「下道というところ」
慈恩寺段丘の南端は、急崖になっていて、その下が「下道」である。
下道ののっている段丘は、寒河江川に限られた広い田畑。
もと慈恩寺の前田で、「山下醍醐」と称した三百八十石余りの土地。
今も字名は上醍醐、仲醍醐、下醍醐など。「醍醐」は京都醍醐寺に因む古い地名。
慈恩寺と下道は坂で結ぶ。
もと仁王堂坂の下にあった仁王池。
仁王尊を運び上げる時この池で洗い清めたと伝え、ぶどう畑の近くから今も清水が
豊かに湧く。アダ坂はもと松蔵坊が切った曲がりくねった道。松倉不動の滝は二十尺。
信者は谷地方面まで広がり、今講中十七人。祭りは四月二十七日。
聖界と俗界の境に六地蔵。
下道にある四体。古藤商店の所によだれ地蔵。鳥居坂の所に縁切地蔵。猪倉さん
の所に子安地蔵。武田桂一さんの所に追分地蔵。
般若面の土蔵は布川光雄家。安政二年の頃、慈恩寺から下道に下る。
ここは鶴巻屋敷と称し、鶴が舞い飛ぶ田沢川扇状地の湿地だった。三重塔、華蔵院
地蔵堂を建てた布川文五郎の家。
猪倉五右エ門家も秋場四郎右エ門家も慈恩寺から下る。
富沢勇一郎家はもと大江家家臣で、その滅亡時最上院に隠れ、後に下道に居住した
という。
明治元年九月二十日、官軍は陣ケ峯の庄内軍を攻めあぐみ、正面突破をさけて下流
藤崎方面から下道に進攻、十六軒に火をかけた。
玄蕃山沼を水源とする醍醐表は、田沢川用水掛りで三十町歩。もと水不足で「堰田」
と称する独特の水口を作り用水を引いた所。
曲がりくねった慈恩寺の下道。
祭りの日は人波の続く道。
春が最も早くやってくる土手の下を楽しく語りながら一年生が帰ってくる。
寒河江市庶務課広報広聴係 発行 宇井 啓 先生著 「地名を歩く」より
|