その男は立ち止まった
その男は立ち止まった '99_05_13
自転車が交差点にさしかかった。
どうもナイスタイミングのようで、横の信号は青から黄色へと変わるところだった。
前の信号が青に変わろうかとするとき、左手からサイレンが聞こえた。
暗闇に赤いランプが瞬き、そして近づいてくる。
救急車のような感じに見えるが、まだ少し間があるようだ。
私は青信号を前にして迷った。
突っ切ってしまっても良いんじゃないだろうか?
そのとき、ある男の事をふと思い出し、こぎ出すことが出来なかった。
目の前まで車が近づいてくる。
どうも救急医療関係の車らしいが、いわゆる救急車ではなかった。
私がとび出してくるとでも思ったのか、横断歩道の前で一瞬スローダウンして、わ
たらないのを確認すると、軽く会釈して通り過ぎていった。
止まって良かったのかもしれない、とそのとき思った。
ある日、男は横断歩道の前で信号を待っていた。
一見して白人男性だとわかるその男は、信号待ちの前列に並んでいる。
私の視野の外で、救急車らしきサイレンの近づいてくるのが聞こえた。
信号がちょうど青に変わろうとするとき、救急車は交差点を右折するべく接近中で
あったが、まだ幾分時間がかかりそうだった。
立っている位置によっては音だけが聞こえて、車は見えていなかったかもしれない。
わたってしまおう。
私はそう思ったし、多くの人はそう思ったはずだ。
青信号に変わると同時に、一斉に動き始めようとした人々は一人の男に目をやると、
揃って動きを止めた。
その男は平然と立っていた。
なんの躊躇いもなく立っていた。
そうすることが当たり前のように立っていた。
誰も動くことが出来なかった。
救急車が通り過ぎたあと、その場に居合わせた人は何事もなかったかのように動き
始めたが、気恥ずかしさを感じていたのは私だけではないだろう。
もう随分と前のことになる。
私はそのときのことを鮮明に憶えているわけではない。
だが、その出来事は輪郭だけを強めて、今も私の中にある。
そして私を拘束するのだ。