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そして独りになった 2026_03_14-28



6つ上の兄は私より絶対に長生きする。
私はそう確信していた。
この体で長く生きられるわけがないと自分を評価しているだけでなく、兄は誰よりも体に気を使う人間だったからだ。
毎年のように人間ドックに入っていたし、3年に一回でいいですよと医者に言われても、そこを何とか!と頼み込んで大腸内視鏡を毎年やってもらうような人だった。
そういえば兄は子供の頃に、テレビでガンの番組を見て、医者に連れて行ってもらったこともあったな。
首のリンパ節がガンじゃないかと心配になり、リンパ節は誰にでもあると親が説得しても納得せず、泣いて医者へ行きたいと懇願したのである。
もちろん、なんともなかったが。
とにかく子供のころから死を異様に恐れる人だった。
あれほど生に執着を持った人間が早死にするわけがない。
私は我が一族の後始末を兄に押し付けるつもりであった。

しかし、その兄が死んだ。
3月9日に六十でその生涯を閉じたのである。




1.お盆

はじまりは兄からの電話だった。
それはちょうどお盆のこと、2年前の。
いま病院に入院している、大変なことになった、と知らせてきた。
私は意外だった。
だって、四日前に私が相続した実家に来たばかりだったから。
お盆が平日だったから、その前の週末に来たのだ。
その時は全く以って普通の様子であった。

電話をもらった翌日、私はお見舞いに行った。
そこで病の概要を知るのである。

最初の症状は黄疸だったそうだ。
多少馬力が出ないと感じることは以前からあったそうだが、明確な症状としては黄疸。
CTなどでその原因を調べたところ、胆管が圧迫されて詰まったからだとわかり、ステントを入れる処置をした。
ステントというのは管を内側から拡げる医療器具である。
それによって黄疸は治ったのだが、問題は何によって圧迫されたか、だ。
医者が言うには、十中八九膵臓がんだろう、という見立てだった。
膵臓がんが膨らんだことにより胆管を圧迫したのだ、と。
確定診断を出すには生検の結果を待たなければならないが、ある程度覚悟しておいてほしい、というようなことだったらしい。

この時点で、兄はもうすぐにも死ぬと言わんばかりの落胆ぶりだった。
元来生真面目な人なので、入院していてもスマホで膵臓がんをバッチリ勉強しており、ほぼ助からないと理解していたのだ。
これには私も参った。
兄が死んだら、私は独りになるのである。
この時の私はどうすればいいのか、全く分からなかったな。
兄の様子からはすぐにも死にそうに思えたので、私も焦っていた。
兄が生きている間に私は何をしなければならないのか?
真っ先に私が思いついたのは、実家の相続登記だった。


2.相続登記

とにかく何かしなければ、と私は思っていた。
入院している兄にしてあげることはこの時点ではなかったので、私は相続登記を片付けることにしたのだ。
というのも、13年前に相続してから登記を済ませていなかった。
兄が死ぬと、権利関係が複雑になりかねないので、今のうちにやっておこうと思ったのである。

最初は自力で登記するつもりであった。
兄は親からもらった家を自分で登記した、そんなに難しくない、と聞いていたから。
遺産分割協議書も当時ちゃんと作ったし。
しかしいざやろうと思っても、全然頭が働かない。
この時点では兄がすぐ死ぬと思っていたので、気が焦ってしまって、法務局のHPが読めないのである。
これはいかん、ということで、司法書士に相続登記を依頼した。
書類はほとんど揃っているので、これはすぐに完了した。
費用は7万円ぐらいだったと記憶している。


3.がんセンター

兄が最初に入院したのは、そこの地域では中心的な病院であったが、特にがんに強い病院ではなかった。
兄は確定診断が出る前に、隣県のがんセンターに通う手はずを整えていた。
県内にいわゆる「がん診療連携拠点病院」はあるのだが、少しでも生き残る可能性を高めたい、という必死の思いだったようだ。
実に兄らしい。

しかし、やや出鼻をくじかれた感もあった。
最初にやった生検が失敗していたのだ。
胃の内側から針のようなものを突き刺して、膵臓の表面をひっかくような格好で細胞を収集するそうだが、これが上手くいかなかったらしい。
担当したお医者さんはあんまりやったことがなくて、上手くいかないかも、と最初から言っていたそうである。
案の定であった。

結局、がんセンターで生検をやり直すことになった。
確定診断が下りるまで一か月ぐらいかかってしまったのだ。
そしてやはり膵臓がんであることは間違いなかったのである。

以下、がんセンターにおける診断や治療の前後は、私にはよくわからないところもある。


4.遺伝子検査

特定の遺伝子を持っている人だけに適用出来る治療があるんだそうだ。
検査に費用がかかる上に適合確率が極めて低いので、がんセンターでも特にお勧めはしていないらしい。
しかし兄は検査を受けることにした。
果敢にがんと闘う男だったな、兄は。

この遺伝子検査は私にとっても無関係ではなかった。
なぜなら私は兄と近い遺伝子を持っているからである。
この検査を受けると、がんにかかりやすい遺伝子を持っているかどうか、まで分かってしまうのだ。
検査を受けるにあたって、結果を知りたいかと兄に聞かれた。
私は、知りたくない、と答えた。
がんに怯えながら生きるのはまっぴらごめんだ。
子供たちにも重すぎるだろうということで、結果はお義姉さんだけが心に留めておくことになった。

検査の結果、やはり治療可能な遺伝子ではなかったそうである。
膵臓がんのタイプは、膵臓がんとしてはもっとも標準的ながん細胞で、遺伝子面で出来ることはないという話であった。
そして予定通り、がんになりやすい遺伝子を持っているのかどうかは知らされていない。


5.治験

兄ががんセンターで精密検査を受けて分かったことがあった。
それは手術できない、ということ。
膵臓には太い血管が通っていて、よほど運が良くないと手術できないんだそうだ。
外科医の見立てでは手術は無理とのことだった。

私はオブジーボのような「免疫チェックポイント阻害薬」に期待していた。
この治療法なら私にも兄にしてやれることがある。
この頃は株価が上昇して、私の金融資産は大きく膨らんでいたのだ。
治療費はいくらでも出してあげるつもりだった、私は。
遺産が減るのを心配して治療を放棄するようなことはさせない、と。

しかし、これも期待外れであった。
膵臓がんには免疫系の薬は効かないのだ。
少なくとも現在の知見では。
免疫系の薬はリンパを経由して効くのだそうだが、膵臓にはリンパが通っていないんだとか。
今までに何度も治験を行ったが効果なしだったそうだ。
これには私もがっかりした。

それでもまだ完全に諦めたわけでもないらしかった、お医者さん、あるいは製薬会社も。
オブジーボと放射線治療を組み合わせた治験を募集していたのである。
治験だから費用は掛からない。
兄はそれに応募した。
ホントに諦めない男だよ。
しかも当選したのである。

ところが、また希望は打ち砕かれる。
最終段階の検査で肝臓への転移が見つかり、治験は取りやめとなった。
治験を受けられるのは転移がない人だけ、という条件だったのだ。
これにより、治療手段はもはや抗がん剤だけとなった。
と同時に、兄のがんはステージ4であると診断されたのであった。


6.生前贈与

遺伝子検査の話を聞いた辺りだっただろうか。
私は姪たちに非課税枠に収まる範囲で生前贈与を行うことにした。
自分が将来病気になったときに、兄がいなかったら姪を頼るしかない、と思ったのである。
今のうちに関係を太くしておかないと。

これにはいろいろ理由を補強することはできる。
姪は二人とも成人しているとはいえ、まだ若い。
兄も未練が残るし、当人たちも不安だろう。
兄から保有資産を聞かされたが、思ったほど持っておらず、多少なりとも助けてやる必要がある、と思った部分もあった。
あるいは、お義姉さんとの夫婦仲があんまり良くないらしいので、兄への態度が多少なりとも改善されるのを期待する、といった意味も。

いろいろ理由をつけて、私は自分を納得させたのである。
正直言えば、やはりお金は惜しい。
それでも、やはりこれは必要なことであった。


7.抗がん剤治療 一種目

治験を受けられないことが決まってから、早速抗がん剤治療が始まった。
週一で抗がん剤を打って、3回やってから一週休む、というローテ。
このローテを3回1セットで行うことになったそうだ。
つまり12週で1セット。
1セットが終わるごとに血液検査やMRIを行い、効果がなくなるまで同じ治療を繰り返す。

この抗がん剤は必ずしも効くわけではなく、明確に効果が出るのは2割に過ぎないとのことだった。
しかし、どうも兄には効果があったらしく、この抗がん剤治療は何度も延長された。
おそらく1年ぐらいはやったんじゃないか。
ある意味、運のいいことではあった。

この間も兄は仕事を続けていた。
通勤も自分で車を運転していた。
幸いなことに副作用が小さかったようで、食事もまずまず普通にできた。
がんのせいで味覚が変わる、と文句をよく言っていたが。
抗がん剤のせいではなく、がん自体のせいで味覚が変わるという説があって、兄はそれを強く信じていた。
ホントなのかどうか私は知らない。

この時期はよく兄と外食に行った。
私はあまり外食が好きではないのだが、兄が食べられるうちに行っておかないと、と思っていたから。
なんせ私はもうすぐ兄が死ぬと思っていたのである。
しかし実は、担当医から余命1年ぐらいが目途と言われていたらしく、そんなにすぐ死ぬわけではなかった。
私はそれを知らない。
兄に誘われるかもしれないと思って、ずっと週末は空けていた。
もっとも何も予定はないのだが。
余命一年程度と宣告されていたことを私が知るのは翌年の3月あたりである。


8.姪の結婚式

上の姪にステディな彼氏がいるのは聞いていた。
だったら兄が生きているうちに結婚式でもやってくれればいいのに、と私は思っていたのである。
なんせすぐに死ぬと思ってたわけだから。
それを兄に言うと、そういうわけにはいかない、ときつめに言い返してきたのを覚えている。
自分の病のせいで子供の人生を狂わせるわけにはいかないという思いだったのだろう。

しかし、私がとやかく言うまでもなく、上の姪は結婚式を開いてくれた。
まだ籍は入れないが、式だけ12月にやってくれたのだ。
これは嬉しかったな。
ただ12月を迎えられるのか、と私は心配していた。
くどいようだが、私は余命1年を知らないから。

私の心配をよそに、兄は無事に結婚式を迎えることが出来た。
式も大変すばらしかった。
新郎も人当たりのいい男で、まずまず問題なさそうであった。
これで兄も思い残すことが一つ減ったことだろう。
私は何か一区切りついたような気がしていた。
しかし、実は全然だったのである。


9.緩やかに悪化

年を越すと目ぼしいイベントは何もなかった。
兄は暇があれば心残りをなくすように家族と出かけていたようだが、私はその辺をあまりよく知らない。
ただ確実にがんは進行していたようだ。
検査をするたびに少しずつがんマーカーの数字は上がっていった。
抗がん剤治療を受けるには免疫力の数値が一定を超えていなければならないのだが、なかなか上がらないので、薬で強制的に免疫力を上げたりもしていたようだ。

この時期、兄のために私が何かをした記憶はないのだが、一度病院にお見舞いに行ったことは覚えている。
無理がたたったのか、指からばい菌が入って右手がパンパンに腫れてしまったのだ。
ヘタしたら切断だと医者に言われたそうだが、幸いにしてそれは回避できた。
もっともそのせいで、抗がん剤治療を一時中断せねばならず、兄は非常に後悔していた。
免疫力が落ちているから仕方ないんだけどね。

この頃から兄は外食に行きたがらなくなった。
あんまり食欲がなかったらしい。
体力を維持するために無理して食っている感じ。

それでも仕事は続けていたし、車の運転もしていた。
週末になると、実家である我が家に来ることもしばしばあったな。
この頃の私に出来たのは、兄が喜びそうな食べ物を用意しておくぐらいだった、そういえば。
たまたま株主優待でもらった八天堂のクリームパンを気に入った様子だったので、通販で同じものや類似品を買ってみたりもした。
兄貴が来た時のために冷凍庫にストックしておいたのである。
それぐらいしか、してあげることはなかった。


10.死にそうにない

兄が私の家に来るのは主に病状を説明するためであった。
他には、自分が死んだ後について、私に何事か依頼することもあったな。
しかし、裏テーマとして家族への愚痴があった。

上の姪は極めてよくしてくれるんだそうだ。
転職して兄と同業者になったこともあって、関係が良くなったらしい。
外に連れ出してくれるのは大抵、上の姪だったようだ。
兄は本当に感謝していた。
上の子に報いてあげたい、と言うので、私が代わりに報いてあげると何度も約束したものである。

しかし、下の姪とは折り合いが悪かったらしい。
まだ若いから心が育ってない部分もあるんだろう。
そもそもお義姉さんと仲が良くないから、お母さんにべったりの下の子にもそれが移っているところもあったかもしれない。

がんの宣告を受けた後もお義姉さんは当たりが強いし、下の子はあんまり話してくれないとよくこぼしていた。
兄の中では、自分が死にそうになっているんだから、もっと優しくしてくれてもイイだろ、という思いが強かったのだ。
でも、死にそうだからといって急に優しくなれるほど出来た人間はそんなにいない。
病気になるまで放っておいたんだから自業自得だと私は思っていたし、いつもそう言っていた。
愚痴に関してはほぼ取り合わなかったと言っていい。

しかし一方で、私は兄が愚痴を言うのを聞いてやや安心していた。
これはまだ死なないなって。
母が死ぬ前には「自分は傲慢だった」と言って、ずっと反省ばかりしていたから。
愚痴を言っているうちはまだ死なないだろう。
わざわざ実家まで愚痴を言いに来る兄を見るたび、まだまだ大丈夫だと私は安心するのであった。


11.セカンドオピニオン

いつだったか忘れたが、兄はセカンドオピニオンをもらいに横浜?のがんセンターに行った。
どうも誰かに名医を紹介されたらしく、行かずにはいられなかったのである。
ひとりで行くのは不安なので、渋るお義姉さんを説得し、泊りがけで行ったようだ。
ホントに兄は生きる可能性をずっと探していたな。

行く理由としては、今の担当医がいまいち親身になってくれない、というのもあった。
前回の診察を全然覚えていなかったり、説明が適当だったりで、ちょっと不信感を持っていたのである。
考えてみればがんセンターのお医者さんは研究者だから、治験をやらない患者のことなどあんまり興味がなかったのかもしれない。

しかしながら、横浜の専門医の見立ては、担当医の治療方針は正しい、というものだった。
資料を見る限り、他にやりようがない。
今やっている抗がん剤が効かなくなったら、少なくとももう一種類の抗がん剤まではやった方が良い、という診断であった。
結局のところ、やはり生きるすべは残されていなかった。
兄は相当ガッカリして帰ってきたそうである。


12.誕生日

私は誕生日を目出度いと思ったことがない。
これは子供のころからずっとそうだな。
自己分析するならば、親が共働きで誕生パーティーなどを開いてもらったことがないので、自己防衛のために目出度いと思わなくなったのかもしれない。

当然今もお祝いなどするはずもないのだが、兄は毎年私の誕生日にメールを送ってくる。
実家に戻ってきてからずっと。
私は兄に送らないのに。
そういえば、去年は倒れる直前だったから、お祝いのメールを貰っても特になんとも思わなかったな。
今年もメールは届いたが、例年にも増して丁寧な内容であった。
それを読んで、これで私の誕生日を祝うメールが届くのは最後か、と感慨深いものがあった。
だって、あと一年以上兄が生きている可能性は極めて低いし、他に送ってくれそうな人はいないのである。
そう遠くないうちに私は本当に独りになるのだと実感せずにはいられなかった。


13.寂しがり屋

夏頃になると、兄の体調は見るからに悪化していた。
休みの日はずっと寝ているらしく、私のところにも滅多に来ない。
それでもまだ仕事は続けていたので、きっとまだ大丈夫なんだろう、と私は思っていた。
車も自分で運転してたしね。

そうして日々が何となく過ぎて行って、9月も後半になった頃のことである。
お義姉さんから電話がかかってきた。
親と子供たちを連れて大阪万博に行くので、もし何かあったら家に来てあげて欲しい、という依頼であった。
お義姉さんの親御さんは二人ともかなりご高齢で、しかも兄弟は二人とも大阪に住んでいて、実質お義姉さんが面倒を見ていると兄から聞かされていた。
もう今しかないという判断だったのだろう。
これが孫との最後の旅行になりそう、とのことだったので私は快く依頼を引き受けた。
ただし、兄に呼ばれなければ行かなくていい、とも言われていた。

しかしながら、当日私は兄に呼ばれた。
相当体調が悪いから来てくれ、と電話がかかってきたのである。
私はタクシーで兄の家まで行った。
兄の家に行くのは実に十数年ぶりの事であった。

行ってみると、兄はぐったりとしており、ほとんど動けなかった。
私を呼ぶより救急車を呼んだ方がいいのではないかと思ったぐらい。
しかし、喋っているうちにだんだん元気が出てきた。
自分で起き上がってキッチンまで行って、食事を摂るぐらいまで回復した。

私の見たところ、どうやら自分だけ置いて行かれたことによる精神的なダメージが大きかったようである。
兄は昔から寂しがり屋だった。
大学に入学して最初のゴールデンウィークに東京から帰ってきたこともあったな。
ホームシックにかかっていたらしくて。
私と喋ることによって気分が晴れたのだろう。
ずいぶんと調子が良くなったので、私はほんの3時間ほど滞在しただけで帰った。
まだ大丈夫そうだと思えたのである。

しかし、この時ちょうど1年が経過していた。
余命1年の宣告を受けてから。
やはりその時は確実に近づいていたのである。


14.抗がん剤 二種目

夏を過ぎると、検査のたびに兄のがんマーカーの数値は等比級数的に増えていったようである。
一種類目の抗がん剤はもう効いてないという診断が出た。
二種類目の抗がん剤へと切り替えるときが来たのである。

しかし、このタイミングでまた治験の募集があったようだ。
今度は新薬の。
担当医からは、あんまり期待しない方が良い、ほぼボランティアだと思って欲しい、と言われたそうだが、それでも兄は応募した。
残念なことに落ちてしまったが。
この時も兄はかなり落胆していた。
でも私はその方が良いと思っていたし、兄にもそう言っていた。
新薬の治験なんて滅多に効かないから。
普通に治療した方がマシだよ。

そういった事情で、二種類目の抗がん剤を投与することが決まった。
正確な時期は分からないが、10月ごろになって抗がん剤治療の準備のために短期入院したようだ。
二種目の抗がん剤を投与し始めるところまではがんセンターで行ったが、その後、地元の病院に転院した。
地元の病院といっても、兄の家から10kmほど離れたがん診療連携拠点病院に、である。
兄はまだベストを尽くすつもりだったのである。
ホントに生きることを諦めない男だったな。

ただし、このタイミングで仕事は本格的に休職することになった。
確か10月の終わりぐらいだったと思うが。
それまで休み休みながらも出勤し続けていたが、いよいよ無理だと判断したようだった。
もう戻ってくることはないので、荷物を片付けて、同僚たちに挨拶して回ったそうである。
これは相当辛かったと言ってたな。
38年近く勤めてきて、定年を待たず、自分で終わりを決めなければならなかったのだ。
私みたいに14年で辞めてしまった人間にはわからない辛さであっただろう。


15.母の命日

11月23日は母の命日である。
実家を私が相続したので、神棚にお参りするため、大抵は兄家族が我が家にやってくる。
夫婦仲が特に悪い時期などは一人で来ることもあったが。
今回はお義姉さんと上の姪を連れて三人でやってきた。

この時の兄はまだ自分で歩いていた。
ただし、玄関の段差を自分で乗り降りするのはちょっと難しい、というぐらいの弱り具合。
私の印象としては、まだしばらく大丈夫なのかな、と思っていた。

この日、一番印象に残ったのは上の姪の健気さである。
兄が病状を説明する中で、お義姉さんには迷惑をかけて申し訳ない、という話をした時の事。
上の姪が、家族なんだからそんなこと当たり前よ、迷惑でも何でもないわ、ねぇお母さん!と力強くフォローした。
おそらく夫婦仲が悪いことを私に悟られたくなかったんだろうな。
まったくよく出来た子だよ、この子は。
この子がいてくれてホントに良かったと、改めて思ったものである。

ほんの1時間ほどで兄家族は帰った。
私は兄を見送りながら、まだまだ実家に来れそうだな、と考えていた。
あと一か月ちょいで正月なのである。
何なら通院の途中に寄ってもいいわけだし。(兄の家と病院の中間地点に実家はある)
しかし、これが意外と難しかった。


16.伯父の葬式

11月の終わりごろに母方の伯父が亡くなった。
90歳を超えていたので、亡くなったこと自体は不思議ではない。
だが、タイミングはあまりよくなかった。
兄のところへ連絡が来て、病気のことが親族に知られてしまったのである。
兄はあまり知られなくなかったようだが。

それは仕方がないが、今の兄に葬式は無理である。
私が代わりに行くことになった。
四十九日も私が行った。
今まで兄にやってもらっていたことを、これからは私がやることになるのである。

父方は全員亡くなったが、母方はまだ4人存命だから、少なくともあと4回は行かなければならない。
まあでも、そんなにイヤでもなかったな。
母方の人間はいい人ばっかりだから、むしろちゃんと送り出さなきゃいけないと私は思うのであった。


17.最後の実家

二種類目の抗がん剤には目立った効果がなかったようだ。
がんマーカーの数字は計測する意味がないほどの数値になっていったらしい。
相当しんどかったらしく、病院の帰りにうちに寄ることもなかった。

それでも正月にはお参りに来る、とメールが来たのである。
私は兄一家が来るのを待っていた。
しかし、これは直前で取りやめになった。
家族の協力が得られなかった、お前が言うところの自業自得だ、と兄が連絡してきたのである。
もうすぐ死ぬのに実家に連れて行ってくれない環境もなかなかハードだ、と気の毒に思ったな。
上の姪は結婚して家を出てしまったので、味方がいなかったのだろう。
となると、もう実家には来れないのかもしれない、と私は覚悟していた。

しかし、である。
なんと1月20日になって、いまから行く、と兄からメールが来た。
それも車を自分で運転してくる、というのだ。
マジかよ!タクシーにした方が良いんじゃないのか、と返信したが、今日は気分が良い、近所を練習がてら回ってみたが全然大丈夫、と言ってホントに車で来てしまった。
それも一人で。
子供のころから車が大好きだったから、運転したかったんだろう。

この日はホントに元気に見えた。
かなり病状は悪いと聞かされたが、そんな感じでもなかったな。
これならまだ大丈夫かもしれないと思った。

せっかく来たので神棚にお参りをして、小一時間ほどで兄は帰っていった。
しかし、結果的にはこれが最後の実家になった。
この時の私には想像できなかったが。


18.諦めない

兄が実家に来た翌日のことである。
兄から三種類目の抗がん剤をやることになった、とメールが来た。
二種類目よりも期待薄だが希望すればやってもいい、と主治医から提案があったそうで、兄はやることにしたそうだ。
どこまでも諦めない男だった、兄は。

だが、スタートを一週間遅らせたらしい。
提案があった日から即入院して投与を開始しても良かったらしいが、来週からにしてもらったそうだ。
ここで入院してしまったら、もう退院できないかもしれないから、と書いてあった。
私は大いに結構な話だと思った。
抗がん剤で苦しむよりも、ここまで来たら平穏に暮らした方が良いんじゃないかと思っていたから。

その後しばらく連絡がなかった。
2月の10日あたりになって、やっと兄から電話が来た。
どうも治療が芳しくないから、一度面会に来てくれ、という内容だった。
お義姉さんと相談して面会する日を決めて、また連絡する、と言って兄は電話を切った。
しかし、その後全然連絡が来なかったのである。
胸に水が溜まってるのを抜くと言ってたから、その影響で面会できないのかな、と私は想像していた。

次に兄からメールが来たのは2月21日の事。
「諦めかけてたけど諦めるのやめて、リハビリに取り組んでます
 退院を目指し奮闘中」
と書かれていた。
なんという頼もしい兄なのかと私は驚嘆していた。
このメールを受け取って、まだしばらくは大丈夫なのだろうと私は思っていたのである。


19.3月5日

その後、兄から二度ほどワン切り電話があった。
その都度こちらからかけなおすと二度とも、操作ミスだ、と言っていた。
手が思うように動かなくて、一番上にある私の番号を押してしまう、というような説明だったのである。
この時の声は比較的しっかりしていたので、私はむしろ安心していた。
まだ大丈夫なんだろう、と。

しかし、3月4日の夕方ごろになってお義姉さんから電話がかかってきた。
ここ数日で急速に衰えてきて、だんだん話せなくなっている、担当医からも今のうちに会いたい人に会っておいた方が良い、と言われたとのことであった。
翌3月5日の夕方ごろに私は面会しに行った。

部屋に入ると誰もおらず、私と兄の二人きりであった。
兄はガリガリに痩せおり、鎖骨が完全に浮いていた。
閉じかかった目を時々ギョロっと開く当たり、かなり苦し気な様子が窺えた。
その姿を見て私は涙をこらえきれなかった。
今までは兄の前では泣かないようにしていたのに。
女性陣がみんな泣いちゃって話にならないと兄が言っていたので、私まで泣いてはいけないと思っていたのである。
しかしもう我慢することもないであろう。
ハンカチは涙と鼻水でびしょびしょになっていった。

この時の兄はまだ少し話すことが出来た。
話したいのに思うように話せなくて歯がゆい、というようなことを言っていたな。
強い痛み止めを打っているせいか、話す内容は取り留めもない感じだったが。
一応話しているし、看護師さんを呼んで話しやすいように首の位置を変えてもらったりしていたので、すぐに死ぬという印象は持たなかった。
一時間ほど話すと疲れた様子だったので、私は帰ることにした。
また来るから、と告げて。
後から思えば、もうちょっと話しておいた方が良かったのかもしれない。


20.3月7日

次にいつ面会に行くか。
土曜(7日)か日曜(8日)、どっちにしようかな、などと私はまだのんきに考えていた。
まだ行くと決めていなかった7日の朝方、少し外が明るくなってきたころに私は尿意を催して目が覚めた。
就寝中に一度トイレに行くのはいつものことである。
トイレで放尿しているうちに、つい自分の死を想像してしまい、急に頭から血の気が引くのを感じた。
これはヤバイ、早くベッドに戻らなければ、と思ったが、トイレを出たところで倒れてしまった。
受け身も取れずに、崩れ落ちてしまったのだ。
幸いにして、狭い廊下の壁にもたれかかるように倒れたので、あまりダメージはなかったが。
床にぶつかった衝撃で私は正気を取り戻し、すくっと起き上がると、今日面会に行くと決めたのだった。
やり残すことがあってはいけないと思ったのである。

夕刻になって、私はまた面会に行った。
すると今日はお義姉さんと上の姪が既に来ていた。
面会というより、この日はずっといたらしい。

兄はもうほとんど話せなくなっていた。
私がいる間に短い言葉を数語発しただけである。
それもまだ話は理解できている様子であったが。

この段になって私は兄の近況を知ることが出来た。
本当は退院するつもりだったようである。
いったん退院して、在宅介護を受けつつ出来るだけ家で過ごして、ギリギリになったら緩和ケア病棟のある近くの病院に転院するつもりだったそうだ。
在宅介護の手はずも整えていた。
しかし、胸水を抜いてから急激に体力が落ちて、退院できなくなってしまったのである。
以前から水を抜くと体力が落ちるから極力抜かない方が良い、と主治医から聞かされていたが、いよいよ抜くしかなくなり、抜いたら案の定弱ってしまった、ということのようだった。

私は兄に向って、一回退院しようぜ、と努めて明るく語りかけた。
途中で実家にも寄ってくれよ、子供のころからずっと咲いている山茶花もまだ咲いてるからさ、などと話して元気づけようと思ったのである。
お義姉さんも、月曜日に退院できるか主治医に聞いてみます、というので、それを頼りに帰ることにした。
私はまだそこまで切迫しているとは思っていなかったのである。
思いたくなかったというべきかもしれないが。


21.3月9日

月曜日の朝になって、お義姉さんから電話がかかってきた。
どうやら退院とかそういうレベルではなかったそうだ。
大量の血便が出ており、もう検査しても意味がないだろう、最後を覚悟すべきタイミングだと宣告されたようである。
この日も私は夕刻に面会に行った。
部屋に入ると、やはりお義姉さんと上の姪が付き添っていた。

この日の兄は全く話すことが出来なかった。
どうもお腹が痛いらしく、無意識にお腹をさするようなしぐさばかりしていた。
あまりにも苦しそうなので、何とかしてもらえないかと看護婦さんに訴えて、かなり強いモルヒネのような薬を注射してもらった。
私の母の頃は直腸に注入していたが、今はシール状の鎮痛剤を使ったり、それでも効かなければ皮下注射になるんだそうだ。
つまり最終手段のような強い鎮痛剤を打ってもらったのだろう。
その後、少し落ち着いた様子になった。

私にはできることがないと思い、いったん帰らせてもらった。
そのあと、二人もそれぞれ家に帰ったそうだ、後から聞いたところによると。

私がいつもと同じように夕食を食べ終えてくつろいでいると、21時40分ぐらいに上の姪から電話がかかってきた。
当直の看護婦さんから、脈が正常に計測できなくなっているから今すぐ来た方が良い、という連絡が来たそうだ。
上の姪の新居と私の家は近いので拾っていってくれるという。
迎えに来てくれた車は旦那が運転していた。
足が震えて自分では運転できそうにないから旦那に頼んだのだそうだ。

病室に着いた時、お義姉さんと下の姪はまだ到着していなかった。
上の姪が泣きながら兄を励ましていると、計測器の心拍数が落ちてきた。
これはヤバいと思って、下の姪とお義姉さんがこっちに向かってるからもう少し頑張れ、と声をかけると心拍数の数値が戻った。
声は届いていると私は思ったな。

10分ほどすると下の姪とお義姉さんが病室に入ってきた、見知らぬ男性を連れて。
パッと見、ホストかなって感じの若者だった。
極細の黒のパンツを履いていて、体育会系である私や上の姪の旦那とは人種が違うような感じがしたな。
お義姉さんは兄にすがるような態勢で、こちらが下の子とずっとお付き合いしている○○さん、下の子を大事にしてくれるから安心して、と叫ぶように何度も語りかけた。
後で聞いたところによると、前からずっとお付き合いしているけど兄が絶対喜ばないタイプだから紹介してなかったんだそうだ。
最後のチャンスだから、ということで連れてきたようである。
正直言って、あれで安心できるかと言えばそうではない気がするが、聞こえているのであれば気休めにはなったかもしれない。

各々が伝えたいことを言い終えたタイミングで看護婦さんが入って来て、おそらく今晩だと思うのでご家族はお泊りなった方が良いだろう、と伝えてきた。
そこで、血縁ではない二人には帰ってもらうことにして、お義姉さんと二人の姪、そして私の4人でその時を待つことになった。

私は泊まり込むことを覚悟していたが、意外にもその時は早く来てしまった。
22時20分ぐらいにつばを飲み込むようなしぐさをした後、自発呼吸が止まってしまったのである。
自発呼吸が止まっても法的にはまだ死んでいない。
計測器のアラームが鳴り続ける中、看護婦がやってきて兄を見るとすぐに、医師を呼びますのでお待ちください、と言って出て行った。
我々は医師を待った。
だが来ない。
緩和ケア病棟じゃないから、救急患者がいれば後回しになっても仕方ないよね、などと話しながら私たちはさらに待った。
でも来ない。
30分待っても来ないのでベッドわきのマイクでナースステーションに問いかけると、主治医がこちらに向かっているのでもうしばらくお待ちください、とのことだった。
当直医じゃなくて主治医が家から来るのか!とちょっと驚いた。
誠実な感じがして好印象ではあったが。

主治医を待っている間、兄の思い出話などをして過ごした。
その中でお義姉さんが、寂しくなりますね、と言ってきたので、私は、うちの人間は僕だけになっちゃいましたね、と応じた。
すると兄に覆いかぶさっていた上の姪がばっと起き上がり、私たちがいるから大丈夫、家族だと思って!とすごい勢いで語りかけてきた。
その勢いに驚いて私は思わず、頼りにしてるで、となぜか関西弁で答えてしまった。
なんというよく出来た人間なのか、と上の姪に感心する半面、兄の用意周到さにも私は舌を巻いていた。
私に姪たちのことを頼んだように、私のことをも頼んでおいたのだろう。
ホントに抜け目のない男だった、兄は。

結局23時50分過ぎになってようやく主治医が到着した。
最終的には23時59分だったか、ついに死亡宣告がなされた。
これで兄の生涯は法的にも幕を閉じたのである。
こうして私は独りになった。


21.結び

3月11日にお通夜、12日に葬儀が営まれた。
兄の友人や職場の同期・同僚たちがたくさん泣いてくれた。
羨ましいことだ。
最後にそれまでの行いがこういう形になって表れるのである。

葬儀が終わると、私の日常は元に戻った。
週末を空けておく必要はないし、PCのメーラーを常に開いておく必要もない。
兄が喜びそうな食べ物を通販サイトで検索することもなくなった。
やるべきことが何もない日々に戻ったのである。
自由になったと言ってもいい。
それでも、兄が倒れてからの1年7カ月の方が充実していたような気はしている。
家族が生きていてくれる、ただそれだけで有り難いことであった。


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