山口五郎先生の思い出

 その一。先生が芸大の教授に就任されたのは、一九八七(昭和六二)年だった。弟子たちがそのお祝いに、内輪のパーテイーを開くことになった。どこか都心の会場で、有志が五十人も集まっただろうか。私は会場の隅の方でウィスキーを飲み、丁度私と反対側の隅で談笑なさっている先生を拝見しながら考えた。「東京芸術大学の邦楽科教授と言えば、昔は宮城道雄、最近では中能島欣一先生、その他も歴史に残る錚々たる大家ばかり。尺八で教授になられたのは先生が初めて。先生は名実ともに日本の尺八界の頂点に立たれたのだ。」文章にすると露骨になるが、その時私は漠然とそんなことを考えていた。

 つと先生が部屋を横切って私の前においでになり、例の笑顔と穏やかな口調で私に話しかけられた。「山戸さん、私はこれから教育畑に足を踏み込むことになりました。あなたは先輩だから、いろいろ教えてくださいね。」私は普通の高校教師である。私は一瞬絶句したが、思わずこう答えた。「え、いやあ、先生は元締めだから…」とっさに口走ったことで、深い意味はないとは言え、今考えると恥ずかしい。

 山口五郎先生は、いつもこういう風にものごとを考えて生きておられる方だということは前々から知っていたし、先生を知る人なら誰でも知っている。そんなことは当たり前ではないかと言われればその通りだ。しかし私はその時本当に心の底から驚いてしまった。そして、「この人はものすごく偉い人だ。この人を一生のお手本にして生きるなんて、なんと幸福な巡り合わせだろう。」としみじみ思った。今でもあの時の先生の笑顔と穏やかな口調を心の中に蘇らせるたびに、涙が出て仕方がない。

 その二。亡くなる十数年前の先生の思い出。曲名は忘れたが、先生の編曲された本曲を竹盟社一門五十人ほどで上野の文化会館で演奏したことがあった。ところが、本番で拍子が合わなくなり、失敗してしまった。終ってから楽屋で、「あれは編曲が悪いから合わせにくいんだよ」と、自分の練習不足を棚に上げて私が大声で話す声を奥様の保寿美先生に聞かれてしまった。保寿美先生からその話を聞かれた先生は、さぞかしカチンと来られただろう。

 その二、三年後、また同じ曲を協会の演奏会にかけることになった。舞台に上がる前に、全員の前でいつものように先生からご注意がある。例の笑顔とおだやかな口調。「皆さん、今日の曲は、編曲が悪いと言われないように、よく合わせて吹いてください。」私はびっくりして恐縮した。演奏はうまくいった。舞台から降りて、先生が「山戸さん、今日の演奏はどうでしたか。」「え、いや、あの、編曲がよいので合わせ易かったです。」

 先生、失礼なことを言ってどうもすみませんでした。

 その三。一九九八年七月下旬の木曜日、私は先生のお宅に稽古に伺って、これから行くヨーロッパ旅行の出発のご挨拶をした。「二ヶ月ほどヨーロッパの各地を回って、街頭で尺八を吹いてお布施をもらいながら、放浪の旅をしてきます。」見知らぬ外国の街角で尺八を吹いてあるくなどということは、私にとって生まれて初めての体験で、気楽な旅である反面、当時の心境としては、命がけという気持ちもあった。それは、言わば乞食の真似をして歩くことであり、どこでどんな人間に声を掛けられ、どんな事件に巻き込まれるかも分からない。最悪の場合は命を落とさないとも限らない。私は先生とお話しながら、万が一の場合ではあるが、これが先生とお会いする最後の機会になるかも知れないと心の片隅で考えた。先生はその年の六月の東大尺八部OB会の頃から、体調を崩していらっしゃるように見受けられたが、相変わらず穏やかに対応してくださり、「それは面白いですね。元気で行ってらっしゃい」と言ってくださった。最後に一言、笑いながら、ポツリと、「いいなあ」とおっしゃったのが印象に残っている。

 ヨーロッパ滞在中、私は、その地の邦楽愛好家たちから、山口五郎先生の弟子ということでたいへん重んじられ、厚遇を受けた。有難いことであるとともに、先生の名声の大きさを改めて教えられた思いがした。パリのある尺八愛好家は、初対面であるにもかかわらず、自分の寝室を私に譲り、自分は仕事場のソファーで寝て、一週間以上も泊めてくれ、その上食事の面倒まで見てくれた。彼の仕事場には、先生のレコードのジャケットやCD、写真などが所狭しと並べられていた。私のことを「disciple Yamato 」と呼ぶので、どういう意味かと思い、辞書を引いてみると、「偉大な宗教的指導者の弟子、門弟。キリストの十二使徒」などと書いてあるので、驚いた。私はマタイやパウロなみに扱われたのかと思うと、先生の弟子であることがたいへん誇らしかった。

 十月初旬に帰国した私は、先生が入院されていることを知った。お会いして旅行の報告をする機会もなく、先生はそのまま翌年の一月三日に他界された。出発のときの私の予感は、立場を入れ替えた形で当たってしまったのである。先生の父君、山口四郎先生はたいへん長生きされたと伺っていたので、先生より十三歳若いだけの私は、何となく、自分のほうが先に死ぬような気がしていた。単に年齢の問題ではなく、私たち弟子にとって、先生の芸と人格は「沈まぬ太陽」のような印象を与える、不滅のお手本だったのである。

 一九九九年の一月八日、先生の葬儀の日、厳しい冷え込みの中で、弟子たちは悲嘆にくれた。先生が生前演奏された「巣鶴鈴慕」が寺の境内に流れたちょうどその頃、北風の中にちらちらと雪が混じった。

 雪散りて師に聞き残したることばかり

山口五郎先生のリサイタルの記録



 先生は生涯に四回のリサイタルを開催されたと思うが、その内容について、私は一部分しか憶えていません。ここにそれを書いて、私の記憶にない部分や記憶の誤りを、どなたかに教えて頂けるとたいへんありがたいです。

第一回 昭和47年 第一生命ホール(日比谷)

曲目          賛助出演者

虚空鈴慕        独奏
尾上の松        井上道子(三絃)・小林玉枝(筝)
鹿の遠音(竹の舞)   青木鈴慕(尺八、当時は静夫)・踊りの人が二人、舞台で踊った。

第二回 昭和48年 第一生命ホール(日比谷)

独楽の曲(杵屋正邦作曲)独奏
? 千鳥の曲



この時、先生は風邪を引かれていて、あまり調子がよくなかった記憶がある。

第三回 昭和49年 国立劇場小劇場

夕暮の曲        独奏
巣鶴鈴慕        独奏
岡康砧         中能島欣一(筝)・中能島慶子(筝)
* この成果に対して、第29回文化庁芸術祭大賞を受賞

第四回 昭和57年 国立劇場小劇場

巣鶴鈴慕        独奏
根曳の松        富山清琴(三絃)・中能島欣一(筝)
砧巣籠         独奏
* この成果に対して、第37回文化庁芸術祭優秀賞を受賞



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