涙跡

chapter 1 一本の電話


「あのね・・、お金、貸してくれないかな・・・」
切り出しにくそうに、彼女はそう言った。
彼女は何年か前までは一流企業に勤めていたが、自分のやりたいことを追いかけて仕事を辞めていた。
生活は苦しいと聞いていたが、まさかこんな電話がかかってこようとは、そのときの男にわかるはずもなかった。

「何かあったの?」
男は努めて平静を装いたずねた。
しかし、その声はうわずっていたかもしれない。
そんな電話がかかってくるほど、親しい間柄ではなかったのだ。

「・・・・。
 わけはね、聞かないで欲しいの。
 お願い。
 お金を貸して。」
その声はあまりにも悲痛だった。
友人であるべき男にお金の工面を頼むなんて、よほどのことなのだろう。
男は断る事など出来なかった。
彼女はかつての仲間であり、彼にとってはそれ以上の存在だったのだ。

「どれくらい?」
男はどうして良いのやらまるで見当が付かなかったが、精一杯声を絞り出した。

「100万円、いえ、50万円でいいの!
 おねがいっ。
 虫のいい話だけど、何も聞かないでっ。
 必ず返すから。」
彼女は自分を励ますかのように話した。
男は何が彼女を突き動かしているのか想像を巡らして、少し気が重くなった。
誰か男のためなのか?

「100万だね。
 わかったよ。
 どうすればいいの?」
100万という額は男にとって、小さな額ではなかった。
だが、そのとき不思議と『惜しい』という思いは湧いてこなかった。
「どこかへ振り込もうか?」
男は続けた。

「ううん。
 私、明日新宿まで行く用事があるの。
 帰りにそっちへ寄るから。
 多分夕方になると思う。
 駅に着いたら電話入れるから。」
やはり彼女は自分を励ますかのように答えた。
直に受け取るのは苦しかろうに。
それぐらいの辛さには耐えなければならない、といった口調だった。
男も苦しかった。

「そうか・・、じゃあ、明日だね。」
「じゃあね。」
電話は切れた、あっけないほどに。
男には、あたりから急に音が無くなってしまったよう思えた。

受話器を置くと男はベットに寝転がり、円形の蛍光灯を見つめた。
だが、それは目をあてているというだけで、本当に見ているわけではなかった。
男は彼女の顔を思い出そうとしていた。
彼女との交わりは決して濃いものではなかったが、彼女がいたシーンを精一杯思い出そうとした。
大体の顔は思い浮かぶ。
しかし、細部までは思い出せなかった。
見えた!と思ったそばから、その顔はぼやけていった。

彼女と最後に会ったのは、前回OB戦に行ったときだから、もう2年前になるだろうか。
あの時は一言も言葉を交わすことがなかった。
いつまでも変わらないと思っていた彼女が、少しだけ大人びて見えた事は覚えている。

男は自分が信じられなかった。
男は彼女が好きだったのだ。
いや、過去形ではない。
今も密かに彼女を思っていた。
それはどうしても自分のものにしたいという激しい愛情ではなかったが、確かに彼女の事を愛していた。
彼女を思って自慰したことも数知れない。
だが、どうしても彼女の顔が思い出せないのだ。

男は途方に暮れて、顔を枕に埋めた。
しかしながら、明日をも思った。
明日、彼女に会うんだ。
今までほとんど交わることがなかった彼女とのこれからを思うと、気持ちが高ぶってくるのを感じずにはいられなかった。
たとえそれが、誰か他の男のためであっても。



Chapter 2 はじまりの朝

眠りに落ちる瞬間をハッキリと自覚できる人間がいるだろうか?
カーテンからこぼれる陽射しに、男は目を覚ました。
陽はかなり高くなっているようだ。
いつ眠ったのかわからない。
カラスが鳴いているのを聞いた覚えはある。
都会では小鳥よりカラスが先に鳴く、まだ暗いうちに。
興奮してなかなか寝付けなかったが、陽が昇る前には眠りに落ちていたようだ。

今一つハッキリとしない頭で、男は昨晩のことを思いだしていた。
まさか夢ではあるまい。
男は電話を眺めた。
もっとも、留守電に記録されているわけではないので、昨日の出来事が本当であるという証拠は見つかるはずもない。
急に不安になって、男は証拠を探した。
昨日のことが本当のことだという証拠を。
しかし、何も見つからなかった。
せめてメモぐらい取っておけば良かったと後悔した。

初めて持った彼女のと関わり。
男はそれが「お金の貸し借り」という、およそロマンティックな関係とはほど遠いものだということに気づいてはいたが、それでも大切にしたかった。

男はそれまで彼女に近づくというよりは、むしろ避けていた。
男は自分に自信がなかった。
アタックして振られるよりは、仲間として彼女といつまでも共にありたいと思っていた。
だが、今自分の中にある気持ちの高ぶりが、それとは相反するものであることに、男は気が付いてはいなかった。

どれほどの間ベットの上から部屋を見渡していただろうか。
証拠を探すのを諦めて、男は考えた。
今日、彼女と会う前に何をしなければならないのか?
男は、壁に掛けてある薄汚れたジャンパーを見つけて、もう少し小綺麗な身なりをしていった方が良いだろうかと思ったり、あごに手をやって髭を剃ろうなどと考えたりしていた。
それは男にとって、とても楽しい時間であった。

しかしながら、本当にすべきなのはお金を用意することなのだ。
遠からず男はそれに気が付くと、薄汚れたジャンパーを羽織って、髭を剃ることもなく部屋を出た。
男は現実に引き戻されていた。



Chapter 3 電話は再び


男は百万が入った封筒をどこに置こうか迷っていた。
部屋には机がなかった。
今まで自分の部屋で書き物などをしたことはなかったのだ。
男はパソコンラックにのっているキーボードを押しやると、そこに封筒を置いた。

ベッドに横たわり、目覚まし時計に目をやると、時間は既に4時を回っていた。
街には春が訪れ、陽もようやく長くなり始めていたが、そろそろ夕方といってもおかしくない時間にさしかかっていたのだ。
男は電話に目を移した。
電話は鳴らない。




何分かが過ぎた。
時間がいやに遅く感じられる。
外では子供達が遊んでいた。
ひどく騒がしかったが、男はそれに何ら関心を向けることなく、時計と電話を交互に眺めていた。
昨日の出来事が本当のことなのかどうか、疑いが再び首をもたげてきたそのとき、電話は鳴った、再び。

「ぷるるるる、ぷるるるる、・・」
男はすぐに受話器を取ろうとして躊躇した。
すぐに出てしまっては、なんだか電話を待っていた自分の気持ちが見透かされてしまうような気がしたのだ。
電話は鳴り続く。
「ぷるるるる、ぷるるるる、ぷるる、がちゃ」
男は5回目のコールの途中で受話器を取った。

「もしもし。」
「あっ、わたし。」
電話は彼女からのものだった。
「時間はっきりさせなくてごめんね。
 今、駅に着いた所なんだ。
 え〜っとね、どうしよう?」

男は意外な気持ちに打たれた。
彼女は思いのほか明るかったのだ。
男も少しテンションを上げて答えた。
「じゃあね、改札口から左の交差点に喫茶店があるでしょ?
 そこで待っててくれる?
 すぐ行くから。」
「わかった。
 待ってるね。」
やはり彼女の声は明るかった。
「おう。」
男は受話器を置いた。

昨日と違う彼女の様子に戸惑いをおぼえながらも、男は急いで部屋を出た。
その幾分ぶ厚い封筒を持って。



Chapter 4 その口をついて出た言葉


待ち合わせの喫茶店にはいると、男は店内を見渡した。
女の子が手を振っているのが目に映る。
彼女だ。
男は、特に急ぐ素振りも見せず、いくらか笑みをつくって近づいていった。

「ういっす。
 久しぶりだね。」
男は動揺していたが、それを悟られないように、いつもの調子で話しかけた。
「ほんとー、久しぶりだね。
 ごめんね、変な電話して。」
やはり彼女は電話で感じたように明るかった。
そして、思っていた以上に美しく感じた、男には。

男はどう話を切りだしたらいいのか見当がつかなかったが、そのことに触れないのはむしろ不自然な気がした。
しかし、男が話し始める前に彼女の方から言葉は放たれた。
「あの、あの電話のこと忘れてよ。
 わたし、どうかしてたの。
 なんとなくオーちゃんなら、黙っていうこときいてくれそうな気がして。」
男は大学時代『オーちゃん』と呼ばれていた。
下の名前ではなく、名字から取ったあだ名であることが、この男の性質を表しているといえるかもしれない。
『いうことをきいてくれそうな』というのは、彼女に対して少し距離をとっていたことが、かえってそういう印象を与えていたのだろうか。

「いやあ、ビックリしたよ。
 突然だったから。
 なんかあったの?・・って、聞いちゃいけないんだったね。」
男は常にそうであったが、自分の本当の気持ちを表に出すことをおそれていた。
このときも男は朗らかな笑みに本当の自分を包んでいた。
「うん・・。
 いや、急にちょっとお金がいるようになっちゃって。
 でも、ここに来る前にね、こんな事で頼っちゃいけないって思い直したの。
 だからもういいの。」
彼女は俯いた。
「ごめんね、心配掛けちゃって。」
男は彼女の思いがけない明るさのわけを知った。
だが、彼女が俯いた刹那に見せたかげりにも、男は気がついていた。
やはりお金は必要なのだ。

「でも、やっぱりお金必要なんじゃないの?
 一応用意はしてきたんだけど。
 要るんだったら持っていってよ。
 俺も頼られて悪い気はしなかったしね。」
男は少しだけ本当のことを話したが、やはり少しおどけた表情をつくっていた。
そうせざる得ない男なのだ。
「いいの、いいの、ホントに。
 ホント、忘れて。」
彼女は同じ言葉を繰り返した。
そしておもむろに席を立とうとした。
「オーちゃん、ホントに今日はごめんね。
 わたしもう行くから。」
席を立とうとテーブルについた彼女の手を、男は思わず握っていた、押さえつけるように。
「えっ!?」
驚いて彼女は男を見つめた。

男は考えがあって、その手をつかんだわけではなかった。
ただ彼女を行かせたくないと思っただけだったのだ。
しかし、男は自分でも意外な言葉を発しようとしていた。
男は彼女の手を握る自分の手から、視線を彼女のまなざしへと上げた。
「もし、お金を借りることに抵抗があるなら、このお金で君を買わせてくれないか?
 一晩。」

彼女は瞬きすることも出来ずに男を見つめた。
男もまた彼女を見つめ返した。
まだ男の手は彼女の手の上にあったが、それはただ添えられているだけだった。



Chapter 5 悪いのは


男は黙って歩いていた。
その後ろには彼女がついて来ている。
ときおり男は半身をそらして、後ろを振り返った。
そのたびに何かを話そうと思って、その言葉をのみ込んだ。
何も言う事なんて出来ないじゃないか!
男は苛立ちをおぼえた。
そして男は思った。
彼女の後ろを歩きたい。
彼女の姿を確認しながら歩きたい。
しかし、そうすることは出来なかった。
まだ選択権は彼女にある、ということにしておきたかったのだ。
男はこのときも卑怯だった。

駅から男のアパートまでは、そう遠くない。
長い沈黙の果てに、二人はアパートの前まで来た。
男の部屋は、一階の角にある。
ドアの前に立つと、男は鍵を取り出そうと、おもむろにズボンの左ポケットに手を突っ込んだ。
そのとき、彼女は言った。
「あの・・、やっぱりだめだよ。
 こんなの。
 ほら、だって私達、一応仲間だし。
 変な電話かけた私が悪いの。
 ね、もうお金はいいから。」
彼女はハンドバックから封筒を取り出そうとした。

男は悔やんだ。
悪いのは彼女ではないのに。
彼女に選ばせてはいけないのだ。
次の瞬間、男は彼女を抱きしめていた。
驚いて身を固くする彼女の耳元でささやく。
「お金は必要なんだろう?」
「それはそうだけど・・でも・・」
男は彼女の言葉を遮るように続けた。
「君は悪くない。
 もし悪いとすれば俺の方だ。
 これから何が起こっても、それは俺の責任だ。
 君は悪くない。」
男は耳元で繰り返した。
彼女は言葉を紡ぐのを止めたが、体に入っていた力は抜けているように男は感じた。

男はゆっくり彼女から離れた。
彼女と接していた部分に、新しい空気が流れ込んでくるのがわかった。
目を離した隙に彼女がいなくなってしまうのではないかという不安と戦いながら、男は鍵を取り出すとドアを開けた。
辺りは暗くなっていた。



Chapter 6 涙は見せたくない


「え〜っと、あの、どうたらいいのかな?」
部屋に入って彼女は戸惑った。
無理に笑顔をつくろうとしてはいるが、やはり怖いのだろう。
「こっちに来て。」
自分はベッドに腰をかけ、男は彼女をベッドの下に座らせた。

男は彼女の顔を見つめた。
これだけ近くでじっと見つめたことはない。
蛍光灯の真下に座っている彼女は、昼間よりも白く照らし出された。
美しかった。
彼女に初めてあったのは、もう10年も前になるだろうか。
あの時から彼女を想っていた。
この顔を決して忘れまいと、男は彼女の顔を見つめた。

「あの、あの・・、どうしたの?
 何か付いてる?私の顔。」
彼女は不安であったが、また笑顔をつくって話しかけた。
男は何も答えずに、不意に彼女の体を引き上げると、自分の膝の上にのせた。
左腕で彼女を抱きしめ、右手で髪に触れた。
そして、俯いている彼女に顔寄せた。
さっきは夢中で気が付かなかったが、彼女の匂いがすると思った。

しばらくの沈黙の後、男は話した。
「これから、きっと君にとって辛い時間が続くと思う。
 それは君が得るお金の対価だ。
 我慢して欲しい、何があっても。
 そして、何が起こっても責任は俺にある。
 君は悪くないからね。」
彼女は何も答えなかった。

男は顔を上げた。
そして、彼女を抱えるように胸に納めると、彼女の頭の上にあごを乗せるような位置で、また同じ事を呟いた。
「君は悪くないからね。
 君は悪くない。」
やはり彼女は何も答えることが出来なかった。

男はゆっくりと彼女を膝からおろした。
そして、少し戸惑いながら、彼女の羽織っていたカーディガンを脱がそうとすると、
「あっ、自分で脱ぐよ。」
彼女は、急に意識を取り戻したかのように身をよじった。
彼女は立ち上がってカーディガンを脱ぐと、それをイスにかけた。

「あの・・、シャワー浴びた方がいいよね。 
 あはは。」
彼女は力無く笑った。
男は泣きそうになって、電気を消した。
そして、彼女の手をつかんで、自分の方へと引き寄せた。
男の顔は、彼女の頭の上にあった。
涙は見せたくなかった。



Chapter 7 告白


暗がりの中で、二人はベッドの上に寝そべっていた。
カーテンから漏れる街灯の光が、かすかに彼女の顔を照らしていた。
男は黙って彼女の顔を眺めていた。
彼女は目をつむったまま、動かなかった。

どれだけの間、そのままでいただろうか。
不意に男は小さな声でたずねた。
「もう寝ちゃった?」
「ううん。」
彼女は思いの外はっきりと答えた。
「この服、お気に入りだから、やっぱり脱ぎたいんだけど・・。」
男はまた悲しくなった。
彼女を抱き寄せて、男は絞り出すように呟いた。
「いいんだ、そのままで。
 一晩、俺の自由にさせて欲しい。
 お願いだから。
 話したいことがあるような気がするんだ。」

彼女は『一晩買う』という行為を、性的なものであると思いこんでいるようだった。
それは当然のことかもしれない。
それ以外に何があるというのだ!
しかし、男はそんなことを考えていたわけではなかった。
今まで言おうとすら思わなかったこと。
言ってしまえば全てが終わってしまうこと。
もう彼女とは会えなくなってしまうかもしれないこと。
それを口に出したい衝動に、男は駆られていた。

「君が好きだ。」 それをきいた瞬間、男の腕の中にあった彼女は「えっ」という驚きの声を漏らした。
その驚きは、彼女を抱いている腕からも伝わってきた。
激しく高鳴る男の鼓動もまた、彼女に伝わっていたであろう。
男は続けた。
「初めてあったときから、君のことが好きだった。
 俺は自分に自信がなかった。
 口にしたら、会うことすら出来なくなってしまうかもしない。
 そうなるくらいなら、伝えなくてもいいと思っていた。
 ただ何年かに一度でも、君の顔を見れたら、その方がいいと思っていた。」

男は涙を流していた。
もはや止めることは出来ない。
男は窓を背を向けているので、彼女には見えていないだろうと思った。
やはり見せたくはなかった。

「でもね、そういうわけにはいかないことに気が付いたんだ。
 俺はいつも君を見ていた。
 見ていることに気づかれたくなかったから、眠っているふりをしたこともあるよ。
 いつだったかな、新歓コンパのときだっけ?。
 君は青いシャツを着ていたよね。
 酔いつぶれたふりをして、薄目を開けていたよ。
 君の顔をこの目に焼き付けたいと思っていた。
 あの時だけじゃない、いつだってそう思っていた。
 今だって!」
少し強くなった語気とは反対に、男はそっと手を彼女の顔へと持っていった。
目を完全に覆ってしまっている髪をどけたかったのだ。
髪を上げるとき、頬に触れた手が濡れるのを感じた。
彼女もまた泣いていた。

「でも、思い出せないんだ、君の顔が。
 君から電話もらったとき、君の顔を思い出そうと思った。
 それが出来ないんだ。
 どうしても。
 君のいる風景を思いだしてみたよ。
 グランドで練習を眺めている君。
 合宿で洗濯をしている君。
 飲み会で微笑んでいた君。
 でも、やっぱりぼやけてしまう。
 君の顔さえ思い出すことが出来れば、それだけで満足なのに!」
男の語気はまた強くなった。
感情が高まって、声は震えていた。
「君の顔を見せてくれ。
 暗がりでもいい。
 君を近くに感じさせてくれ。
 一晩でいい。」
男はそこまでいうと、押し黙った。
そして、右腕で彼女の頭をかかえるようにして抱き、左手を背中に回した。

どれほど時間が経っただろうか。
もはや今が何時なのかわからなくなっている。
時間はゆっくりと流れているように思えた。

眠っているのだろうか、彼女は逆らうことなく抱かれ続けていた。
彼女の体は規則的にゆっくりと伸縮を繰り返していた。
それを腕に感じて、男はたまらなく嬉しかった。
このときが永遠に続けばいいのにと思った。

しかし、やはり時は永遠ではない。
契約は終わりに近づいていたのだ。
どこかでカラスの鳴き声が聞こえた。
次第に彼女の顔がはっきりと見え始める。
その顔には、涙の通り跡がはっきりと残っていた。



Chapter 8 終わりの朝


男は約束を守らなければならなかった。
彼女を抱いている腕を、そっと、そっと離した。
そして、眠ったふりをした。
男は思った。
彼女は眠っていないのかもしれない。
彼女が帰りやすいように、眠ったふりをしなければならないのだ。
それでも、男は薄目を開けて彼女を見つめていた。
いつまでも見つめていたかった。

しばらくしても、彼女は起きあがろうとしなかった。
やはり眠っていたのだろうか。
部屋全体が明るさを帯びる頃、彼女は左手をついて体を持ち上げた。
寝ぼけているようなそぶりは見えない。
そして、男の顔を見つめた。
じっと見つめた。
男は眠ったふりをしながら、その視線に耐えた。

どれほど経ったのだろうか。
彼女は男から視線を外すと、ベッドの下に落ちているハンドバックに目をやった。
その姿勢のまま、しばらく固まっていた。

やがて動き出した彼女は、男を起こすまいと静かにベッドを降りた。
ハンドバックを拾い、また立ったまま固まっていた。

彼女は迷っていた。
このお金を持っていってしまっていいのだろうかと。
男はその姿を見ていた。
持っていってくれ。
持っていってくれなかったら、俺は救われないじゃないか。
男は祈るような気持ちで彼女を見つめていた。

しかし、彼女は決心したかのように動き始めると、ハンドバックから封筒を取り出し、置き場所を探した。
やはりパソコンラックの上しかなかった。
彼女は封筒を置くと、もう一度男の顔を見た。
そして向き直ると、ゆっくりと玄関へ進んでいった。

男は彼女が部屋を出ていくと、静かに起きあがった。
そして封筒をつかむと、音を立てないように彼女のあとを追った。



Chapter 9 生きる決意


彼女が靴を履いて、とびらをあけようとすると、背後から男の声が聞こえた。
いつの間にか男は彼女の背後に立っていた。
「持っていかないのかい?これ。
 君にはこれを受け取る権利がある。」
男は封筒を差し出すと、意図的に事務口調で言った。

彼女は男に背を向けてしばらく動かなかった。
それホンの少しの時間だったが、男にはとてつもなく長く感じた。
彼女はおもむろに振り返ると話した。

「オーちゃん、それもらえると思う?
 私ね、好きな人がいるの。
 そりゃ、この年だもの、いてもおかしくないでしょう?
 そのお金は、その人のために必要だったの。
 でも、もらえないじゃない!
 ずるいよ。
 こんなに辛い思いをするぐらいなら、抱いてくれた方が良かったのに。」
さんざん泣き明かしたであろう彼女の赤い目から、また涙がこぼれた。

「これは君が受けた苦しみの対価なんだよ。
 そして、君はこれを持って、君の好きな人の所へいかなければならない。
 そうあるべきなんだよ。」
男は感情の高ぶりを押さえ込んで、精一杯平静を装って言った。
男は彼女に近寄ると、その手首をつかんで封筒を持たせた。
彼女は目をそらしていた。

「さあ、行くんだ。
 もう朝なんだよ。
 君は自由なんだ。」
男は本心では彼女を行かせたくなかったが、反対に彼女を急かせた。

彼女は出ていこうとして、半身に振り返って言った。
「じゃあ、どうして泣いていたの?」
男は答えなかった。

彼女は部屋を出ていった。
男は追わなかった。
扉が閉まると、体から力が抜けていくのを感じた。

男はよたよたとベッドに歩み寄った。
力無くベッドに横たわろうとすると、目に光が飛び込んでくるのを感じた。
鏡だ。
足下に置いてあるスタンド式の鏡が、蛍光灯を反射していた。

男は鏡を拾い上げると、なにげに自分の顔を眺めた。
そして驚いた。
自分の顔にも涙跡が残っているじゃないか!
男は彼女が自分をじっと眺めていたのを思いだした。
あるいは、はじめから気づいていたのだろうか。

実を言えば、男は死を考えていた。
彼女のことを思うと、すぐ死ぬわけには行かなかったが、出来るだけ早いうちに自分をこの世から消滅させたいと考えていた。
しかし、その考えは消え去った。
この世には、自分の弱さを知っている人がいる。
しかも、それは自分の最愛の人なのだ。
これからも生きていける。
男はそう思った。







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