◎CAI関連論文3◎

教育ソフトの開発は永遠の茨の道 山戸竹男


 
世の中に、「教育ソフト」と呼ばれるものがあります。コンピューターを使って生徒に勉強させようというもので、CAI(Computer Assisted Instruction)とも呼ばれています。10年ほど昔はその熱気たるや、現在とは比べものにならないほど強かったのです。その背景には、おそらく当時脚光を浴びていた「人工知能」の開発があったのだと思います。つまり、「人工知能」というものが作れるならば、コンピューターに人間の教師の知識と経験を移植し、教師の仕事の重要な部分を代行させることも当然可能だと考えられたのです。しかもその「人工教師」は、人間にはないコンピューターの美徳、つまり大量の情報処理能力、記憶力、忍耐力をかね備え、しかもその優れた人工教師は、いくらでも複製できるはずだったのです。


 しかし、さまざまな試みが行われていくうちに、これがとてつもなく難しい仕事だということが分かってきました。研究すればするほど、人間の教師が、何というか、ものすごく多面的で直感的な判断を働かせていることが分かってきたのです。生徒にものを教える仕事というのは、チェスや詰め将棋の正解を出すような単純な仕事ではないのです。コンピューターの中の「人工教師」は、実際に使ってみると、教える能力はほとんどゼロ、つまり、ただのバカに過ぎなかったのです。そのようなわけで、現在、CAIの世界では、生徒に知識を教え込む「人工教師」型ソフト(「コースウェア型ソフト」と呼ばれています)の開発は足踏み状態が続いています。

 本筋の研究がいっこうにはかどらない間に、現実のCAIの商品として、「遊びながら楽しく学べるソフト」が開発されました。「人工教師」は「生徒を遊ばせながら教えてくれる優しい先生」を目指したのです。

 しかし、「遊びながら勉強する」ことは、本当にいいことなのでしょうか。そういうのは昔から「遊び半分」といって、否定されていたのではないでしょうか。先生の余談やギャグなどによって、授業中の生徒を適度にリラックスさせることは大切ですが、その種の「息抜き」も、実は授業の効果を高めるために教師によって管理されたものなのであり、生徒が勝手に「遊びながら勉強する」こととはまったく異なります。

 生徒が「遊びながら学ぶ」としたら、その勉強の効率は、真面目に勉強する生徒の何分の一かしかないはずです。もっとまずいのは、「遊び半分」という、ぐうたらな勉強法に生徒が慣れてしまうことです。こういうソフトは一時的には生徒に歓迎されるでしょう。しかしこれらが、中・長期的に見て、果たして役に立つのかどうかは疑問です。

 最近、「エデュテインメント ソフト」という言葉をちらほら見かけます。「エデュケイション」と「エンターテインメント」を掛け合わせて作った言葉で、すっかり不評になった「教育ソフト」という名前に見切りをつけて、新たな需要を掘り起こそうという販売側の作戦でしょうが、この言葉ははじめから逃げ道を用意しているとしか思えません。つまり「教育の要素は含んでいるが、あくまでも娯楽のためのソフトであり、学習効果がなかったとしても苦情は受け付けません」と言っているのです。

 そういうわけで、最近の教育ソフト開発は、現在のコンピュータの機能をそのまま活かせる「お絵かきツール」やシミュレーションや資料提供型のソフトに力が入れられているようです。これらは教師の仕事ではなく、教育に使う道具、つまり絵の具や筆、理科の実験装置、本や新聞や資料集などの役割をコンピューターに担わせるものです。これらにはたいがい「生徒が自発的に学習する力を養う」という謳い文句がつきます。しかし、教育の道具というものは、教師の適切な指導があってこそ道具として活かされるので、それをコンピュータに代行させること自体には、たいした意味はないのです。道具自体に「自発的に学習する力を養う」力などはありません。いずれにしても、これらは「生徒に学習させる能力を持ったソフト」ではなく、「生徒が学習に利用できるソフト」に過ぎないでしょう。

 全国の学校に続々とコンピュータ教室が作られ、『情報基礎』の科目の導入が学習指導要領に盛り込まれた今日の教育現場で、「人工教師」型CAIはこのような中途半端な状況にあります。10年前に多くの人々が楽天的に夢見た「コンピュータによる教育」は、現在、意外なことに、いつ果てるとも知れない茨の道に脚を踏み入れてしまっています。逆に言えば、人間の能力とは、それほどにも奥深いものだったわけです。

 しかし私は、ハード的環境が整った今こそ、「人工教師」の気長な研究が大切だと信じています。学校でプログラミングの基礎などを教えるだけではなく、CAIの実験は地味ではあっても続けられていくべきです。なぜなら、「人工教師」の研究は、結局のところ、人間の教師と生徒の間で行われている教育と学習の過程を科学的に研究することにほかならないからです。教育と学習の過程を科学的に分析できない限り、コンピュータに同じことをさせられないのは当然でしょう。

 CAIの研究とは、先生たちが教室でやっている授業を、理論的に再構成することであり、つまり、授業そのものの研究なのです。

 だから、教育ソフトは現場の先生が作らなくては意味がありません。教育ソフトを作ることによって、教育の方法論を考えなおし、そのことによってまた教育ソフトを作りなおす。こういう気長で地道な努力の継続が必要なのです。コンピュータ教室が、その実験の場として、大いに活用されることを願っています。

(アスキー出版局『フリーソフト&シェアウエアPACK 1300』1996年後半版に掲載)