「海図通信」のページへ戻る  「空のページ」へ戻る

霧の河 

                                     田代 茂



 短夜。湿気の帯が、ゆっくりと産毛を逆撫でた。生暖かい空気も、甘く震えてる感じだ。交尾を終えたのか、蛙が気怠そうに鳴いていた。それもじっと耳を澄まさなければ、聞きとれないか細さだった。四年前、田圃の中にできたパチンコ店パーラーキングの音楽がやたら煩い。アパートの窓を開けると、芒種の夜風がその音を嫌でも運んでくる。蝸牛が二匹、ベランダの欄干にじっとしていた。
「あんな、人を魅了させる遊技場もあるんよねぇ」
 礼子が、満夫の背後から小さく呟いた。パチンコばかりに熱中し、予期せぬ事故を起こしたり、何もかも棄てて堕落してゆく人が多いからだった。振り返ると、ワンピースの透き間から、礼子の盛り上がった白い乳房が覗いた。
「何事も、ほどほどがいいよ」
 満夫は、軽く咳払いしながら首許の汗をタオルで拭い、盛況なパチンコ店キングを見詰めた。欧羅巴の城を連想させる派手な造りから、美しい彩りの電灯が輝いている。早い光の花火だ。城の屋根にかかった月が、薄くぼやけ目立たない。パチンコ店の前の、道路に沿って流れる御熊川の川面に、幾つものその照明が映しだされていた。
「あの川も、昔はホタルの宝庫やった……」
「そう、しかしねぇ」
 礼子が笑いながら肩を窄めた。暗くて見えないが、パチンコ店の先にはグリーンの大きなネットが張られ、広いゴルフの練習場もできた。御熊川を賢硫山の麓近くまで上がると立派な外環状道路と交叉し、その脇には健康ランド湯福亭もある。自然が失われた反面、そのぶん退屈しない町になったと満夫を思った。しかし、これ以上発展することも暫くはないだろう。発展どころか、世の中不景気で、銀行も大企業も呆気なく潰れる時代だ。満夫はパチンコ店から放出される大きな光の閃光に瞬きし、一人でほくそ笑む李英雄の姿を思い出した。不景気になればなったで、また一段と売り上げがあがると、喜んでいた英雄を知っていたからだ。パーラーキングは英雄の父、李基徳が経営していた。
 先日も川北町駅舎の焼き鳥屋で、偶然に英雄に出くわした。その時しつこく満夫に詰め寄り、自分の親父が経営するパチンコ店を手伝ってくれと哀願した。断わると営業部長にしてやるからと、連れの金髪の白人女性の顔を見ながら捲し立てた。満夫はそんな英雄の言葉など、少しも信用していない。結局その夜は、満夫の会社の同僚、君子と由加がいたせいで助かった。
「明日も早いの?」
 満夫は礼子に頷いた。売れ残った春物の商品をメーカーに返品し、店内を夏物一色に切り替えるのだ。満夫は一年前、この町にオープンした大型のショッピングセンターの子供服売場で、店長兼バイヤーをやっている。店の開店は十時だ。店内のディスプレーや品揃えは、その時間前に完了しておかなければならない。衣替えの季節には、どの売場よりも早く出勤し、販売態勢を整えなければならなかった。
 もともと満夫は、福岡市内の繁華街のデパートに勤務し、子供服売場を担当していた。そこに十年近く勤め、礼子とも社内結婚した。しかし少子化の影響と売場面積の競争激化で、ここ数年デパートの売り上げは落ち込んでいた。会社の経営状態が悪化する一方、経営者はリストラ策を打ち出し、希望退職者を募った。一年前のことだ。店長として任せられてもいたが、上司の仕入れ部長との人間関係がうまくいかず、悩んでいた時期でもあった。そんな折、実家の近くで大型のショッピングセンターがオープンし、満夫はそこに出店した専門店に運よく転職した。妻の礼子はまだ新婚当初で猛反対したが、満夫の再三の説得で止むなく受け入れた。何よりも通勤時間がかからないのと、管理され縛りつけられた人間関係から解放されたことに安堵し、新しい仕事に思い切り打ち込めた。住居も街の賃貸住宅から、実家近くのこのアパートに引っ越してきた。地元なので顔馴染みの客が多かった。満夫は家族的な雰囲気の売場づくりに頑張った。一年の間に、ニューファミリー層の顧客がなんとか増え始めていた。しかし、いいことばかりではなかった。町に大型のショッピングセンターができたことで、駅前商店街の老舗の店の売り上げが半減したからだった。商店主達は、満夫がショッピングセンターに勤務していることを知っていた。初めから大型のショッピングセンター進出に反対だった彼等から、満夫は裏切り者だと陰口をたたかれた。道で擦れ違い挨拶しても相手にされなかった。なかでも一番辛かったのは、町の青年団で仲の良かった靴屋の優や、婦人服店の達也からも口を利いてもらえなくなったことだ。それを考えると、自分の今の仕事もときどき嫌になる場合もある。狭い町中で互いに気不味い思いはしたくなかった。悩めば悩むほど、英雄が言ったパチンコ店を手伝ってくれという言葉が脳裏をよぎった。
 窓の透き間から、湿った風が入ってきた。パチンコ店キングの音楽はいくぶんか弱くなり、蛙の鳴き声も聞こえない。田圃の片隅に建っているアパートだけが、暗闇の中に放置されている感じだ。両隣の住人は、まだ帰宅している様子はない。礼子がテレビのスイッチを入れた。女性キャスターが、明日の天気予報を報じている。
「急に黙り込んだりして……。どうかしたの?」
「商品の仕入れのことを考えているんだ」
「たいへんねぇ」
 小さな嘘でも、礼子は自分が言ったことを信じてくれる。満夫は煩わしいことを考え込むのをやめ、じっと礼子の顔を見詰めた。


 鈍重な雲が、緑の大地を覆っていた。風はなく噎せかえる空気に、朝から身体の皮膚が湿っている。満夫は二千台はゆうに収容できる駐車場で車から降り、暫く佇みながら巨大なショッピングセンターのビルを見上げた。どう見てもこの場所では不釣合いだが、この駐車場が何回転もする日が多い。自分が勤務するのは三階の衣料品売り場だが、食料品は勿論のこと、ゴルフ、サッカー、野球などといったスポーツ用品売り場や、ディスカウントの家電売り場、それに飲食店やゲームセンター、ボウリング場までも併設されている郊外型の大規模商業施設だった。高速道路や外環状道路も整備されているためか、他県からも客足は延びた。時間がある人なら、遊んで、見て、食べて、ゆっくりと一日は過ごせる場所だ。この完成された施設では、駅舎の前の老舗の商店街など、どうみても太刀打ちできない。誰が見てもそう思うにちがいなかった。
 満夫は何か複雑な気持ちで歩きだし従業員通路に向かった。裏側の出入口で年長の守衛に軽く会釈し、ビルの中に入った。開店までまだ小一時間はあった。冷房でひやされた館内の空気が、汗ばんだ身体を包み込んだ。業者の商品納入が慌ただしく行われている。専用の昇降機は満員だった。満夫はエレベーターを諦め、三階まで一気に階段を駆けた。呼吸を整え、売り場に入る。店内の照明と有線放送を小さく点け、釣り銭を確認してからレジスターに仕舞った。君子と由加はまだ出勤してこない。昨日、あれほど言ったのにと思う。しかたなく満夫は、昨日納品された夏物の子供服をパッキンから取り出し、伝票を片手に一人で検品を始めた。伝票と商品との数が合うと、今度は八十センチから百四十センチまでのサイズを、商品ごとに仕分けするのだ。一歳から小学校四年生ぐらいまでの、洋服を揃えていた。残った春物商品は来年のバーゲンにだすか、メーカーに返品できる商品は返してしまう。店内一掃の衣更えだった。
「ごめんなさい……」
 由加が息を切らしながら、店内に走り込んできた。出勤時間に三十分も遅れている。
「開店に間に合わないぞ」
 満夫は由加を睨み、軽く舌打ちした。十九歳の由加は、何事にも屈託がない。遅れてきても直ぐには仕事をする様子もなく、姿見で自分の格好を見詰め、ポーズをとっている。満夫が急かすと、照れながら子供のマネキンに服を着せはじめた。若い者は呑気だと思う。少しも悪びれる風がない。喧しく注意すると逆に不貞腐れるので扱いにくかった。
「ねぇ店長、子供さんはまだ?」
「馬鹿」
 由加の唐突さに、満夫は自分でも可笑しくなるくらいに顔を赤らめた。由加が怪しげな眼つきで笑っている。何か十九歳の彼女に揶揄われている感じだった。
「でも、奥様は子供さんほしいと思ってらっしゃるでしょう……」
 そう言われ、自分が今まで礼子と子供のことについて真剣に話し合ったことのないことに気づいた。由加のことませた奴と思いながらも、頭から否定はできなかった。仕入れをする際に、もし自分に子供がいたらこんな服を着せたいと思ったことがあるのも事実だ。本当に子供ができれば、仕事柄もっと張り合いもでるだろうと思う。しかし責任も重くなる。満夫はなるようにしかならないと思い、話を逸らした。
「君子さん、遅いなぁ」
 もう直ぐ開店の時間だ。作業はまだ全部は終っていない。昨夜の閉店時間前に、君子に男から電話がかかってきた。恐らくあの後、男と会ったに違いない。君子は電話口で、待ち合わせの場所を確認していたのだ。酒でも飲みに行っのだろうか。君子は酒が好きな女性だった。そして強かった。離婚してから本格的に覚えたのだという。色々と苦労があったに違いなかった。小学校二年生の男の子が一人いると聞いている。歳は満夫よりも三歳上だ。一年間仕事を供にしているが、彼女の離婚のことについては一切触れないことにしている。由加がウインドーのディスプレイを終え、店内の照明をあかるくした。店全体が夏の雰囲気に盛り上がった。帽子やショルダーバック、ベルトや靴などの小物類もよく演出されている。満夫が由加の演出を褒めると、彼女は肩を窄め軽く舌を出した。
 開店のアナウンスが館内に響きわたると同時に、君子が白い顔して現れた。満夫と由加の眼が合った。
「身体の調子でも悪いんですか?」
 由加が君子に近づき、気の毒そうに呟いた。
「子供のことで、色々とあって……」
 君子は、窶れた様子で俯いた。寝不足のせいかも知れなかった。満夫に深く頭を下げただけで、ロッカールームへと消えた。たぶん親権のことで揉めているのだろう。一度満夫も酒の席でその話を聞いたことがあった。しかし話を聞いてやることだけで、満夫にはどうすることもできない。 店が開店した。エスカレーターに乗って客が上がってくる。子供を抱いた若い主婦、中年の女性グループやお年寄り、それぞれ目的の商品を求めて階を上がる。朝は館内の掃除が行き届いていて、空気もすがすがしく汚れていない。満夫と由加は準備がすむと客が入店しやすいように、店舗の奥へ引っ込んだ。君子は化粧でも直しているのか、ロッカールームからまだ戻らない。
 店の入口でサングラスをかけた男が手を振っていた。よく見ると、李英雄だ。横に長身の白人女性が寄り添っているので、満夫は直ぐに解った。話すのは店内では拙いと思い、自分から通路に出た。
「此処におったんか?」
 英雄はサングラスを外し、納得でもするようにひとりで頷いた。相変わらず派手だ。外国製の腕時計を嵌め、首許には金のネックレスが光っている。女は言葉が解らないのか、澄まし顔でガムを噛み、マネキンに着せられた子供服を見詰めていた。香水の匂いが強かった。満夫の女を見る視線に気づいたのか、英雄がにやついた。
「どうだ……」
「何が?」
 満夫が惚けると、彼は女の腰に腕を回した。やっと女も笑った。眼はブルーに輝き、肌は真っ白だ。
「いいメメコばい……」
「大きな声だすな」
 満夫はむきになり、周囲を気遣った。店の中から、由加が不思議そうに見ていた。冗談、冗談と英雄が手を横に振る。女が口を押さえながらまた笑った。
「この前の話、どうだ?」
「……」
「頼む。悪いようにはせんばい。昨日もそのこと親父に話たら、そうかそうかと喜んどった」
「勝手に決めるな」
「なぁ、満夫よぉ。うちで働いてくれよ、頼むばい。そんな、女みたいな仕事するなよ」
 英雄は満夫に近づき、耳許で小さく呟く。母子連れの客が、店内に入ってきた。満夫も軽く咳をしながら店舗に入る。長話は迷惑だという合図だ。通路に佇む英雄が、またなっと言った。女も理解しているのか、長い指を広げて手を振った。君子はまだ戻らない。心配だ。母子連れの客には、由加が愛想笑いをしながら接客していた。


 換気が悪いのか、店内は炭火焼きの煙で充満していた。人いきれと炭火の熱で冷房の効きも弱く、客が出入りするたびに鉢巻きをした法被姿の男が、威勢良く太鼓を叩いた。深夜でも客が多く、活気があった。川北町駅舎の前の、商店街の中にある焼き鳥屋だ。満夫と礼子は、気分転換にと久し振りに二人で外に食事に出た。コンビニエンスストアでパートをしている礼子を迎えに行き、満夫は一度アパートの駐車場に車を停めてから出直した。偶には環境を変えて、食事をするのもいいと思った。家では二人の会話の内容にも限界があるし、パート勤めをしている礼子に、毎日の食事の準備も大変だろうという思いもあった。酒を飲まない礼子に、焼き鳥屋はどうかとも考えたが、満夫が誘うと快く付き合ってくれた。それどころか注文すると何でも食べた。洋食のレストランの方がよかったのではないかという思いも、余計な気苦労だった。満夫がビールを勧めると、少しだけと言い苦そうにゆっくりと飲んだ。
 店内は相次ぐ人の入れ代わりで満席だ。一時も空席が目立たない。満夫と礼子は法被姿の男達の迫力に圧倒され、カウンターの隅で、こっそり肩を寄せ合った。礼子の顔がうっすらと赤らみ、身体が熱く少し火照ったみたいと言った。そんな礼子を、満夫はとても愛おしく感じた。自分は気弱な性格で何事にも消極的な方だが、そんな自分に彼女は黙ってついてきてくれる。無口でも退屈そうな様子さえ見せない。満夫は、結婚に猛反対だった礼子の両親の方が、そんな頼りない自分を冷静に見抜いていた気がした。同じデパートに勤務し、恋愛関係から結婚話に進展したとき、満夫は礼子の実家である山口県の港町に挨拶に出向いた。彼女の家は、港町でも屈指の網元だった。大きな遠洋漁業の船も所有し、料亭も経営する事業家だった。最初に挨拶に行ったとき、礼子の老いた両親は寛大そうに見えたが、いざ仲人を立てて正式な結婚の話になると、猛反対したのだという。原因はやはり満夫の頼りなさと、将来性のなさだった。礼子は福岡県内の短期大学を卒業し、そのまま地場の大手デパートに就職した。そこで満夫と知り合った。しかしそうやって実家から結婚を反対されると、彼女は人が変わったように満夫に気を遣いはじめた。自分の両親は二人のことを何も理解する気さえないと言い、落ち込んだ満夫を癒すように庇った。そのことがあり、二人の関係はより親密になっていった。
 礼子の実家から、結婚の許しが下りたのは三年前のことだった。彼女の母親が、ウイルス性肝炎で入退院を繰り返していた時期でもあった。両親はすでに二人の心が離れないことに気づいているに違いなかった。実家にもどらぬ娘に気を揉み、しかたなく結婚を承諾したのだ。しかしそんな両親も、満夫と礼子の結婚式が終わると、申し合わせたように亡くなった。病状が悪化した母親は肝臓癌で亡くなり、それから百日も経たずして、父親は後を追うように脳溢血で倒れ死亡した。満夫と礼子の、幸せである筈の新婚生活は、最初から躓いた。自分達の我が儘が、老いた両親の死をいっそう早めたのではないかと満夫は考えた。その落胆振りは、礼子よりも酷かった。人よりも無口な満夫は、ますます無口になり、その頃から段々とデパートの勤務もうまくいかなくなった。二人の結婚に一番の反対者であった礼子の兄が、その後すべての家業を継ぎ、彼女は逃げるように満夫のもとに来た。
 礼子の顔が、真っ赤に火照っていた。ビールを勧めると、もういらないと手を横に振った。店内は人声でおおいに騒めいていたが、気になるようなこともなかった。むしろ鉢巻きに法被姿の四人の男達の活発な動きに、満夫は暫し見惚れ、羨ましい気さえなった。彼等には自分にはない何かがあると感じ、それが何であるかも身体が反応していた。溌剌とした声と機敏に立ち回る行動が、気持ちに張りを与え心地好い酔いを誘った。満夫は礼子に許可を得てから、小声で焼酎を一杯だけ注文した。少しぐらいはいいだろう。明日は休日だ。一週間の疲労が、除々に取れていくような感じがした。
「俺、店の女の子に赤ちゃんまだか?って聞かれたよ」
 酒が入ったせいか、満夫は由加から尋ねられたことを口に出した。礼子は少し躊躇いがちに笑った。
「わたし、義兄さんからも言われたわ。生むんだったら、早いほうがいいって……」
 結婚して三年目くらいが一番子供のできやすい時期なのか、満夫も親類や仲間達にそのことはよく聞かれた。子供ができればそれだけ責任がのしかかる不安はあったが、家庭環境が変わることで、自分にも生活に張り合いがでるのではないかと思えた。それに子供を生み育てあげることで、今は亡き礼子の両親にも恩返しできる気さえした。満夫は早く子供がほしいと思った。しかしそれを礼子にはっきりと言う勇気はない。以前礼子は、結婚をしても目標をもってちゃんと働きたいと言っていた。コンビニエンスストアのパートではなく、ちゃんとした社員で責任ある仕事がしたいと言っていた。もしも今、子供ができたとするならば、礼子の思いは実現しない。
「子供は、若いうちに生んだほうがいいと思うけど、わたしはそれだけに縛られず、いろいろなことしたいと思っているの。仕事でもいいし、ボランティアだっていい。そして資格も取りたいの」
 礼子の顔は真剣だ。満夫はそれはそれで彼女の意見だと、尊重する以外になかった。色々と考えを巡らしていると、暫く二人に沈黙が続いた。
 いきなり大きく太鼓が叩かれたと思うと、三人の男が店に入ってきた。満夫の仲間だった。町で自動車の修理工場をやっている康行と、この駅前商店街で店をやっている二代目の優と達也だった。満夫は態と眼を逸らし俯いた。それに気づいたのか、康行が笑いながら近づき、満夫の肩を後ろから軽く叩いた。満夫が驚いたように頷くと、礼子も康行の顔を見ながら頭を下げた。優と達也は、奥のテーブルに座り見知らぬ顔だ。
「久し振りだなぁ」
「あぁ」
 満夫は引き攣った顔で笑みを返した。康行の身体から、強い車のエンジン油の臭いがした。安全帽子の被りかたが悪かったのか、康行の髪の毛が逆立っていた。
「よかったら一杯やらんか?消防団のことで話もある」
 彼はそう言い、優と達也が座っているテーブルに視線を移した。彼等は煙草を吸いながら、余所を向いている。満夫のことを快く思っていない証拠なのかも知れなかった。町にできた大型のショッピングセンターに勤務するようになってから、満夫はここ一年、消防団の集まりにも参加していない。
「少し待つからいいわ。皆さんと話てらっしゃいよ」
 礼子も抵抗なくそう言う。満夫は康行から急かされた。渋々、優と達也が座っている奥のテーブルに加わった。二人に挨拶しても相変わらずだ。優は生ビールを飲みながら貧乏揺すりしているし、達也は人を小馬鹿にしたような舌打ちをした。
「おい、そんな態度はないだろう……。何もショッピングセンターができたのは、満夫のせいじゃないんばい」
 康行が二人を宥めた。ショッピングセンターができたことで、此処の商店街の売り上げが、三割りから五割りも落ち込んでいることは噂で聞いていた。彼等にすれば死活問題であることは解っていた。しかしだからといって、満夫にはどうすることもできなかった。学生時代から特に仲が良かっただけに、優と達也は満夫から裏切られた気持ちになったのだろう。康行からビールを勧められたが、満夫は断った。なんとなく気不味かった。話すことも別に何もなかった。満夫はカウンターで、一人で退屈している礼子を見遣った。
「別嬪のかあちゃんを、一人にしとったら心配ばい」
 初めて優が口を利いた。嫌味だった。達也がにやついた。「無理すんな?」
 康行が満夫を気遣った。
「じゃあ悪いけど、今夜のところは先に失礼する」
 満夫は煮え切らない気持ちだったが、しかたなく礼子が待つカウンターに戻った。本当に自分は不器用な人間だと思う。後ろからついて来た康行が、心配するな奴等には俺がちゃんと言っておくと、満夫の耳許で呟いた。


 庭の片隅に、美しい紫陽花が咲いていた。黒南風のせいで空は暗かったが、小さな花橘も芳しい香りを放ち目立っている。それらの濡れた葉に雨蛙が宿り、辺りを窺うように潜んでいた。兄の浩司が納屋にトラクターを入れ、顔を顰めながら煙草を吸った。その横には田植え機も準備されている。満夫は合羽とゴム長靴を脱ぎ、軒下で一息入れながらぼんやりと庭の景色を眺めていた。久し振りの野良仕事は、身体に堪えた。昨夜遅く礼子と焼き鳥屋からアパートに帰ると、浩司から電話があった。店の仕事が休みなら代掻きを手伝ってくれということだった。早い農家は、もう田植えを始めていた。しかし実家の浩司のところの田圃は、平地が多く水入れが悪いので、他所よりも作業が遅れていた。雨の降りも悪いし、浩司はそう言い、恨めしそうに天を仰いだ。顔は伸びきった髭のせいでどす黒かった。歳は満夫と一回り離れている。満夫は両親の遅い子だった。兄の浩司は、最近はとくに死んだ親父に段々と似てきたと思った。まるで昔の父を見ているようだ。それに気づかない浩司が滑稽だった。満夫は勝手なことばかり考えながら、ひとりで苦笑いした。しかし兄の浩司は何も言わないが、家を守っていくことがどれだけ大変なのか、満夫にはよく解っていた。
「まぁ、ビールぐらい飲んでいけ」
「あぁ」
 満夫は浩司に頷き、首許の汗をタオルで拭った。後は田植えと田の草取りを手伝う。その頃には、近くの親類も来てくれる手筈になっていた。夏至が近づくと陽が長い。鶏が示し合わせたように鳴きだした。義姉の和代が母屋から周章てて出てきて、鶏に餌を与えようとしていた。満夫に気づき、笑いながら挨拶をした。
「慣れんことで、大変でしたでしょう」
「運動不足には、ちょうどよかったですよ」
 満夫は痩せ我慢し、笑みを返した。トラクターの固いタイヤについた泥を取り除いていた浩司が、和代にビールの用意を急かした。玄関口の犬が長い舌で鼻を嘗め、そんな遣り取りを羨ましそうに流し見た。和代がビールを運んでくると、満夫と浩司は軒下に腰を下ろした。
「今年は、空梅雨やろうか?」
 和代が、満夫にビールを注ぎながら不安げな面持ちで尋ねた。
「どうやろか」
 満夫は半信半疑に答えた。本格的な雨はまだ降らなかった。降りそうで降らない、妙な天気が続いた。御熊川の水位も、だいぶ下がっていた。
「こんな状態じゃ、田植えしてからの水引きはできんかも知れん」
 浩司が勢いよくビールを呷った。水引きがうまくできないと、田の草取りが大変だった。
「なんでも、うちら自然が相手やし……」
 和代がそう言い、浩司にもビールを注いだ。奥で甥の修司が静かにテレビを観ていた。身体は大きいが動きは鈍く、やはり無口だった。中学の三年生だ。満夫がそんな逞しくなった修司を見詰めていると、和代が大声を張りあげた。「ほら、満夫おじさんが来とんなるよ。挨拶ぐらいせな」「今晩わ」
 修司はそう言われ、声変わりの低い声を出した。和代が難しい年頃なんやからと言い、溜め息をついた。浩司は息子の修司に背を向け、ふんと顎をしゃくりながら、勉強をひとつもしないと嘆いた。ナイフを持たないだけでも親孝行だと思う。満夫は昔の自分を思い出し、血筋は争えないものだと急に可笑しくなった。
「礼子さんはコンビニの仕事、愛想もよくなかなかの評判よ」
「どうやら……」
 満夫は和代からそう言われ、少し照れた。狭い町中のことは、人々に何でも知れ渡る。善いことも悪いことも、凡て筒抜けだ。礼子が客に愛想よく振る舞うのは、デパート勤務の頃に身につけた習性で、今も昔と同じように変わらず仕事をしているだけだ。礼子が褒められるのは、悪い気はしないでもないが、浮かれてはならないと満夫は何時も思う。
「満夫よぉ。パチンコ屋の息子、なんて言ったっけ……」
「英雄か?」
「そうそう、英雄たい」
「それが、どうした」
「あんな奴と、付き合うな」
 満夫と浩司の話に、修司が興味深そうに聞きいっている。浩司が睨むと、修司は不貞腐れ二階へ上がった。
「どうかしたんか」
「なあに、派手な車に乗り回して外人の女と遊びあるくような男ばい。皆、いい噂はしよらんぞ」
「俺には関係ない」
 満夫は残りのビールを飲み干し、帰り支度にかかった。そろそろ礼子を迎えに行く時間だ。和代が礼子によろしくと言い、大きな袋に枇杷と胡瓜と玉子を持たせてくれた。


 入口の大きな温泉マークの暖簾が、人の出入りで揺れていた。満夫は車を駐車場に停めてからシューズロッカーに靴を仕舞い、フロント前の椅子に暫く腰掛けた。兄の浩司の野良仕事を手伝い、身体は汗で粘ついている。疲れを癒すために週に一度は来る、健康ランド湯福亭だ。アパートから車で十分の、賢硫山の麓だった。妻の礼子も誘ったが、今夜は風呂に入れない日だった。それで満夫はしかたなく一人で来た。とくに此処の冷凍サウナが気にいっていた。マイナス六度の冷凍室で、高温サウナで出た汗と火照った身体を急激に冷やすと、体内の新陳代謝がよくなり、とてもすっきりとした気分になれた。満夫は自動販売機で入浴券を買い、フロントに渡してから脱衣場に入った。男湯の方は人が多く、熱気と湯気が充満している。服を脱ぎロッカーに入れようとすると、後ろから肩を軽く叩かれた。振り向くと、英雄だ。素肌の胸に長い大きな金色のネックレスが光っていた。
「偶然だな。皆も来とるぞ」
 そう言うと、意味ありな笑みを浮かべた。康行や優や達也のことだった。昨夜も焼き鳥屋で会ったばかりだ。三人は仕事が終わっているが、パチンコ店はまだ営業中だ。英雄が今の時間、此処にいるのが不思議だった。
「仕事、終ったんか?」
「温泉に入って、サウナに入って、健康な身体をつくるのも仕事のひとつたい」
「いい身分だな」
「お前が俺の店で早く働いてくれたら、俺はまだまだ自由がきくばい」
「そんなこと、ありえない話だ」
「やっぱりか……」
 英雄は肩を落とした。執拗につきまとわれるのは、迷惑だった。浩司が言うように英雄に深く関わると、碌なことはないかも知れない。満夫はタオルで前を隠し、かかり湯の前に立った。外に眼をやると露天風呂で康行達三人が、上気した顔で寛いでいた。満夫と英雄に気づくと、康行が笑いながら手を振った。外とは透明の厚いガラスで仕切られ、彼等の声は聞えない。三人が親密に話し込んでいた。たぶん自分と英雄の悪口だろうと満夫は思う。ちぇっと舌打ちしながら、英雄がかかり湯を被った。
「あいつら、何か企んでいるぞ。最近は何時もいっしょばい」
「知るもんか」
 満夫は英雄を無視し、高温サウナに入った。いきなり全身を熱気で包まれ、頭を締め付けられる感じだった。数人の男達が溢れ出る汗を我慢しながら、テレビを観ていた。段々と身体が火照りだし、こめかみから汗が流れ落ちる。英雄が隅の方で、大仰に首や腕を回しながら体操をしている。全身に艶はあるが、何故か毛が薄い。二人の男がサウナ室を出ていった。英雄が真っ赤な顔で息を切らしながら、満夫の横に座った。
「風呂を出たら、ビールを飲みに行くぞ。付き合えや」
「いや帰る」
「かあちゃんか?」
 英雄が汗で濡れた腕を満夫の肩にまわし、小指を立てた。その腕を振り切り、満夫はサウナ室を出た。汗を水で流し、水風呂で冷水浴をした。弛んでいた皮膚が、一気に縮まり全身に電流が流れた感じだ。初めの強い刺激を辛抱すると後は肌全体の毛穴が引き締まり、疲労が除々に回復するようだった。頭から水に潜り、暫く動きを止める。冷たい水の中は、ちょっとした別世界だ。満夫はその入浴法が気に入り、最近は癖になっている。その優越感に浸っていると、潜った身体に誰かが触れた感じがした。周章てて水風呂から身体を浮かすと、露天風呂から戻った康行達の顔があった。優と達也もいる。三人がうす気味悪く微笑んでいた。
「フロアーで待っとくばい。ビールでも飲もうや」
 康行が優と達也の顔を見ながら、確認でもするようにそう言う。二人も頷いた。
「何か、あるんか……」
「外でもない。ただ俺達、お前さんを誤解しとった」
 靴屋の優が詫びるように言う。彼等は早い時間からこの風呂に来ているということだった。満夫が勤めるショッピングセンターの情報も聞きたいということだ。休みの日まで仕事の話は結構だ。そう思うが今までの彼等との蟠りが解決すれば、自分のひとつの悩みは解決できる。満夫は彼等の誘いを、納得でもするように了解した。
「おぅ、役者が揃うちょる。今夜はまたなんごとな」
 英雄が急に中に入った。三人が怪訝な顔をする。俺も誘うてくれと、康行達に詰め寄った。
「ロシアの女はどうしたな?」
「知っとったんか」
 康行と英雄の会話に、満夫はうんざりした。何でも英雄が関わると、話が別の方向に逸れてしまう。駅舎の前の商店街で商売している優や達也と、これからのことをゆっくりと話し合いたかった。そのチャンスを取り持ってくれたのが康行だ。今度は達也が英雄に尋ねた。
「女も一緒な?」
「匂いでも嗅ぎたいんか」
「馬鹿な……」
 達也が赤面した。水風呂を出ると、満夫はその横のラジウムの泡風呂に浸った。英雄も真似るように身体をその湯に沈めた。
「外で待っとくばい」
 と康行が満夫に念を押した。
「おぅ。俺もこの風呂の中で小便したら直ぐあがる」
 英雄が大声を張り上げた。満夫は英雄の無神経な言い方に幻滅した。横で入浴中の老人が睨んでいる。英雄は周章てて、冗談、冗談、嘘ですばいっと言い頭を掻いた。
 湯福亭を出てから、川北町の県道沿いにあるファミリーレストランに行った。サウナで汗を流した後のビールは格別で、満夫達は大ジョッキを一気に飲み干した。一息つくと英雄が饒舌になり、相変わらずの自慢話を始めた。駐車場に停めてある自分の外車の話から、ロシア人のソニャータという彼女の話までつづいた。外車は即現金で購入したとか、女は中洲のショーダンサーで飲み屋に通いつめて落としたとか、満夫にとってみれば他愛無い内容ばかりで、特別に耳を傾けるような話ではなかった。しかし、他の三人もいる。これも付き合いだと割り切り我慢した。満夫達がショッピングセンターの売り上げの話や、商店街の店の話をはじめると、英雄は退屈そうに話を変えた。
「景気のいい話、ないんか?」
 と意気込んだ。
「この町で、お前ほど景気のいい奴はおらんぞ」
「当てつけか」
 英雄が剥れた。
 康行の言うとうりだと満夫も思う。同年代で特に羽振りがいいのは彼ぐらいのものだ。
「康行。中古のバイクや乗用車を集めてこいや、俺が買ってやる」
「何故だ」
「あるルートを通じて、海外に輸出するんたい。ちょっとした金儲けになるばい」
 英雄が小声で、身体を乗り出すように語りかける。康行と優と達也が、互いに顔を見合わせた。自動車の修理工場をやっている康行に、英雄がうまい話をもちかけているのだ。
「本気か?」
「当たりまえたい」
 驚いた優に、寂れた商店街で流行おくれの婦人服や靴を売っていても金になるまいと、英雄が早口で捲くし立てた。満夫が本気にするなと三人を鎮めようとすると、お前もマンションのひとつぐらいほしいだろうと揶揄った。康行が車はどうして集めるのかと尋ねると、英雄は真顔で盗んでこいと言った。満夫はこれには呆れてものが言えなかった。とんでもない話だ。三人が笑いだした。ウエイトレスが注文を取りに来ると、不貞腐れた英雄がビールだけでいいと追い返した。


 車を停めてから、満夫は思案した。出勤の時間にはまだ間がある。色々と考えを巡らした。田植えが終わった広い水田を眺めながら、康行の自動車の修理工場まで立ち寄る決心をしていたのだ。昨夜、湯福亭に行きそこでたまたま合流した英雄や康行達と、ファミリーレストランへビールを飲みに行ったが、英雄の馬鹿げた話が退屈で、満夫は途中で皆と別れ一人で帰宅した。しかしあの後、彼等のことがどうなったのか気掛かりだった。それに優や達也と久し振りに話し合えた、お礼も言いたかったのだ。
 修理工場の前で暫くじっとしていた。ナンバーを外した廃車の錆びた車体が山積みされ、工場の中から強烈なエンジンオイルの臭いが洩れていた。電気は点けられていたが、人影はない。工場といっても康行ともう一人、若い整備工がいるだけだった。満夫は車の中から小さくクラクションを鳴らした。奥から眠そうな顔の康行が現れ、気づいたのか笑いながら戯け、満夫に向って敬礼した。
「お前が利口ばい」
 康行は酒臭い息を吹きかけ、昨夜の続きを話し始めた。あれから英雄の強引な誘いで、彼の行きつけのスナックに四人で行ったという。酒が入った英雄の機嫌は悪くカラオケに熱中していた康行達に無理矢理、酒を飲ませたと言った。そして散々、自分の家庭内のことを愚痴ったという。
「英雄は本当は、親父さんともうまくいっていないと乱れていたばい」
「毎日、あの調子じゃな」
「店は従業員に任せっきりだし、親父さんが怒るのも無理はない」
 康行の酔いはまだ醒めていない。舌の滑りが悪かった。話によると英雄の父、李基徳は大変な苦労人だと聞いていた。終戦前、朝鮮から日本に連れてこられ、炭坑で強制労働させられた。戦後も炭坑で働いた。金を貯め、日本の女性と所帯を持ってから、炭坑町に小さなパチンコ店を開いた。それが当たり、店は繁盛した。しかし、いいことばかりではない。金が直接からむ商売で揉めごとも多く、ヤクザ者や質の悪い客に、脅かされたり身体を斬りつけられたりしたという。今でも李基徳の左頬には、深い刀傷があった。やがて石炭が不要になり、炭坑町は寂れた。それを見越していた李基徳は、今度は福岡市内の街中に店を開いた。やがてその店も日本の高度成長とともに流行り、莫大な利益を生んだ。そしてひと財産つくったかと思うと、今度はバブルが崩壊し世の中の不景気とともに、店を郊外の田舎町に移した。それが今のパチンコ店パーラーキングだった。そんな苦労人の親父の姿を見て育った筈の英雄に、ひとかけらの労働意欲も見受けられなかった。毎日、外車に乗り回し女と遊ぶだけだ。
「あいつ、中古車を輸出する話、本気だぞ」
 康行が笑いながら言った。
「馬鹿な」
「あのロシアの女が、絡んでいると思うんばい」
「本当か?」
「いや、それは俺の勘ばい」
「彼女、言葉できるのか?」
「片言の日本語を少し喋るらしい。しかし、英雄は英語ができるので、その心配はいらんばい」
 康行は昨夜の英雄の話から想像でもするようにそう言った。女は今は中洲でショーダンサーとして働き、仲間四人と一緒に生活しているらしかった。福岡に来る前は、中国の大連にもいたようだった。ビザの関係で滞在は三ヶ月ということだった。それを英雄は、名残惜しそうに話ていたと康行が言う。満夫は可笑しさを堪えた。本気なのは女の方ではなく、彼女に夢中になってしまった英雄の方だ。
「酔っ払って、結婚するかも知れないと言っていたぞ」
「どうかしてるよ」
 それを聞いた満夫は、今とはまったく違う小学校の頃の温和しく礼儀正しかった英雄を思い出した。父の李基徳はまだ若く、苦労人であったため厳しく育てられたのだろう。口数も少なくどちらかといえば目立たない存在だった。何時も人より前に出るような行動はとらなかった。眼は切れながで細く痩せてもいたが、芯は案外と強かった。郊外の田舎町ではその頃、英雄の家が街中でパチンコ店を経営していることは、町じゅうでちょっとした噂になっていた。住んでいる家も大きく立派なものだった。そんな英雄を級友達は羨望の眼で見ていた。しかし彼はけっして威張ることはなかった。逆に苛められた。それでも彼は抵抗することもなく、じっと無口で我慢していた。満夫はそんな姿の英雄に何時も同情していた。同情はしていたが、一人ぽっちの彼を救うことはできなかった。縦しんば救うと、今度は自分も苛められる恐れがあるからだった。その頃満夫は、自分よりも英雄の方が本当は勇気があるのかもしれないと密かに思っていた。しかし彼は爆発した。クラスの中で親分肌の菓子屋の次郎が人種差別用語で執拗に英雄を揶揄ったときだった。あの時は、クラスの全員が見ていた。引っ込みがつかなくなった英雄は、身体を震わせ大男の次郎に頭から突っ込んでいった。頭突が見事に次郎の顎に命中し、あっけなく次郎は床に倒れた。口の中が鮮血で染まり、歯が二本折れた。そんなことがあってから、クラスの誰彼となく英雄を苛める者はいなくなった。皆から一目置かれるようになってからも彼の態度は決して変わることもなかった。満夫はあの時、自分の胸の痞えがとれたことをはっきりと覚えている。
 そんな英雄が、がらりと両極端に人が変わったのは両親が離婚し、父親の李基徳が若い妻を娶った後だった。満夫や英雄は高校生になっていた。その頃より、外国に興味を持っていた英雄は、一年間アメリカに留学した。そして帰国した時には身体がひと回り大きくなり、語学ができ皆から持て囃されると、横柄な態度をとるように変化していった。高校を卒業すると、仲間内で彼だけ東京のある私立大学に進んだ。東京で何を学んだのか、六年して帰福した英雄は大人びてハイカラだったが遊び好きで狡猾な男になっていた。
 雨が少しだけ降ってきた。しかし本格的な降りとまではいかない。満夫は車のワイパーのスイッチを捻り、腕時計を見た。九時二十分だ。店の開店時間まで、まだ四十分はあった。賢硫山は雲で覆われ、姿かたちがない。水田地帯の朝の空気を思い切り吸い、車のアクセルを空吹かしした。
「英雄の人生たい。奴が自分流に生きればいいんたい」
 康行が突き放すように言った。満夫もそう思う。昔みたいな子供ではないのだ。外国の女性と結婚しょうが何しょうが、本人が責任を取れればそれでいいのだ。他人がとやかく干渉すべきことではない。満夫の車の後に、急ブレーキをかけて停まった軽自動車の中から、若い整備工が軽く挨拶し工場の中へ急いで消えていった。それを眺めていた康行が、不景気だなぁと呟き、満夫に車検は自分のところに任せろと頼んだ。


 妙な雰囲気だった。満夫が礼子に話し掛けても、考えごとをしているようで彼女は上の空だ。何かあるなっと思い、聞き糺すと礼子が急に看護専門学校に行きたいと言いだした。よく聞くと最終後期の試験でも受付けが来年の三月というから、時間的にはまだ九ヶ月はあった。以前から資格を取り、ある程度任せてもらえる仕事がしたいということは聞いていた。責任ある仕事に打ち込みたいとも言っていた。家事とパートの毎日の繰り返しだけでは物足りなかったのだろう。話を聞いていると、ずっと前から考え続けていたのだと言う。満夫は結婚してから三年間、礼子がそんなことばかり考えていたのかと思うと、結婚生活の形そのものにズレがあったことを初めて知らされた。もともと同じ仕事の職場結婚だったために、結婚後は仕事を辞めてほしいと頼んだのは満夫のほうだった。家事に専念し、そのうち子供ができればスムーズに育児もできる。しかしそのことは満夫自身が、勝手にひとりでそう思っていただけだ。礼子の考えは違っていた。結婚後も勿論仕事を続け、子供を生むことなど最初からあまり考えていなかったのだ。
 入梅はとっくに過ぎていたが、纏った雨も降らず天候が不順で今年は空梅雨かとも思われた。部屋の中は冷房を入れるにはまだ早い気もするし、かといって窓を開け放していては肌が汗ばんだ。満夫はここ三四日、礼子とゆっくり会話する時間がなかった。仕事の打ち合わせや、町の仲間との飲みごとで帰宅時間が遅かったのだ。久し振りに仕事から真っ直ぐ帰宅すると、いきなり礼子からそんな話を打ち明けられ戸惑った。
「看護婦の資格をもっていれば、病院や医療センターの仕事もできるし、高齢者介護のボランティアだってできると思うの」
 礼子は真剣にそう言った。看護専門学校を出るまで、三年間時間をくれとも言った。そんな計画があるのなら、それはそれでいいと満夫は思う。しかし実際に礼子が、学校を三年間も続けられるだろうか。また学校を続けることにより、無理して家事のことがうまくできないのではないかと心配した。
「仕事がしたいのなら、もっとほかの仕事もあると思うんだ」
「その仕事がしたいの」
「どうして……」
「悪いけど、あなたと結婚する前から少しは考えていたの。デパートに就職してからも早く仕事辞めて、看護婦になりたいと思っていたのよ」
 礼子が俯いた。満夫は今まで全部とはいわないまでも、礼子のことある程度は理解しているつもりでいた。しかしその考えはみごとに裏切られた。そんな彼女の考えに気づきもしなかった自分に満夫は苛立った。
「私達が結婚する前に、お母さんが肝臓の病気で入院してたでしょ。あの時、わたしつくづく思ったわ。病人を適切な処置で看護したいと思ったの。母の場合は、もう手遅れだったかも知れないけど、だめはだめでも最後まできっちりと手を抜かない看病の方法だってあったと思うの。お年寄りの病人が多くて、看護婦さんたち忙しく仕方なかったかも知れないけど、点滴の針だってなにも同じ部分に何回も打つ必要がなかったと思う。母は口がきけなく、何も言えなかったけど、腕は腫れあがり本当に痛そうだったわ。眼を見れば解ったもの……」
 礼子は頬に落ちた涙を、静かに拭った。彼女の母の死は、自分達が心配をかけたせいもあるので、満夫は言葉が出なかった。また礼子が看護婦の仕事をしたいと思いだしたのは、母の死が直接起因していたことも初めて知った。
「本当に、あの時は悩んだわ」
「どうして俺に相談してくれなかったんだ」
「両親や兄から結婚反対されていたし、あなたもそれどころではなかったじゃない」
 礼子が言うように、実際あの頃の満夫は彼女の相談を真剣に考えてやるほどの余裕はなかった。結婚を反対された衝撃も大きかったが、何をするにしても自信を喪失していて、抜け殻同然だったのだ。そんな精神状態を支えてくれたのは、むしろ礼子のほうだった。今だからこそ彼女の相談を冷静に聞いてやることができるのだとも思った。看護専門学校で学び看護婦になろうと、四年近くも考え続けてきた礼子の意志の強さに、満夫は協力せざるをえないだろうと思った。
「だから本当は、結婚も最後まで悩んだわ」
「俺のことでか?」
「そうじゃない。あなたには悪いと思うけど、母があのような状態だったし、看護専門学校に行ってまで結婚生活が続けられるか不安だったのよ」
「じゃあ、どうして結婚したんだ」
「あなたへの思いが強かったのは勿論だけど、父や兄が頭からあなたとの結婚を反対するものだから、ひとつは意地もあったわ……」
 思いあたる節がないこともなかった。そう言われ、満夫は結婚式の日のことを思い浮べた。あの時、式場であるホテル側とちょっとしたトラブルを起こした。挙式が始まろうとしているのに、新婦の礼子が姿を晦ましたのだ。ホテルの人達や身内で、周章てて捜したが見つからなかった。新婦である礼子の両親の顔は青ざめ、満夫の身体は震え続けた。ホテル側は新婦が戻るまで、時間を少し延長させる内容を皆に伝えた。幸いにその日ホテルでの結婚式が行われるのは、満夫達の一組だけで時間的にはある程度融通がきき助かった。皆が苛立ち右往左往しているところに、一時間経ってからひょっこりと礼子は現れた。疲れきったようで真っ青な顔をしていた。彼女の両親がどうしたのかと問い詰めたが、礼子は何も言わなかった。彼女の両親は、急に眩暈がして休んでいたと皆に謝った。やっとのことで披露宴が始まると、司会者は新婦が結婚式を忘れていたとジョークを飛ばし、招待客の笑いを集めた。あの後、満夫は礼子に何も聞き糺さなかったが、今考えると彼女はやはり最後まで本当に結婚を迷っていたのだと思った。
「学校に行って、看護婦になりたいのならそれでもいいよ」
「本当?」
「俺もできるだけのことはするから……」
 満夫がそう言うと、礼子がやっと笑った。
そうは言ったものの、本当に協力しながらうまくやっていけるのだろうか。満夫の心の中に不安が広がった。


 川北町の駅舎から国道に沿ってショッピングセンターまでの道程に、何店舗かの飲食店があった。その中の行きつけの喫茶店で、満夫は店の閉店後に君子と由加と三人でミーティングをした。町に大型のショッピングセンターがオープンして一年。テナントとして入店している満夫達の子供服店も、どうにか売り上げ予算は達成できたが、自分等が設定した売り上げ目標まではいかなかった。その一年間を振り返り、反省を含めての簡単な会議だった。社長の前野から毎月注意されていたことだが、期末になると必ずといっていいほど在庫が予定よりもオーバーした。売り上げが予算通りいっているので、結果として満夫の商品仕入れが多すぎたことになる。仕入れをする際には、君子と由加の意見を取り入れることで話が纏まった。
 反省会が終わると、ビールを飲み軽食をとりながら雑談になった。若い由加は相変わらずのんびりとしていたが、君子は別れた亭主が子供の養育費を払わないと愚痴った。満夫は何時もできるだけ君子の離婚については触れずにおこうとおもうが、酒が入ると必ずといっていいほど君子は自分の方から喋りだす。由加が今のところ、関係ないというような顔をして聞いている。最初はどうしても恋愛感情だけが優先し、相手を十分理解しえないで結婚する場合もあると満夫は思う。もしかしたら自分と礼子の場合も、そのケースに含まれているような気さえした。君子みたいな結果的に離婚となる場合はどうなんだろうとも思う。結婚し時間が経つことによって互いの生活の中から、考え方や意見が段々と違ってくるのだろうか。日常に満足しすぎてのことなのか、不満からくるのか、その噛み合わない歯車をどうやって埋めていけばよいのか。満夫は君子の話を聞きながら考えた。そんな場合は相手を思いやる気持と、あとは辛抱が大切だと思う。
 サンドイッチを忙しなく口に運んでいた由加が、今度は満夫に店長は奥さんと、どうなのよぉっと口を尖らした。満夫はそう言われ笑って誤魔化そうとしたが、君子が横から誰でも人にいえないことぐらいあるわょっと付け加えた。由加が満夫の顔を覗き込むように、本当?と尋ねた。
「それは人間だから意見の食い違いや、考え方の違いくらいはあるさ」
 満夫はそう言い、先日礼子が突然、看護婦になりたいと言い出したことを思い浮かべた。
「人それぞれだから、よく解らないけど、それは価値観の違い、生き方の違いじゃない」
 ビールを飲んで赤い顔になった君子が現在はそういう言い方をするのだと、まるで全世界の女性を代表するみたいに言う。由加が眼を丸くした。
「店長みたいに仕事や仲間の付き合いで、ほとんど深夜帰宅になると、奥さん寂しいと思うわ。ましてお子様もいらっしゃらないし」
「そんなことないと思う。コンビニのパートの仕事だってやっているし」
 満夫は君子に反論した。
「そこ、そこが違うのよ。旦那は外で仕事をしているから、大体は妻に家庭のことは任せている。しかしそれだけではあまりにも退屈そうだから、パートにでも行かせる。それだったら妻も満足するだろうと。その安心感というの、その考え方が危ないのよ」
 満夫は君子から意見され、礼子もそんなことを考えているのかと、改めて知らされる気がした。
「その妻の寂しさをほとんどの夫の人たちは解っていない。妻にとってのその心の問題を男の人は理解してやろうともせず、簡単に素通りしてしまうのよ」
 離婚歴のある君子の言葉に説得力があった。君子自身がそのようなことを経験したのかどうか、それは解らなかったが、家庭の中での不満を妻達はどう解決するか模索しているのだと言う。
「自分は本当にこれでいいのか、真剣に考えることが必要なのよ。それが生き方を変えることにもなると思うの」
「結婚って、何かむずかしいね。なんだかわたし嫌になっちゃった」
 満夫と君子の遣り取りを、じっと聞いていた由加がそう言い、面倒臭そうな顔をした。しかし礼子と結婚してまだ三年、満夫は自分たちはそこまではいっていないような気がした。ましてや礼子が看護婦になりたいと思い始めたのは、結婚する前のことだから、結婚生活に不満があっての思いつきではない。しかし彼女が満夫に、そのことを三年間も打ち明けなかったのも事実だった。 そのことを此処で君子や由加に話そうかとも思ったが、何故か躊躇われた。漠然とした不安もあるがこれから先は長いのだから、問題が起きればその都度、逃げずに解決していく努力をしなければならないと満夫は思った。
「ねえ、それはそうとちょっと話したいことがあるのよ」
 君子が眼を輝かせながら、白い歯を見せた。含み笑いさえ浮かべている。何よ、何よと由加が耳の神経を尖らすように君子に近づいた。君子は勿体ぶった表情だ。
「絶対内緒よ?」
「いいからさぁ。早く話してよ」
 由加が急かした。
「わたし社長の前野から口説かれているの。あのスケベ、何を考えているのやら」
 満更でもない顔だった。君子に余裕すらある。彼女が亭主と別れて、今は独り身であることを知ってのことだった。満夫は呆れた。従業員にまで手を出すとは、その話が本当ならとんでもない社長だ。
「で、どうするの君子さん?」
 由加が余計な質問をする。
「決まっているじゃない。勿論、無視よ」
 君子は鼻にもかけないというように煙草を吸いだした。五店舗も子供服店を経営する社長が、内緒で従業員を口説くとは、本当に何が起こっても不思議でない世の中だ。しかし分別があると思う。いい歳の大人がとも思う。満夫はそれは飽くまで個人的なことだと思わなければ、仕事が続けられない気がした。


 夜風が植田の苗を揺らし、周りの鼻につく蜜柑の花の香りを運んできた。貴重な雨がやっと二日続いて降り、田園地帯はみるみる豊富な水を一面に張りつめた。誘蛾燈の明かりが、近くで鋭く光っている。町の区域の消防団が公民館に集まり、月一回の消防太鼓の練習を終えたばかりだった。豊作を祝う神社での秋のお祭りには、毎年披露することになっている。二十代の若者の参加は少なく、三十代から四十代までの満夫達の年齢のものが多かった。山を削り造成した土地に住宅が建てられたり、県道沿いに大きなマンションが建ったりして町の人口流入は増えたが、消防団に参加するのは昔からの地元の人間に限られていた。
 満夫は一年振りに練習に参加した。それまで自分が、地元が反対し続けてきたショッピングセンターに勤務していたために、仲間から白い眼で見られていることを意識して、参加を中止していた。しかし最近になって川北町駅前の老舗の店の優や達也達との誤解がとけ、再び消防団に加わるようになった。満夫にとっての参加理由は、ただそれだけではなかった。実際に参加して訓練や情報に敏感であれば、自分が勤めているショッピングセンターで火災が生じた場合、役立てると思えたからだった。火災現場に消防署が駆けつけるまでの、その任務の重要性は大きかった。
「この空気、忘れとったか? 」
 康行が缶ビールと乾きもののつまみを、満夫に手渡した。公民館の中は、男達の汗の臭いと熱気が漂っていた。満夫は長老で目付役である森村に軽く会釈し、康行や優や達也と労を犒い乾杯した。とくに康行は活動に熱心で皆からの信頼も熱く消防団の会計係を任せられていた。
「汗をかき、何もかも発散できて気持ちいい」
 満夫が間を置いてそう言うと、皆は呆れたように笑い出した。ビールの喉咽ごしはたまらなく旨かった。団員は地元の農家や自営業者が主だった。毎日が町内での仕事で時間にも融通がきくからだ。緊急事態に、直ぐに対応もできる。団員は幼少の頃からの仲間で、気心が知れ特別気を遣うほどの仲でもない。しかし結婚をし子供を持ったり、色々な職業に就いたりすると置かれている環境が違うせいか、互いの立場を尊重しどうしても相手のことを考えてしまう。なんとなく大人の、そんな輪ができるのだった。久しぶりの満夫の参加に練習は盛り上がったが、一年間も何故欠席していたのか、聞き糺す者はいなかった。
「満夫、子供はまだできんのか?」
優が大声をだすので、皆が冷やかした。
「こればっかりは、どうにもならん」
 満夫が照れると、つくり方知らないなら手伝うばい、と誰かが野次った。赤面した満夫に礼子は愛想がいいと皆が褒めた。自分たちの仲間の中では、もう小学校の高学年の子供がいる者もいる。しかし今の家庭の状態では、満夫はそれも望めそうにない。
 今夜は何故か機嫌のいい靴屋の優が、駅前商店街の活性化を諮るための計画案を皆に発表していた。本格的な夏に向かって、特殊な外国もののアイスクリームを格安で売ったり、近くの潰れたガソリンスタンドの空き地を借りて、大掛かりな百円市を開くといった内容だった。それはあくまで計画の一部だろうが、何もしないよりはましだろうと満夫も思った。目新しさを企画するだけで人は集まる。婦人服店の達也が正式に決定したら協力頼むばい、と皆に言った。しかし景気のいい話ばかりではない。新しく店舗を改装しようとか、事業を拡張しようと考えている店に、銀行が金を貸さないとも優が嘆いた。だから自分等でやれることをするだけだと言った。不景気が続き、小さな商店を取り巻く環境は厳しかった。その現実は満夫にもよく理解できた。町内にできた大型のショッピングセンターの子供服店に就職したと、商店街の人達から白い眼で見られたが、その前には福岡市内のデパートを自分も馘首同然に辞めたからだった。
 盛り上がった雰囲気の公民館の前に、急ブレーキをかけて車が停まった。突然、英雄が現れたのだ。車は真っ赤な外車だった。目立つので皆よく知っていた。全員の視線が英雄に集まった。急いでいるようにも見えた。
「おう、揃うとるな。ずいぶん探したばい」
 英雄は公民館に入ってくるなりそう言い、慌ただしく吸っていた煙草を揉み消した。呼吸が少し乱れている。康行や優や達也に手招きをした。それを眺めていた目付役の森村や他の者達が帰り支度を始めた。
「太鼓の練習は終わったばい。何か用件でもあるんな?」
 優が英雄に、突けんどんに言う。
「用があるけん来たんばい。それとも俺は、この場所に来たらいかんとでも言うんか」
 英雄は父の李基徳が、毎年町の消防団に多額の寄付をしていることを知っていた。パチンコ店キングに火災が発生すれば、町の消防団にいち早く駆けつけてもらいたかったからだ。
「あんまり威勢がいいもんだから、練習の手伝いかと思うたばい」
「馬鹿言え!」
 英雄は優を睨んだ。康行が皆に今夜のところはお開きと言い、他の者達を帰した。ビールの空き缶やつまみの塵芥類を、満夫が片付けた。皆が帰ってしまうと、英雄が元気を取り戻した。
「康行、今夜はお客様が待っとるばい」
「誰な? 」
「中古車販売業の、社長さんたい」
「何か、あるんな」
 康行が尋ねた。
「水臭いこと言うな。解かっとるやろうもん」
 英雄は康行に、外の車を眼で合図した。車の中に中古車販売業の社長が待っているのを、言っているのだ。満夫は納得した。何時か英雄が言っていた、中古の車を海外に輸出する話だ。それを本気でやるつもりなのだ。満夫は開け放された窓から、真っ暗な外の景色を見詰めた。車のエンジンは点けらたままで、二人の人影が微かに見えた。一人は中年の男でもう一人は金髪の女だった。
「今から湯福亭に行って汗でも流し、その後一杯やりながら話を聞こうや」
 英雄は康行の肩を馴れ馴れしく叩いた。二十四時間営業の健康ランドで、ゆっくり風呂にでも入るということだった。優と達也が少し躊躇った。互いに顔を見合っている。儲かる話ばいっと英雄が胸を張り、二人を説得にかかった。中古車販売業の社長というのは五十代の男性で、正規の貿易商でもあると言った。ロシア東部のウラジオストクを拠点に、人気の高い日本の四輪駆動車の中古を主に輸出しているらしかった。英雄は車の修理工場をやっている康行に、以前からその中古の車を売る奴はいないかと執拗に尋ねていた。七月の初旬に九州では新門司港と博多港にロシアの船が入港するので、車の数が揃えばそのとき博多港で売り捌くという。決まってもいない話に、英雄は自信満々だった。それにしても満夫は家業であるパチンコ店の仕事はせずに、妙なことに手を出す英雄が不思議でならなかった。優や達也達にも四輪駆動車を売りたいという者を紹介すれば、手数料をやると早口で捲し立てた。満夫は英雄が考えているようには、簡単にいかないと思う。車を売ればまた買わなければならないので、大概の人は今乗っている車を下取りに出す。商品がなければ商売は成り立たない。どう考えても無理な話に思われた。景気よく儲かるばい、と英雄がまた皆を煽り立てる。この不景気にそうやすやすと、景気のいい話があるものか。不景気だからこそ、簡単に儲かりそうな話に飛びつくだけだ。好い加減やめろよと、満夫が言うと英雄が心配するなと嘲笑した。そして満夫に女みたいな仕事は早く辞めて、自分の所のパチンコ店を手伝えと、力を込めて言った。それには皆も爆笑した。大声が外に漏れたのか、車から激しいクラクションが鳴らされた。英雄の女、ロシア人のソニャータだ。待ち草臥れたのだろう。またけたたましく鳴らし続けた。
「おう、早くしたいと言いよるばい」
 英雄の冗談に、皆がまた馬鹿笑いした。康行達三人は風呂にも行きたいし、中古車販売業の社長の話だけでも聞きたいと言った。
「満夫はどうする?」
「俺は朝が早い。今夜のところは帰る」
「そうか、かあちゃんとおねんねか……」
 英雄が大仰な動作を込めてそう言うと、皆が腹をかかえて笑った。


 黄色のガーベラの花が二本、食卓に飾られていた。一本は長く、もう一本は短い。素人にしては調和のとれた生けかただった。二人が何も喋らないとテレビをつけない限り、掛け時計の微かな金属音だけが響いて聞こえた。アパートの部屋全体も、今夜はなにか身綺麗に感じられる。風呂の中から聞こえてくる礼子の鼻歌が、何故か心をゆっくりと和ませてくれた。満夫はそれを安心感だと思う。誰にも邪魔されず、気遣いもいらない。二人だけのカプセルな空間だった。来年四月からの看護専門学校の入学を許可すると、礼子は今までの胸の支えが取れたように、明るく元気になった。満夫自身、内面はまだ少し不安は残るが、不都合が生じた場合その都度、また話し合って解決すればいいと思った。何時かどこかでどちらかが妥協し、協力し合わないと何事も前に進まないとも思った。
 風呂から上がった礼子の裸体から、まだ汗が流れ落ち陰毛が微かに縮れていた。色白の乳房は形よく盛り上がり、腋の下を丁寧に拭う礼子の姿を、満夫はじっと眼を凝らし見詰めた。それに気づいた彼女が、含み笑いをしている。心を開き、凡てを許した女の眼つきだった。満夫は改まると調子が狂い、態と軽く咳払いした。しかし礼子は一向に下着をつけようとはしなかった。テーブルの椅子に座り身体をバスタオルで巻いたまま、じっとしていた。
 短期大学を卒業しデパートの子供服売場に就職してきた礼子は、素直な明るい女性だった。また少し学生っぽさがどこかに残っていて、上司から接客態度を注意されると、舌を出して含羞んだ。暇な時間帯には他所の売場の男性から揶揄われたりもしたが、決して嫌な顔はしなかった。学生時代と同じように福岡市内でアパートを借り、一人住まいをしていて休日には毎週、山口県の港町の実家に帰っていた。デパートではネームプレートを胸につけ、店内では名字でさん呼びを義務づけられていたが、彼女が入社して一年を過ぎる頃から、こっそり二人で、先輩と礼ちゃんと呼び合うようになった。その頃満夫は、特別に礼子を意識してはいなかった。屈託がない礼子に、満夫はただの職場の仲間感覚で心おきなく接していた。彼女の方もそんな満夫に特別気を遣う必要もなく、楽な気持でとけ込めたのだと思う。売り場では彼等の上に、主任と係長がいたが、礼子の接し方は満夫とは違っていた。彼女は上司とは気安く接することはできないようだった。係長は中年の太った気難しい男で、主任は未婚の歳いった気忙しい女だった。係長は上司には愛想よく振る舞い、機嫌を伺うのが上手かったが、部下に対しては冷たく指示や結論を出すのが遅かった。礼子が仕事に慣れてきて、周りからの接客の評判が良くなると、女主任は彼女を度々苛めるようになった。売り場にあまり寄りつこうとしない係長をよそに、商品の陳列の仕方が悪いとか、やれディスプレーが上手くいっていないとか礼子を叱咤した。それでも満夫はだいぶ礼子を庇ったが、満夫の休日には女主任のヒステリーは酷かったようだった。中年の太った鈍い係長は、凡てを知っていながら、見知らぬ態度をとっていた。その度に満夫は陰で礼子を励ました。
 それがある事件をきっかけに、二人は親密な関係へと発展していった。あれは正月過ぎの、冬のデパートの特売日のことだった。込み合った売場で、礼子が掏摸を目撃したことから始まった。満夫達が勤務する子供服売り場の前で、ワゴン台を出し半額のセールをやっているときのことだった。ワゴン台の上の商品を漁るように取り合っている婦人達の群れの中で、一人の婦人を三人の女達が取り囲み、開かれたバッグの中から仲間の一人が素早く財布を盗んだのだ。それを一部始終見ていた礼子が、横にいた満夫に泥棒っと叫んだ。声が大きかったのか周りもそれに気づき、三人の掏摸の女達は別々に散るように逃げ出した。礼子は満夫に縋るように、あの人、盗んだのは赤い財布よっと、逃げた女の一人を指差した。満夫はその女を叫びながら追った。騒動に会社は気づいていたのか、逃げていた女は駆けつけた警備員に挟み撃ちにされるようにあっけなく捕まった。何をするんですかっと、女は身体を震わせ抵抗した。痩せた狐目の女だった。顔が血を引いたように真っ青だった。わたしが何をしたのですかっと、女は開き直った。仲間である筈の二人の女は逃げてしまっていた。捕まえた警備員の男が、満夫にまちがいないですねっと念を押した。満夫は女を見ながら確認するように頷いた。女が呼吸を乱し、満夫を睨み返した。
 いったん売り場に戻った満夫は、三十分ほどして礼子と共に調査室に呼ばれた。財布を盗まれた被害者の婦人もそこにいた。ところが調査していた部長が言うには、盗んだ筈の女の所持品を何度調べても、赤い財布は出てこないと言った。調査部長は警察署を定年で退官した人だった。礼子がそんなこと嘘だわ、わたし見たんですっと叫ぶように言った。そのことに気を悪くしたのか、掏摸の女はそれなら裸にでもして調べろと凄んだ。調査部長は手を焼いた。捕まえた二人の警備員も、頭を掻きながら退屈していた。結局は盗まれた財布は、狐目の女の所持品からは出てこなかった。礼子が信じられないと言うような顔をして泣きくずれた。しかし婦人のバックの中から、赤い財布が盗まれたのも事実だった。その後、総務部の部長が調査室に現れ、封筒を狐目の女に手渡した。迷惑料の筈だった。そして満夫と礼子が女に土下座して謝り、事は収まった。しかし満夫は、礼子が目撃したことを信じた。三人いた掏摸仲間の逃げた二人に、狐目の女は素早く盗んだ財布を渡したのではないのかと想像した。女が勝ち誇ったように帰った後、礼子が何度も間違いないと言ったが、証拠品が出てこない以上、会社は信じてはくれなかった。満夫達は総務部長からこっぴどく叱られ、始末書を書かされた。満夫は礼子がそんなことで嘘を言うような人間でないことを知っていた。盗まれた婦人には気の毒だが、もうそのことは忘れようと満夫は彼女に何度も言った。いくら拘っても仕方のないことだった。礼子はそれでも悔しそうだったが、最後は満夫の説得に素直にしたがった。自分のことを本当に信じてくれる人が一人でもいるだけで嬉しいと、礼子はそのとき涙を流しながらぽつりとそう言った。
 テレビを点けるとプロ野球の試合がまだ行われていた。最近はドーム球場が全国でいくつもでき、天候に左右されず予定通りに試合ができる。満夫は試合を観ながら、ゆっくりと寛いでいた。台所で礼子の鼻歌が続いている。しかし当分、子供は望めそうにないだろうと思った。子供のことは彼女が看護専門学校を無事卒業し、仕事に就いてからまた考えればいいのだ。礼子は今、生き生きとしている。暫くは今のこの状態を壊さずにいこうと、満夫はひそかにそう考えた。


 本当に世の中というものは、色々なことが起こる世界だとつくづく思った。満夫にとって頭の痛い問題が発生した。皮肉にも会社の君子が、社長である前野の子を妊娠してしまったのだ。前野から口説かれているという話は君子から直接聞いてはいたが、まさかもうそんな関係にまでなっていたとは想像もつかなかった。絶対に他言しないという条件で、君子が満夫に相談を持ちかけたのだった。それを聞いた満夫は、咄嗟に仕事のことが頭に浮かんだ。君子が前野の子供を産むにしろ、中絶するにしろ、今から仕事が続けられるかどうかということだった。前野には家庭があり奥さんも子供もいる。君子だって旦那はいないが、前の亭主との間に一人息子がいる。互いにそんな環境の中で、子供が産めるのだろうか。満夫は自分よりも君子は、当事者である前野と話し合うべきだと思った。いい歳の大人同士の関係で起きたことだ。自分よりも年上のしかも子供まで実際産んだことのある君子が、どうして相談を持ちかけてきたのか正直いって満夫には解らなかった。確かに満夫と君子は職場での仲間ではあるが、相談された内容があまりにも重大すぎた。
 それだけ言うと、君子は押し黙ったまま俯いた。そしてアイスコーヒーをゆっくりと飲んだ。最初ビールを飲みたいと言っていたが、満夫が止めた。身体に悪いと思ったからだ。
 夜の八時にショッピングセンターの閉店と共に店を閉め、人目を避けるように二人で隣町のレストランに来たのだった。由加は今日は公休日で、話をするには都合が良かった。それを考えると君子は今日という日を選んで、満夫に相談を持ち掛けてきたのかも知れなかった。レストランは空いていた。若い男女が数組、食事をしながら語り合っているだけだった。満夫は咽喉の渇きを潤すようにテーブルの上の水を飲み、深く溜め息をついた。
「そのこと、社長も知っているんですか?」
 君子は首を横に振った。自分もまさかと思ったが順調にいっていた生理がなく、産婦人科の病院で診察してもらうと、医者から妊娠二ヶ月といわれたと言った。
「あの人には、内緒にしようと思って……」
「どうして?社長の子供じゃないですか」
 満夫は君子に、そう問いつめた。どうして本人に言えないのか、彼女の考えが理解できなかった。社長の前野は世間に対しての信用もある。そういう人との関係で起きたことだから、安心して打ち明けたらいい思う。
「わたしとの関係、あの人本気じゃないということも解るの」
「だったら、なおさら打ち明けたほうがいいですよ」
「しかし遊びだと解っていて、どうしてこうなったのかと言われそうで……。それがわたし怖いんです」
 君子のその話を聞いたとき、満夫はもしかしたら彼女は前野が好きになったのではないかと直感した。それで君子は迷っているのではないか。社長が現在の地位まで捨てて、自分と一緒になる筈がない。自分との間に子供ができたからといって、奥さんとその子供を捨ててまで自分と一緒になるわけがない。また君子自身にも子供がいるし、現実問題として前野と一緒になることなど不可能だと思い込んでいる節がある。しかし満夫はそうは思わなかった。君子の思い込みだって考えられる。前野も本当は彼女のことを愛しているのかも知れない。そうだとするなら互いの今の環境がどうであれ、二人が一緒になりできた子供とともに、第二の人生をおくればいいことだ。それは当事者しか解らないことなのだ。満夫はそう君子に言った。
「やはり社長と話し合うべきですよ。勇気をもって打ち明けるべきですよ」
 満夫は自分にはどうこう言えない問題だと付け加えた。君子は俯いたまま、黙っていた。後はなるようにしかならないと満夫は思う。折角相談を持ちかけられたが、それ以上は答えようがなかった。ただ結果はどうであれ、仕事だけは続けてもらわなければならない。そうしないと売り場は満夫と由加の二人になってしまう。売り場のことが心配だったが、今の君子の精神状態からして、満夫は直接そこまでは言えなかった。君子は顔色も悪く少し窶れていた。二人の話が進むにつれ、段々と彼女は無口になっていく。今考えてみると、君子は度々出勤時間が遅れることもあったし、些細なことで神経を苛立たせることも多かった。それは人に言えない悩みごとを色々と抱えていたのかと、満夫は改めて思った。君子はゆっくりと顔をあげ、潤んだ眼で外を見詰めた。辛いだろうが、満夫にはどうすることもできなかった。伝票を手に取り、彼女に店を出ようと合図した。君子が素直に頷いた。
 外は蒸し暑かった。風はない。真っ暗な空に遠くで雷が走った。激しい轟音が近くまでくる。急に君子が身体を庇うように屈め、蹲った。両耳を塞ぎじっとしている君子が立ち上がるまで、満夫はその場で待った。彼女はそのまま動こうとはしなかった。時間がやたら長かった。満夫は一人で歩き出し、車の中で待とうと思った。後から申し訳なさそうに彼女もついて来た。車のドアを開けようとする満夫に向かって、君子がぽつりと言った。
「どうしようもなかったの。わたし、寂しかったのよ……」
 近くでまた雷が光った。鋭い閃光の後、雨が激しく降り出した。急いで乗った車の中で、君子が静かに泣いていた。


 微かな物音で眼が覚めた。軽快な音が虚ろな意識の中にあった。何時か何処かで聞いたことのある音だ。しかし咄嗟には思い出せなかった。怖い夢でも見ていたのか、体中に汗が粘ついていた。酷い汗だった。部屋の冷房はとっくに切れている。満夫はこめかみから流れ落ちる汗をバスタオルで拭い起きあがった。そうだ包丁の音だ。あの音だったのだ。休日というのに礼子が早起きし、朝食の準備をしていた。その音が続いていたのだ。音は単純だが、今は亡き母の包丁の音にも似ているような気もした。農家は朝が早かった。母は毎日早起きし、家族の食事の準備をしていた。子供の頃、それで満夫も目覚めたことがある。その昔の記憶と意識の中で重なったのだ。気づいた礼子が濡れた手をエプロンで拭い、やさしく笑っていた。
「どうしたの?寝言なんか言ったりして」
「本当?」
「激しかったわよ」
 そう言われ、満夫は頭を掻いた。自分では何がなんだか解らなかった。しかし疲れているのも事実だ。身体が無性に懈かった。昨夜、遅くまで勉強していた礼子のほうが、一向に疲れた様子はない。満夫が気怠く洗面所に向かうと、礼子はきびきびした動きで、カーテンと窓を一気に開けた。
「ほら見て……」
 顔を洗い何回も眼を瞬きしている満夫に、礼子が喚声を上げた。太陽の光を浴びて、大地にかかった霧が晴れているのだ。賢硫山も麓しか見えなかった。陽が射し込むにつれて、近くから空に舞い上がるように霧が晴れている。もう少し早い時間だったら、三十メートル先も周りが見えなかったかも知れない。昨日からの高気圧が流れ込み、暖かい湿った空気が入ってきたところに、明け方の弱い冷え込みが重なり霧になったのだ。パチンコ店パーラーキングもゴルフ場のネットも、アパートからは霞むほどしか見えなかった。
「こんなに周りが見えないと、何か現実離れしているって感じね」
 礼子が楽しそうに呟いた。
「この辺りでは、年に一、二度、こういう現象が起きるんだ」
 満夫は何でもないという風に、首にかけたタオルで顔を拭った。
「しかしこんなに見えないと、想像するよね。あの霧の先には何があるのだろうって……」
 礼子は霧から眼を離そうとはしなかった。満夫は礼子の肩に手をかけ、二人一緒に並んだ。周りが段々と明るくなってゆく感じがした。空気が澄んで、とても気持ちが良かった。弱い風が深い緑色の苗を靡かせながら吹いてきた。
「わたしの頼み、本当にいいの?」
「あぁ。頑張れよ」
「うれしい。あなたがそう言ってくれると、とてもうれしい……」
「なんとかなるさ。俺も協力するよ」
 礼子は看護専門学校に入学し、看護婦の道に進みたいということを言っているのだった。安心でもしたのか、彼女は満夫の腕に寄り添った。風で礼子の長い髪が乱れ、満夫の顔に絡みついた。
「父も母も亡くなったし、兄とは結婚を反対されて、あんな別れ方をしたし、わたしにはもう満夫さんしかいないの。ごめんね」
 満夫の腕に、礼子が縋るように頬を擦り寄せる。そう言えば満夫も同じ立場だった。実家の農業は兄の浩司が継いでいて、父は早く亡くなり、母も今年八月には七回忌を迎える。満夫も礼子しかいない。二人、力を合わせて生きてゆくしかなかった。賢硫山の頂はまた霧に囲まれていたが、太陽の弱い陽が射し込んでいた。御熊川の水位も上がり、風が緑の大地を一面に撫でるように靡いてゆく。梅雨の間のちょっとした晴れ間になる筈だった。そうして、日々一日と盛夏へと近づく。
 アパートの駐車場で誰かが車のクラクションを鳴らしていた。満夫は朝早くからと思い、窓から覗くと赤い外車に乗った英雄が手を振って笑っていた。助手席には彼女のソニャータも乗っている。どうしたの?と礼子が尋ねた。なんでもないっと言い、満夫はサンダルを履き外に出た。車から笑いながら降りてきた英雄がいきなり握手を求めてきた。なんのつもりか解らなかった。
「俺達、結婚するばい」  英雄はソニャータに視線をやり、満夫にそう言った。
「本気か?」
「嘘は言わん」
 英雄はソニャータを車から降ろした。彼女は満夫と眼があうと、笑いながら軽く会釈した。ピンクの花柄のワンピースがよく似合っている。痩せていて腕も足も細かった。相変わらずの容姿だ。強い香水と化粧の匂いが漂った。英雄が、英語で彼女に何か言っていた。ソニャータが頷いた。
「お前の奥さんにも挨拶して、彼女を紹介するばい」
「いいよ、そんなこと」
「悪いんか?」
「いや、そうじゃないけど。今、起きたばかりだし……」
「構わん構わん」
 そう言うなり、英雄はソニャータの腕をとり、勝手に部屋に上がりだした。満夫が英雄の耳許で、汚い言葉は使うなと言うと、解っとる解っとると頷いた。狭いアパートに彼等が急に上がり込むと、礼子が眼を大きく丸めて驚愕した。英雄は知っているが、ソニャータは初めてだ。まさか自分たちのアパートに外国の女性が来るとは、思いもよらなかったのだろう。礼子が落ち着かず、周章てだした。コーヒーを入れる準備をしようとすると、英雄が結婚する相手だと簡単にソニャータを紹介した。テーブルの椅子に座ったソニャータは、如何にも珍しそうに部屋の中を眺めている。礼子が暫く棒立ちになっていると、彼女はテーブルの上に飾ってあるガーベラの花に鼻をくっつけた。英雄が満夫にパーティをやるから同級生を誘って来てくれと頼んだ。満夫がまた英雄の耳許で、本気だろうなっと念を押した。当たり前だっと、英雄は胸を張った。礼子が二人にコーヒーを差し出すと、ソニャータが片言の日本語でアリガトウと言った。金髪の長い髪が微かに揺れている。英雄が礼子に気を遣わんでいいと言い、今後も付き合い頼むばいと口を尖らせた。満夫はまだ英雄がよく解らなかった。知り合って二ヶ月足らずで、そう簡単に彼女と結婚できるものだろうか。今はロシアから出稼ぎに来ているようだが、ソニャータの家や家族は、英雄は十分に理解しているのだろうか。満夫は不思議だった。しかし英雄自身は、上機嫌だ。小学校の頃から、自分は満夫と仲が良かった。自分は何時も級友から苛められていて、その度に満夫が庇い助けてくれたと、礼子の前で大袈裟に満夫を持ち上げた。その話は、満更嘘ではなかった。あの頃の英雄と今の彼とは、似ても似つかなかった。あんなに温和しかった少年が、こんなにも目立つ大人になろうとは思いもよらなかった。しかし、仲間は仲間だ。満夫はどんな人間であろうが、平等に付き合う姿勢だけは死ぬまで崩したくなかった。英雄がコーヒーを飲みながら饒舌になり、自分は満夫を誰よりも信頼している。自分のところのパチンコ店に、是非手伝いに来てほしいと捲し立てた。礼子がそんな話題に退屈したのか、途切れていた朝食の準備にかかった。
「よろしかったら、朝食たべていかない?まだでしょう」
 と礼子が二人の顔を窺った。
「めしはよかばい。二人で食べる」
 英雄が眠そうな顔をした。今日の夜中の一時頃、中洲のソニャータの仕事場に迎えに行き、軽く食事をとってから、その足で健康ランド湯福亭によって来たといった。昨夜は一睡もしていないということだった。英雄が疲れたように眠いという言葉を連発し、帰り支度にかかった。二人が英語でまた何か喋り合っている。別れ際、ソニャータが笑いながら礼子に握手を求めた。今朝の濃霧は酷くて、車の運転ができなかったと、アパートの部屋を出ながら英雄が難儀な顔でそう言った。


 騒めきが外まで聞こえていた。酔った男性が歌っていたが、メロディーと歌詞が上手く合っていなかった。笑い声や歓声を上げる声の方が大きく、誰も歌を真剣に聞いている感じはしなかった。川北町駅舎前の商店街の中にある、スナックひとみだ。英雄や町の若い仲間達の行きつけの店だった。英雄とソニャータの結婚パーティだ。満夫はスナックの前に自転車を停め鍵をかけた。パーティは一時間前から始まっている筈で、盛り上がりの雰囲気だ。それは外からでもよく解る。康行や優や達也達も、皆来ることになっている。満夫は店が閉店してから、車をアパートの駐車場に置き、このスナックまで自転車で来た。勿論、英雄を祝うつもりだが、今夜は気が少し重かった。勤務先の店の君子が、元気がないからだ。先日、大変な相談を受けたが、何もしてあげることができなかった。彼女は社長の前野に全てを打ち明けたのだろうか。そのことを確かめたかったが、彼女が傷ついてはいけないと思い、それすらできなかった。同僚の由加も最近の君子の元気のなさに、何か怪しんでいる節がある。満夫は由加に悟られまいと、何時も気を遣わなければならなかった。
 スナックの扉を開けると、皆の騒ぎに圧倒された。冷房の効きが悪く、換気もよくない。人の熱気と煙草の煙が充満していた。皆は満夫に気づくと大きな喚声を上げた。十五人も座れば満席のスナックに、倍の三十人は祝いに参加していた。椅子に座ることができなく、十人ほどは立って飲み食いしている。英雄が満夫に近寄り、よく来てくれたと感謝をこめ肩を軽く叩いた。頭には王様の幼稚な冠帽子を被り、花の首飾りをして戯れていた。どちらからともなしに眼が合い、握手した。英雄が力を込めて満夫の手を握った。顔が赤く強い酒気の臭いがした。皆から祝いの酒を勧められたのだろう。酒がだいぶ入っている様子だった。ソニャータが英雄の側に寄りそうと、彼は素早く抱きよせ、首筋に熱い抱擁をした。それを見ていた皆が、また大声で騒いだ。拍手したり、口笛を吹いたりした。満夫は英雄からビールを注がれると、それを一気に飲んだ。渇いた咽喉が、生き返ったように潤った。顔見知りもいれば、町の人ではないような初めて見る人もいた。今夜は店は貸し切りで、無礼講の筈だった。奥のテーブルから康行が満夫を手招きしていた。よく見ると優も達也もいた。ソニャータの知人なのか、外国の女性三人と飲んでいた。カウンターでは酔っ払って執拗にカラオケで歌っている人もいたが、真面目に聞いている人は少なかった。足の踏み場もないくらい満員だった。満夫は皆に頭を下げながら、やっとのこと奥のテーブルに辿り着いた。空いた満夫のグラスに康行がビールを注いだ。改めて仲間達と乾杯した。優も達也も、もう顔が赤かった。三人の金髪の白人女性は、満夫の急な出現に優しい笑いで迎えてくれた。化粧がきつく、やはり香水の匂いが強かった。それぞれの赤い口紅が印象的だ。彼女たちの白い肌が、少し火照っている感じだった。狭いソファを優が席をつめた。満夫は少し空いた場所に小さく座り、同じテーブルの見知らぬ中年男性に軽く会釈した。その男性を康行が、中古車販売会社の社長だと満夫に紹介した。小太りで恰幅がよかった。彼は水割りをゆっくりと飲んでいた。満夫に四輪駆動車を売る人がいたら是非紹介して下さい、高く買いますからと言った。この前英雄が言っていた、ロシアのウラジオストクに輸出する話だ。康行達も話に乗ったのかと満夫は思った。中古車販売会社の社長は、穏和な顔をしていたが、ときたま鋭い眼つきをすることもあった。康行達が盛んに外国人女性と話していたが、意味があまり通じていない様子だった。皆に愛想を振り撒いてサービスしていた英雄が、何時の間にかテーブルに現れて通訳を買って出たりしていた。
「家族の方はみえてないのか?」
 満夫が英雄の耳許で呟くと、彼は急に顔色を変えた。
「関係ない!」
 英雄が大声をだし、歯軋りした。険しい顔だった。唐突な英雄の激怒に、皆は吃驚し静まり返った。彼は何かを思いだしたかのように、唇を噛みしめじっとしていた。
「色々あってなぁ」
 康行が満夫に耳打ちした。ソニャータが英雄の機嫌を取っている。スナックのママが気を遣い、店の音楽を激しいディスコ調に変えると、皆がまた騒ぎ出した。英雄が満夫に大声をだしてすまなかったと謝った。場が少し白けたが、皆が楽しく飲みだした。ソニャータが金髪の三人の女性に、ワインを勧めている。英雄がソニャータのダンサー仲間だと、皆に紹介した。彼女達は大きな喝采を浴びた。結婚してダンサーは辞めるのだと、ソニャータのこともつけ加えた。
「俺、悪いこと聞いたのか?」
 英雄がカウンターに座っている仲間のところへ場所を移すと、満夫はこっそりと康行に尋ねた。
「英雄は大変なようだ。家庭内の人間関係がうまくいかんと、嘆いとった」
 騒然としている店内で、康行は小声で満夫に話し始めた。英雄の父、李基徳は昔貧しいときに苦労を共にした最初の妻、英雄の母を女ができたからという理由で家から追い出し離婚した。英雄が高校一年生の時だ。その頃パチンコ店はうなぎ登りに儲かり、李基徳は一財産つくっていた。羽振りがよく町ではちょっとした噂になり、英雄を海外留学させたりした。そこまでの話は、満夫もよく知っていた。しかしその後、二番目の妻との間に、二人の男の子が産まれた。英雄とは腹違いの兄弟だ。その上の男の子が今年、もう高校三年生だった。腹違いの弟達が成長するにつれ、父の李基徳が英雄に冷たくなったという。それで英雄は段々と家が面白くなくなり、仕事もしなくなったのだ。最初の妻である英雄の母の、現在の居場所さえも李基徳は彼に教えないという。康行が手短に、そんな状況を満夫に説明した。強情ばかり張って粋がっていた英雄にも、他人には解らない家庭内の事情があったのかと、満夫は彼の姿を眼で追いながら改めて思った。それで今夜は、家族が来ていないのだ。康行がまた横から満夫の腕をつつき、彼は挙式はやらない。結婚も家族には内緒で今夜のパーティだけだと言った。人生にとっての大切な結婚式をこのようにしかやれない英雄を、満夫は少し気の毒に思った。紙でできた王様の冠は頭から取れていた。英雄は蹌踉めきながら満夫達のテーブルに近づき、中古車販売会社の社長に何度も頭を下げていた。彼のこの結婚には社長が深く関わり、大変な協力をしてくれたということだった。何時か英雄が言っていた。国際結婚をするには相手の国によって、難しい条件があるということだった。それは書類上の手続きの問題だ。英雄の結婚も簡単にはいかなかったと言った。ロシアの領事館と川北町役場が許可しない限り、無理なことだった。まずはソニャータがロシアの法律に従って、日本人の男性と結婚する条件を満たしているかということだ。彼女の出生証明書や外国人登録証などは、大阪のロシア領事館から取り寄せなければならなかった。そんな面倒な手続きをどうしたらよいのか、英雄は中古車販売業の社長に相談したのだった。社長は海外に車を輸出していたせいもあり、外国のことについてはとても詳しかった。また社長はロシアの貿易商とも懇意にしていたため、そのルートでロシア側の許可は直ぐに下りたのだった。
 店内は惜しみない拍手で渦巻いた。ソニャータが突然、浴衣姿で現れたのだ。スナックのママの、粋な計らいだった。よく見ると着丈や袖丈が短く、滑稽でそのことが余計皆に親密感を与えた。パーティは最高潮に盛り上がった。まるでソニャータのファッションショーだ。英雄が新妻のソニャータと腕を組み、参加者に頭を下げていた。拍手や口笛が鳴り喚声も起き、温かな祝宴だった。英雄の眼から涙が流れ落ちていた。事情がどうであれ、満夫は心から二人を祝った。こんなめでたい祝宴は、何度参加してもいいもんだ。満夫は意識が朦朧とし、心地よい酔いを感じはじめていた。


 酔いはまだ醒めていなかった。少し頭痛がし、身体が重かった。鼻が詰まり寒気もする。熱もある筈だった。昨夜の、英雄とソニャータの結婚披露パーティの余韻が、脳裏の隅にまだ微かにあった。顔は赤く吐く息が酒気を帯びているのも自分で解る。満夫はいつものようにショッピングセンターの裏の、従業員出入口から入りエレベーターの前に佇んだ。遅刻ではないが、出勤が少し遅くなった。館内の冷房の効きの強さに身体を屈め、素早くエレベーターに乗った。中で顔見知りの従業員と眼が合い、朝の挨拶を交わす。何の変哲もない、いつもの朝の光景だった。
 売り場に電気がついていて吃驚した。君子と由加がもう出勤していて、販売態勢を整えているのだ。普段では考えられないことだった。君子は大丈夫なのだろうか。満夫は通路を小走って店内に入った。レジーの隅に立っていた社長の前野が笑っていた。満夫は社長の来店を何も知らされていなかったのだ。急なことに戸惑いながら、身体を直立不動にし、敬礼でもするかのように軽く会釈した。そして満夫は気づかれないように、君子に視線を移した。彼女は普段となんの変化もなかった。むしろあの時、自分に相談を持ちかけた夜の姿とは、態度が打って変わったように感じた。
「今朝は、ちょっときみに話があって来た」
 前野は満夫を見据え、真顔になった。君子と由加も、そんな様子を窺っている。満夫は素直に前野に頷いた。
「お茶でも飲んで話そうか」
 前野はそう言い、君子と由加に後の店のことを指示していた。しかし君子との仲は一体どうなったのだろうという思いが、頭の中で交錯した。前野が自分が勤めている会社の社長であれ、あれほど君子が苦しんでいた姿を思い浮かべると、何か複雑な心境にもなってくる。満夫は俯きかげんに店を出、前野の後をゆっくりと歩いた。
 飲食店が揃う四階の喫茶店で、前野は外の豊饒な緑の大地を惜しみなさそうに眺めていた。そうやって暫くは勿体振り、何も喋らなかった。煙草を吸う度に軽い咳払いを繰り返し、眼の前のコーヒーを飲んでいた。満夫はどんな話なのだろうかと、不安な面持ちで前野の様子を見詰めていた。彼は顔を顰め短くなった煙草を周章てて揉み消すと、改まったように話し始めた。
「今年の秋、九月の初旬に熊本県のある町に大手スーパーの出資で、やはり大型のショッピングセンターがオープンするんだ。そこにうちの会社も出店することが決まった。それで君にその店が軌道にのるまで、三、四年行ってもらいたいんだ」
 前野は初めこそ言いにくそうだったが、満夫が黙って聞いていると、自信ありげに説得にかかった。
「私にですか?」
 満夫は確認した。
「あぁ、君しかいないんだ。デパートに十年勤めた経験もあるし、今のこの店も会社の売り上げ予定はいっている。君の力で頼むよ。勿論、営業部長という肩書きで、帰ってくれば福岡の全店舗を総括して見てもらうことになる」
 聞いてみれば格好はいいが、要するに転勤の辞令みたいなものだった。社員に取ってみれば重大なことも、社長の一言でどうにでもなるサラリーマンの世界だった。一瞬、満夫は礼子のことが頭に浮かんだ。彼女は来年の春から、看護専門学校に行くことに決めている。自分がもし単身赴任で行っても、上手くやっていけるのだろうかという不安も募った。
「大変だろうと思うが、ひとつ頑張ってやってもらえないだろうか。今のこの店は、後任に本村君子君にやってもらうことになる」
 そう言い、前野は満夫から眼を逸らした。自分が今度出店される熊本店に赴任してゆけば、此処の店は君子がやっていくのか。そういうことだったのか。満夫は今まで自分が悩んでいた会社のことが、嘘のように感じられた。そこまで会社が決定しているのならば、出店される熊本店に行くしかないと思った。後は家庭の問題だけで、今後のことは礼子と話し合えばいいのだ。
「解りました」
「うん。その方向で、やってもらえんだろうか……」
 前野は安心でもしたかのように眼鏡を取り、ハンカチで拭いだした。朝の広い喫茶店は人の出入りが少なく、殺風景だった。その後、沈黙が続いた。満夫は苛立つ自分を抑え、外の景色に眼をやった。賢硫山が厚い雲に押し潰されそうに見えた。天気予報では雨だと言っていたが、まだその予兆はない。ただ風が少しあった。新緑の山々から囲まれた広い水田に、ゆっくりと苗の波が走っていた。


アパートの自宅には、真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。降り頻る雨の中、満夫は店が閉店するとただ車を走らせた。何処でもよかった。少し考える時間がほしかった。雨の激しさで、車のワイパーの水切りが悪い。対向車のライトが霞んで見える。知らない店にでも入って、暫く落ち着きたかった。いや本当は何もかも忘れさせてくれる、時間がほしかった。通ったこともないような道路を運転したいとも思う。県道を川北町から福岡市に近い、隣町へと車を走らせた。雨だけが強く降り続いた。県道に沿って休息できそうな、両脇の飲食店を眼で追った。できるなら、なるべく人目は避けたかった。雨の夜だからたぶんどの店も暇だろうと思うが、派手な灯りが点いている店には入りたくなかった。少し老朽化しているが、喫茶スナックと薄暗くネオンが点いている店の前で、満夫は車を停めた。そうして車の中から覗くように店の中を窺った。カラオケの音楽さえ聞こえない、寂々とした店だった。この店なら静かで考え事もできるだろうと、満夫は車から降り店の中に入った。雨で濡れた髪を手で叩いていると、カウンターの中から中年の太った女がじっと満夫を見詰めていた。雨、激しいの?と尋ね、満夫が頷くと安心でもしたのか、冷えたおしぼりを手渡した。満夫は一番隅のカウンターに座り、生ビールを注文した。客は誰もいなかった。女がビールを出す間、満夫は礼子に転勤のこと、どうやって切り出そうかと考えた。転勤などまさか彼女も想像もしていないだろう。どんな反応が返ってくるのか、気掛かりだった。彼女が計画しているこれからの生活設計が、一気に壊れるかも知れないのだ。女が満夫の眼の前に、生ビールと枝豆を差し出した。女は何処から来たの?と尋ねた。川北町と、満夫はぶっきらぼうに答えた。隣町じゃない、と女は知り合いみたいに微笑んだ。店の中が妙に蒸し暑かった。店内を見渡しながら額の汗をおしぼりで拭っていると、女は気づいたように周章てて冷房のスイッチを入れた。客が来ないので節約しているのかも知れなかった。満夫は唇についたビールの泡を舌で嘗めながら、ゆっくりと飲んだ。それを見ていた女が、わたしも何か飲んでいい?と満夫に催促した。これ以上自分に関わってもらいたくなかった。満夫が許可すると、女は嬉しそうに微笑んで水割りを飲み始めた。いくら考えても同じことだった。生活をしていく以上、転勤もやむをえない、まだ子供もいない二人が別々に暮らすのも不自然だし、二人一緒に熊本に引っ越し、礼子がどうしても看護専門学校に行きたいというのなら、またその赴任した地域で学校を探せばいいのだ。自分達はまだ若い、どんな苦境も乗り越えられる筈だ。満夫は自分自身にそう言い聞かせ、残りのビールを一気に飲み干した。無口な満夫に、女は手を焼いた。仕事、何屋さん?と尋ねたが満夫は相手にしなかった。客が誰もいないのでしかたなかった。女は仕事柄、客である満夫を相手にしなければならないのだ。しかし長居は必要なかった。いきなり帰るっと言うと、女は膨れ面になり、不愛想に計算書を突き出した。満夫は金を払い、外に出た。雨は相変わらず降り続いていた。豪雨だ。遠くで鋭く雷が鳴った。車まで急いで走った。満夫は暫く車の中で、酔いを醒まそうと思った。安らかな疲労の眠気が全身を覆ってきた。


 アパートの駐車場の前で、合羽を着た男が突っ立っていた。車のライトが当たると、男は顔を顰め光を手で避けた。兄の浩司だった。満夫の車だと解ると、小走って来て助手席のドアを激しく叩いた。
「どうした?」
 満夫は戸惑い、咳き込んだ浩司に尋ねた。合羽から多量の雨が滴り落ちている。急いで車から降りた。
「大変だ。山口の礼子さんの兄さんが、交通事故で重体なんだ」
「何時ごろ?」
「夜の八時過ぎだ。礼子さんはお前に連絡しようとしたが店は閉店だし、連絡がつかず、うちの家に連絡してきたんだ」
 浩司の説明を聞き、今夜に限って真っ直ぐ帰宅しなかった自分を、満夫は悔いた。兄の浩司も満夫に連絡がとれず、アパートの前で帰宅を待っていたのだ。
「それで礼子さん、急いで山口の実家に帰っていったよ。俺が駅まで送っていった。お前に後で連絡するから、アパートに居てくれと言っていたぞ」
 浩司の雨で濡れた唇が震えている。真っ暗な空に一瞬、光の線が走った。少し間を置いてから、強烈な雷の轟音が辺り一面に鳴り響いた。二人は周章てて身体を屈めた。地面が微かに揺れた感じがした。近くに雷が落ちたのだ。耳孔が切り裂けそうだった。
「俺も家にいるから、礼子さんから連絡があったら電話してくれ」
 浩司はそれだけ言うと、急いで乗ってきた軽トラックに乗り込んだ。満夫はびしょぬれの自分に気づき、アパートの部屋の前に駆け込んだ。鍵を開ける手が震えている。部屋に上がり、雨でずぶぬれの身体をタオルで拭った。呼吸を整え、台所で水を一気に飲んだ。落ち着くのだと思った。小さく電話が鳴っている。満夫は電話口に立った。音は止んだ。小さな人の話し声がした。アパートの隣の部屋の電話だったのだ。満夫は胸を撫でおろし、テーブルの椅子に座った。しかし、不吉な予感もした。酒も煙草もやらず、用心深く健康管理に人一倍気を遣っていた礼子の兄が、皮肉にも交通事故に遭うとは考えられないことだった。気だけが焦る。どうしても待ちきれなかった。受話器を取り、礼子の実家に電話した。何度も呼び出し音を送るが、通じなかった。皆、病院に行っているのだろう。礼子からの連絡を待つしかなかった。満夫は一人でじっとしてはいられなかった。もう深夜だったが、部屋の中を右往左往した。
 そのとき、外で何か物音がしたように感じた。雨の降る音でもない。誰かが玄関のドアを軽く叩いている音だ。満夫は、そっと忍び足で玄関口まで歩いた。人の荒い息遣いを感じた。じっと耳を澄ました。
「誰だ。浩司か?」
 満夫は咄嗟に兄の名を呼んだ。しかし返答がない。
「誰かいるのか?」
 そう言い、玄関口の扉の前に立った。やはり人がいる。
「満夫ぉ、俺だよ」
「英雄か?」
「ああ、ちょっと開けてくれよ」
 彼の嗚咽を漏らしたような声だった。こんな時間にどうしてだろうと思い、静かに扉を開けた。雷がまた鳴った。遠くで警察の車の号笛が聞こえた。びしょぬれの英雄が身体も拭かず、突っ立っていた。顔色が極端に悪く、白いポロシャツに夥しい血痕が付着していた。
「どうした?」
「俺にも、よく解らん……」
 満夫は辺りを警戒するように見回し、とにかく英雄を部屋の中に入れた。眼つきが鋭く、呼吸が乱れ激しかった。満夫がタオルを手渡すと、英雄は頷きながらその場にへたり込んだ。タオルで頭を拭く手が、小刻みに震えていた。
「一体、どうしたんだよ」
満夫は英雄に問いつめた。英雄の顔が青白く、唇の色が紫色に変化していた。
「お前は、小さい頃から優しかったよなぁ。俺を何時も皆の苛めから、庇ってくれたよなぁ」
英雄は泣いていた。そしてタオルで顔を覆った。
「逃げてくる所は、お前の所しかなかったんだ」
英雄は玄関口の地面に顔をつけ、大声で泣き出した。満夫は彼の肩に手をかけ、上にあがるように言ったが動かなかった。
「何があったんだ」
「ちくしょう、俺は逃げるからな。騙された。今夜、博多湾にロシア船が入港すると聞いていたので、あの中古車販売会社の社長のルートで輸出を目的に五台の四輪駆動車を盗んで集めたんだ。俺と康行と優と達也の四人でだ。盗んだ車は、康行の修理工場でナンバープレートを変え博多湾まで運んだ。ところがだ、急に入港先が新潟湾と富山湾に変更になったんだ。着く時間になって、博多湾は中止というんだ。それでどうして解ったのか、張り込んでいた警察に皆捕まってしまったんだ。俺もその場所にいたが、携帯電話で中古車販売業の社長から連絡を受けて、俺だけ周章てて逃げて来たんだ。しかし、康行達はつかまってしまった」
 それだけ早口で喋ってしまうと、英雄は水をくれと言った。満夫が差し出すと、脇目も振らず一気に飲み干した。
「馬鹿な。あんな話、本気にしていたのか」
 満夫が英雄を睨むと、話はそれだけではないと付け加えた。ただ肩で呼吸をしているような感じだった。彼の身体の震えが止まらなかった。
「それで、俺はソニャータと一緒に逃げようと思い、マンションに帰ったら彼女がいないんだ。自分の身の回りのものを全部もって、逃げやがったんだ。ちくしょう……」
「結婚したばかりじゃないか」
「俺にもよく解らん。中洲のクラブの勤め先にも連絡したら、ソニャータの仲間も全員そこを辞めているんだ。もしかしたら、これは初めからの計画で、偽装結婚だったのかも知れん」
「偽装結婚?」
 集中豪雨だ。雨足が強くなった。地面を叩きつける激しい音が続いた。会話が途切れると、警察の車の号笛が近づいてくるのが解った。
「その血はどうしたんだ」
「親父を出刃で刺した」
「刺した?」
「あぁ。逃走資金をせびりに行ったら、親父の奴、ソニャータとの結婚を知っていて、俺を勘当だと言って罵ったんだ。親父との今までのことが積もりつもって、ついキレてしまって刺してしまった」
 雷の轟音が炸裂した。また近くに落ちたのかも知れなかった。満夫はじっと静かに英雄を見詰めていた。家庭内の人間関係がうまくいっていないということは聞いていた。そんな英雄が、不思議と不憫に思えた。満夫は英雄を部屋に上げ、テーブルの椅子に座らせた。項垂れた彼が喋りだした。康行や優や達也を、車の窃盗に誘ったのは自分だと言った。康行は町の消防団の金を使い込みしていたし、優や達也は老舗の店の資金繰りに困っていた。それに目をつけて、誘ったのだと言った。どうにも取り返しのつかないことをしてしまったと、泣きながら悔やんだ。アパートの前で、何台もの車の停まる音がした。車から降り激しくドアを閉める音が大気に響いた。携帯電話か無線で、誰かが話していた。騒めきから大勢の人が集まっているようにも感じた。隣の住人が起きたのか、物音がしていた。満夫と英雄の眼が合い、英雄はゆっくりと椅子から立った。大粒の涙が頬に落ちた。満夫は英雄の手からタオルを取り、彼の顔の涙と鼻水を拭った。電話が激しく鳴り響いた。礼子からだ。満夫は呼吸を整えてから、電話口に立った。受話器を取ると、誰かが玄関の扉を叩いていた。