栄誉を得て、梅、櫻、

○松の          |緑の   |千代かけて  、本    領に安堵なし、
 松の名の付く三つの土地を|
 松の          |緑のように|千年も変わらず|自分の所有地と保証され、

○昼の錦をふるさとに飾る  ぞ|めでたかり ける  、飾るぞめでたかりける。
   錦を 故郷 に飾ったのは|めでたいことであった。

【背景】

 高橋義雄(作詞者)
 
 東明一舟という東明流の芸名を持つ実業家で、箒庵(そうあん)という号で作詞も東明流、長唄、清元など、数多くある。
 文久1(1861)〜昭和12(1937)。水戸藩士の子として生まれた。1881年慶応義塾入学。卒業後、『時事新報』(明治15(1882)年に福澤諭吉によって創設された日刊新聞)の記者になった。その後アメリカに渡った際、デパート経営に興味を持った。帰国後、三井銀行に入社。

 1895年、三井呉服店(旧越後屋、後の三越)に移り、様々な経営改革を行った。例えば、江戸時代以来の座売り(商品を店頭に並べるのではなく、客の求めに応じて一つ一つ奥から取り出す販売の仕方)を陳列販売に改めたり、大福帳をやめて会計制度を導入したり、経営の近代化に努めた。高橋の経営改革は、同窓(慶応義塾出身)の日比翁助が引き継ぎ、さらに推進することになる。高橋はその他、三井鉱山などの経営にも関わった。

 1911年、50歳のときに実業界を引退し、以後は茶道三昧の生活を送り、風雅の道を通じて各界の名士と広く交際した。『大正名器鑑』、『東都茶会記』など、茶道に関する著作が多数ある。実業、東明流音曲関係の著作や編集も多い。

 高橋は護国寺の檀徒総代も務めており、護国寺を茶道の総本山にしようと考えていた。護国寺への松平不昧公の分墓、園(おん)城寺日光院客殿の移築、茶室の整備などを行い、茶道振興に尽力した。

 港区白金の日本料理店『箒庵』は、この店の女将の林美恵さんが祖父である高橋箒庵にちなんで名づけた。

 佐野のわたり

○駒 とめて 袖      |打ちはらふ   | 陰もなし|佐野のわたりの|  雪の夕暮  
 駒を止めて、袖に積もる雪を|   払 い落とす|物陰もない、佐野の渡し場の|この雪の夕暮れであるよ。

                                (新古今集・巻第六・冬・671・藤原定家)
 この歌は次の歌の本歌取りである。

○苦しくも |降り くる雨 か |三輪の埼 佐野の渡り に家も|あら|な|く| に
 苦しいほど|降ってくる雨だなあ。三輪の埼の佐野の渡し場に家も| な い  |のに。

                             (万葉集・巻三・265・長忌寸奥麿)

 「佐野のわたり」とは奈良県桜井市の三輪山の麓を流れる初瀬川の岸にあった佐野の渡し場を指すが、「鉢の木」の歌詞では栃木県の佐野市を指している。佐野市は栃木県南西部に位置し、JR両毛線と東武佐野線が交差している地点。

 雪封じて寒き

○池     の凍(こほり)の東頭は| 風   度(わた)って|解く 
 池に張りつめた氷     の東岸は|春風が吹きわたっ   て|解け始める。だがまだ冬の景色は残っていて、

○窓の梅の|北面  は|雪    封じ  て|  寒し(和漢朗詠集・巻上・春・立春・藤原篤茂)
 窓の梅の|北側の枝は、雪がかたく封じ込めて|まだ寒い。

 御垣守る、衛士の焚く火

○   御垣 守り  衛士の焚く   火の   |夜(よる)は   燃え   |
 皇居の諸門を警護する兵士の焚くかがり火のように、夜    は赤々と燃えあがり、

○昼は消え      つつ |  物をこそ思へ|       |
 昼は消え入るほど悩みながら、恋の物思いに沈む|私であることよ。

           (詞花集・巻七・恋上・225・大中臣能宜(おおなかとみのよしのぶ))


 御教書(みぎょうしょ)

 奈良時代以来、身分の高い者の仰せを家臣が受けて発行する文書を「御教書」と言った。ここでは鎌倉幕府の執権(しっけん)連署連名の関東御教書のこと。

 三箇の庄

○まづまづ沙汰の始めには、常世が本領佐野の荘三十余郷、返し与ふるところなり、また何よりも切なりしは、大雪降って寒かりしに、秘蔵せし鉢の木を切り、火に焚きあてし志し、いつの世にかは忘るべき、いでその時の鉢の木は、梅櫻松にてありしよな、その返報に加賀に梅田、越中に桜井、上野(こおづけ)に松枝、合はせて三箇(が)の荘、子子孫孫に至るまで、相違あらざる自筆の状、安堵に取り添へ賜びければ、常世はこれを賜はりて、…(謡曲『鉢木』)


 昼の錦

○北山に、もみぢ折らむとてまかれりける時に、よめる。

○見る人もなくて  |散り ぬる |奥山のもみぢは|夜の錦      なりけり
 見る人もないままに|散ってしまう|奥山の 紅葉 は|夜の錦のようなもの だ なあ。

                        (古今集・巻第五・秋下・297・紀貫之)

○富貴にして故郷に帰らざるは繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如し。(史記・項羽本紀)

 ある人が、秦(しん)の都・咸陽(かんよう)を陥落させた楚(そ)の項羽(こうう)に、「咸陽のある関中は都とするにふさわしい土地である」と説いたのに対し、懐郷の思いにかられた項羽が答えたことば。これに対し、その人は項羽のことを「沐猴(もっこう)にして冠す(猿が冠をかぶっているようなものだ)」と評したため、釜茹での刑に処せられたという。

 参考 ことわざ

○錦を着て夜行くが如し。…立身出世しても故郷に錦を飾らなければ成功者の甲斐がないこと。

○故郷に錦を飾る。…故郷を長く離れて努力していた者が、社会的に認められて故郷へ帰ることのたとえ。

○錦を着て夜行く。…立身出世しながら、故郷に帰ることがないこと。きらびやかな衣装をまとって夜道を行っても、誰の目にもとまらないことから、多く故郷に錦を飾ることのできない無念さを言う。

作詞:高橋義雄。⇒背景
作曲:今井慶松(1871〜1937)




【語注】

佐野のわたりの⇒背景
埴生(はにふ) 「はに」は「赤土・粘土」、「ふ」は場所。「埴生の宿」は土で壁を塗っただけの粗末な家のこと。
鉢の木 現代の盆栽より大きなものもあったと思われる。
雪封じて寒き⇒背景













御垣守る、衛士の焚く火⇒背景












佐野の源左衛門の尉常世 「佐野」は地名であると共に名字。「源」は姓。「左衛門の尉」は官職名だが形式的なもの。「常世」は名。
過ぎ来し方 謡曲には「一族どもに(土地を)横領せられ、かやうに散々の体となりて候」とある。
最明寺殿 北条時頼。鎌倉幕府五代目の執権。出家して伊豆の最明寺に住んだ。
鎌倉山 鎌倉のことを飾って言ったもの。現在の鎌倉駅の3キロほど西にこの地名があるが、昭和初期に名づけられた地名で、こことは関係がない。

三箇の庄 「庄」は昔の荘園の名をつけた土地。荘園は、奈良・平安時代から室町時代にかけての貴族や寺社の私有地。⇒背景







昼の錦⇒背景













































東頭・北面 東西南北に春・秋・夏・冬を当てはめる陰陽五行説に基づく表現。


















加賀に梅田 石川県河北郡。
越中に桜井 富山県下新川郡。上野に松枝 群馬県碓氷郡。
安堵 安堵状。武士の土地の所有権を幕府が保証した書状。











咸陽
 秦の都。長安(現在の西安)の40キロメートルほど西にあった。黄河の上流。
 揚子江の下流域一帯を指す。項羽の故郷は彭城(現在の江蘇省の徐州市)




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