「言葉」。 そこにある言葉は間違いなく一つの言葉である。 しかしながら、それは決して一つではない。 どんなに心を込めて書いても伝わらない。 私はそう感じたことが今までに何度もある。 一字一句余すところなく書いているつもりなのに、自分の思いは伝わらないのだ。 どうしてなんだろうか? 言葉というものは、少なくともこうして文章に書いている限り、目に見えるままに定まっている。 ところが、読み手の中に入っていく過程でそれは一意ではなくなってしまうのだ。 それは「その言葉をどう捉えるか」が読み手に依存してしまうからである。 例えば「愛」という言葉に、純粋さを感じる人もいれば、うさん臭さを感じる人もいるわけだ。 それはその人がそれまでどう生きてきたか、あるいはその言葉とどうつき合ってきたかという経験によって変わってくるのだろう。 私達はそういう不安定な言葉の世界に生きている。 私は、なぜ『ハンドレッドソード』というゲームにこれほど自分が惹かれているのか、それを確かめたいと思って、このところ2周目に取り組んでいた。 プレイしながら私は、登場する人物のセリフ一つ一つを噛みしめるように読んでいる自分に気が付いたのだ。 時に私はエロールとなり、自分に向かって「こうなっちゃいかんぞ」と呟いていた。 時に私は少女王となり、現実をどう生きるべきかを考えていた。 そして、時に私は少年王となり、日々汚れていく自分を忌まわしく思った。 積み重ねていく小さな嘘。 それを許す自分。 それ許す周囲。 そうせざる得ない社会。 それを潔しと出来ないでいながら、それでいて従っている自分。 私が感じていた『ハンドレッドソード』の物語の素晴らしさは、結局私が感じていた自己矛盾である。 おそらくそれは『ハンドレッドソード』というゲームが開発当初に目指していた方向性ではなかったろうし、発売された今となっても違うであろう。 『ハンドレッドソード』の開発コンセプトは、「ネットワーク対戦の出来るウォーシミュレーションを低予算で」であったろう事は想像に難くない。 私が感じている『ハンドレッドソード』評は私だけのものなのだ。 しかし、 「では、あなたはどうなんですか? どう思われたんですか?」 私はそんなふうに問いかけてみたくなるのである。 「このゲームの言葉から何を導き出すのですか?」 |